義の尺度

父がその子をあわれむように 主は私をあわれまれます

次のヨブの言葉は驚きです。彼はここで、自分には非がない、犯していない罪を列挙しています。しかし、多くのクリスチャンは、これらの罪を犯している可能性があります。

「もし、私が弱い者たちの望みを退け、やもめの目を衰え果てさせ、私一人だけでパンを食べ、みなしごにそれを食べさせなかったのなら」(ヨブ31:16-17)。

ヨブが挙げた、三つのグループ「弱い者たち(貧しい人々/新共同訳他)、やもめ、みなしご」に注目してください。つまり、ヨブは、「彼らのためになすべきことを私がしなかったのなら、私は罪人であって、自分の基本的な義務を怠ったことになる」と言ったのです。彼はこう続けています。

──実は私の幼いときから、弱い者は私を父のようにして育ち、私は生まれたときから、やもめを導いた── あるいは、もし私が、着る物がなくて死にかかっている人や、身をおおう物を持たない貧しい人を見たとき、その人の腰が私にあいさつをすることも、私の子羊の毛で彼が暖められることもなかったなら、あるいは、私が門のところに助け手を見て、みなしごに向かって手を振り上げたことがあったなら、私の肩の骨が肩から落ち、私の腕がつけ根から折れてもよい。                                     (18-22節)

ヨブは食べる物や着る物がない人たち、世話をしてくれる家族がいない人たちの世話をしなかったのではありません。彼は、もし自分の腕があわれみと与える行為をやめてしまうぐらいなら、その腕は折れてもよい、と言っています。彼の視点は、現代の大半の人々の視点とは全く異なります。これは、モーセの律法のずっと前、福音のずっと前のアブラハム、イサク、ヤコブなどの族長時代の義の標準でもありました。神は、未亡人、孤児、また衣食住に困っている人々の世話をすることによって、教会の中にこのような義を回復することを求めておられます。

【祈り】 主よ、あなたが私をとても大切に思ってくださっていることを感謝します。神さまは、助けが必要な人々の世話をすることで、教会の中に義を回復することを私に求めておられます。父がその子をあわれむように、主は私をあわれまれます。アーメン。

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