自分を無にする

互いに注意を払おうではありませんか 

パウロは、ピリピ人への手紙2章で、イエスの模範に倣うべきだと言っています。私が考えるに、私たちの態度は私たちの対応を決定づけ、その対応は結果を決定づけます。私たちは、次のような態度を身につけましょう。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2:5-7/新改訳第三版)。「仕える者」と訳されている語は、ギリシャ語では「奴隷」を意味します。つまり、すべてのものの主であるイエスが自ら、ご自身を無にして、仕える者、奴隷となられたということです。私たちもその態度に倣う者とならなければなりません。パウロは、ガラテヤ人への手紙でも同様のことを美しい文章で書き記しています。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉働く機会としない〔自分の肉的、利己的な願望を満たすのではなく〕で、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(ガラテヤ5:13-14)

他の人に目を向けることは、肉的な性質におぼれたり、利己主義に屈したりすることから自分自身を解放する方法です。愛をもって互いに仕え合いましょう。聖霊は現代の神の民に、この愛と、無私の態度を強調していると私は信じます。多くの人が主に仕えることについて語りますが、周りにいる信者に仕えていません。仲間の信者に喜んで仕えようとしない人が、実際どれだけ主に仕えることができるでしょうか。主はご自身のからだの各器官である私たちのところにやって来られます。主のからだの部分である仲間の信者たちに対する私たちの態度は、主ご自身に対する私たちの態度でもあるのです。

【祈り】

主よ、私が他の人を愛することを助けてくださることを感謝します。私は、主に仕えるように仲間のクリスチャンにも仕えることを宣言します。私は他の人に注意を払います。アーメン。

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