ぶどうの木のいのち

私は信仰によって義とされました 

人生の中にイエスを得ている重要性を説明するために、イエスはぶどうの木と枝についてのたとえを用いました。(ヨハネ15:1-8。)5節でこう言っています。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」イエスは非常に具体的に語り、全体像を解釈する際のヒントを与えてくださいました。イエスご自身がぶどうの木であることです。ぶどうの木が生きて実を結ぶには、樹液が必要です。樹液は、根から幹を通って枝に流れ込む栄養源です。しかし、もし樹液が枝まで行き届かなければ、枝は枯れ、実を結ぶことができません。ぶどうの木のいのちの鍵は樹液で、それは聖霊を表しています。ローマ人への手紙8章10節でパウロはこう言っています。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。私たちは、自分の罪のゆえにキリストの死を経験しました。しかし、キリストの死を経験した私たちは、信仰によって与えられたキリストの義のゆえに、キリストのいのちに入るのです。(ローマ6:6-8参照。)そして、キリストの義を得ていることで、私たちはキリストのいのちを共有するのです。それは、ぶどうの木の根から幹を通って枝へと流れるいのちです。パウロは、ローマ人への手紙8章10節で、そのいのちは聖霊であると言っています。御霊はいのちです。

【祈り】

イエスさま、あなたの犠牲を感謝します。私は、ぶどうの木のいのち、つまり聖霊が私の内に流れていると宣言します。私は信仰によって義とされました。アーメン

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