放蕩息子を迎える

御父は、愛をもって私をご自分の息子、娘にしようと定めておられました。

ルカの福音書15章11ー32節で、イエスが弟子たちに語った「放蕩息子」のたとえに描かれている中心的な真理を振り返ってみましょう。その父親は、自分の息子が家に戻ってくるのを外で待っていました。他の人が「息子さんが帰って来ました」と伝える必要はありませんでした。なぜなら、最初にそのことを知ったのは父親だったからです。家族の他の者たちが知る前に、父親はすでに息子が帰ってきたことを知っていたのです。

キリストにある私たちに対する神の思いもそれと同じです。私たちは拒絶されていません。私たちは低く見られてもおらず、ただのしもべでもありません。放蕩息子は帰って来る時、自分は父の家のしもべになろうと考えていました。しかし、父親はそれを聞き入れませんでした。それどころか、こう言ったのです。

急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。(ルカ15:22-24)

その放蕩息子を迎え入れることに、家中の者たちが驚きました。

同じように、イエスも、「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです」(7節)と言いました。それが、キリストにある私たちを歓迎する神の方法なのです。

【祈り】

父なる神さま、私があなたの子どもとされていることを感謝します。神さまは、キリストにある私を歓迎し、私が生きていることを喜んでおられることを宣言します。御父は愛をもって、私を息子、娘として私をあらかじめ定めてくださっていました。アーメン。

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