回復させる

デレク・プリンス
Published: 2009
Last Updated: 2026年9月
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この手紙の中で、デレクはイスラエルと教会の回復について語っています。彼は「枯れた骨の谷」の物語を用いて、その回復が旧約聖書ですでに預言されていたことを示します。さらに、骨、靱帯、筋肉、肉、皮膚といった身体の各部分の役割を用いて、キリストのからだ(教会)がどのように機能するのかを説明しています。
今の時代は、これまで正確に明らかにされてこなかった、イエス・キリストが天から地へと戻って来られる、「すべてのものの回復の時期」のクライマックスに近づいています(参照:使徒の働き 3:19-21)。現代の状況には様々な要素があり、そのすべてが、私たちがすでにこの時代に入っているという事実を示しています。
回復は 2 つのおもな活動を暗示します。正しい場所と、正しい状況の中に物事を戻すことです。この神の回復のプロセスはおもに、地上にいる神の契約の 2 つの民であるイスラエルと教会を中心とします。何世紀もの間、イスラエルは異郷の者としてさまよい、地中海の東端の神が与えた地理的相続地から離れていました。ほぼ同期間、イエス・キリストの教会は神が与えた霊的相続から遠く離れ、類似した異郷生活を送ってきました。霊的相続のおもな要素は、一致、権威、秩序あるコミュニティ生活、エペソ 4:11 にある完全な働き、御霊の賜物の満たし、御霊の実の豊かさです。
旧約聖書の時代、教会は未知のものでした。大昔から何世代もの間隠されてきた奥義で、その後新約聖書の使徒たちと預言者たちに明らかにされました(参照:エペソ 3:3-9、コロサイ 1:25-27)。ですから、旧約聖書には教会に関する直接的な預言はほとんどありません。
そうではあっても、正しく理解するとき、旧約聖書の預言は教会の回復の期間について多くのことを語っているのです。イスラエルの回復について自然界で明らかにされるすべての原則は、霊的領域での教会の回復に等しく適用できます。私たちがこの解釈法を用いるとき、自然界でのイスラエルの回復と霊的な教会の回復は、20世紀の初めから今日に至るまで一歩ずつ、段階的に並行して進んでいることが非常に明確に理解できるのです。
干からびた骨の谷
イスラエルと教会の回復を非常に明確に予見した一つの預言は、エゼキエル 37:1-10 の干からびた骨の谷の幻に見られます。
「主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満 ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく 干からびていた。主は私に仰せられた。『人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。』私は答えた。 『神、主よ。あなたがご存じです。』主は私に仰せられた。『これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主 のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れる ので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中 に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。』私は、命じられたよう に預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に 息はなかった。そのとき、主は仰せられた。『息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主 はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がっ た。非常に多くの集団であった。」
この幻の初めで、神の民は干からび、ばらばらに散らばった骨として描かれています。回復の 2 段階がそのあとにあ ります。最初の段階は、超自然的に骨と骨が互いにつながりました。そして筋、肉、皮膚がその骨の上をおおいまし た。この段階の最後でそれらのからだは、肉体的には完全でしたが、その中に息はありませんでした。次の段階で、 息(霊)がからだの中に入り、彼らは自分の足で立ち上がりました。そして、第二段階の最後で、「非常に多くの集団」 という神の最終目的が成し遂げられました。
このイスラエルの回復の幻において、始まりと計画は神からのものでしたが、その変化をもたらすための人間の道具 として神はエゼキエルを用いました。これは教会にも等しく当てはまります。回復は、聖書ではっきりと預言されている 神の絶対的な目的です。しかし、神はそれを行なうためにご自身で人を選び、立たせ、用いられます。
このエゼキエルの預言の幻は、2 つの形をとります。一つは、エゼキエルが骨に直接語というものです。これは、メッ セージすることに当たるものでしょう。エゼキエルはからだのために息(霊)に預言し、霊がからだの中に入りました。こ れは、とりなしの祈りに当たるでしょう。
関節の重要性
キリストのからだにおいても同様に当てはまる、関節が正しくつながることの重要性は、新約聖書で強調されています。エペソ 4:15-16でパウロは、私たちに対する神の目的は、私たちが「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」と言っています。
パウロは、ここでその関節(結び目)には2つの目的があると言っています。第一に、固く強いものにさせる結び目です。からだの個々の骨がどれほど強くても、効果的に機能する能力は、それらの結び目の強度にかかっています。もし、重圧や圧力によって関節が崩れるなら、からだ全体は弱く役に立たないものになってしまいます。第二に、関節は通り管です。もし、これらの通り管が詰まって機能しないなら、からだのすべての必要は満たされません。
初代教会において、関節(結び目)には秩序があり、その結果、「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。」(使徒 4:34)のです。これは、現代の教会には見当たりません。神の備えは、決して変わることはありません。神はなお、「あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(IIコリント 9:8)。しかし、不完全、あるいは不適切な結び目のゆえに、今日の多くのクリスチャンは受けるべき神の備えを受けていません。霊的、感情、身体的、経済的、社会的などの生活の様々な領域で欠乏している人が私たちのうちに多くいるのです。
コロサイ 2:18-19でパウロは霊的な誤りに陥った信者について語っており、それが起こったのは、彼らが、「かしらに堅く結びつくことをし」なかったからであり、それは、「このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられる・・・」からであると説明しています。
パウロはここで、誤りから守られるための2つのおもな条件を述べています。第一に、かしら(キリスト)に固く結びつくこと、第二に、信者同士が関節と筋によって、固く結びつくことです。個人的なキリストと私たちの関係は最優先ですが、それだけでは不十分です。神がからだに組み入れてくださった他の信者たちとの関係が正しく建て上げられなければなりません。
契約の筋(絆)
人間のからだの筋は骨が組み合わさっている箇所で、骨同士を支える筋の集まりです。このように、どのような関節の強度も、それをともに支える筋以上の力はありません。キリストのからだにおいて、関節は神がともに組み合わせた信者間の人間関係です。しかし、それぞれの関節を強く確かに保つために必要とされる筋とは何でしょうか。それは、責任の契約であると私は信じます。
聖書には、単なる複数の人間が通常の平凡な生活での同意や契約の例が見られます。例えば、ラバンとヤコブ(創世記 31:43-54)、また、ソロモンとヒラム(I列王記 5:8-12)などです。しかし、神が最初の当事者である、さらに崇高な契約の形があります。このような契約は、神ご自身によって始められ、その後人間の集団に受け入れられ、結ばれます。旧約と新約の両方の契約はこの部類に属します。このより高い意義において、私たちは契約を、「神ご自身から始まり、人間に受け入れられ承認された、神と人との間の厳粛で対等な責任」と定義できるでしょう。
そのような契約において、それぞれの集団には明確に定義された義務があります。古い契約、新しい契約の両方において、神はご自身の契約の民を救い、守り、与えることを自らに義務付けました。しかし、その 2 つの契約下における私たち人間の側の義務は異なっていました。古い契約の下では、私たちの義務はモーセの律法を守ることでした。新しい契約の下では、私たちの義務は主イエス・キリストを信じ、従うことです。
聖書に描かれているセム族の中で2つのグループが契約を結ぶ通常の方法は、厳粛な食事を共にし、取り分け、一つのパンを裂き、一つの杯から飲むことでした。このことから、一つのパンを裂いて食べ、同じ杯からぶどう酒を飲む厳粛な食事で新しい契約を始めることは、イエスにとってふさわしいことだったのです(参照:マタイ 26:26-28)。この一つの行為により、そこに列席している全員はそれ以降、神聖な契約で結ばれたのでした。その時以来、主の晩餐にあずかることは神の視点において、参加する全員が主に、また互いに結びつくことによって、この契約が更新されるということです。
人間のレベルにおいて、主の晩餐(聖餐式)でともにパンを裂き、ぶどう酒を飲む人々の相互の義務は何でしょうか。私自身の人生にそれを個人的に当てはめて答えさせてください。もし、私があなたと主の晩餐をともにするなら、その行為により、私はあなたを同じ神の家族の兄弟姉妹であると認めるのです。私はあなたを愛し、心にかけ、あなたの最高の幸福を求めるために自分自身を義務づけます。必要ならば、あなたのために私のいのちを投げ出します。あなたが満たすことのできない条件があり、私にそれができるなら、私が代わりに満たします。あなたが苦しむなら、私はあなたとともに苦しみます。あなたが栄誉を受けるなら、私はあなたと主に喜びます。
さらに、私の契約の義務はあなた個人だけに限られていません。その義務は、あなたの契約の中にある人々にまで及びます。もし、AさんがBさんと、そしてBさんがCさんとの契約の中にあるなら、その事実により、AさんはCさんと、CさんはAさんとも契約を結んでいることになります。これは、筋と同じく、契約の責任で、キリストのからだですべての骨がどのように結びつくことができるかを説明しています。それぞれの骨はその隣の骨に直接結びついていますが、同様に、それらはほかの骨とも結びついているのです。このように、すべての骨は一つのからだを作るために、ともに結びつけられています。
破棄された契約の結末
契約の義務は、とても厳粛なもので、それを行なわないことが非常に深刻な影響を及ぼします。これが、イスカリオテのユダの極刑です。ユダは、イエスとともにパンにあずかったあと外へ出て行き、イエスを裏切りました。ダビデは詩篇 41:9でこれをその通りに描写しています。「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」 ユダは、まずイエスとパンを食べ、その後裏切るという二重の罪に定められました。
同様に、パウロは主への、そして互いへの義務を受け入れる誠実で厳粛な献身なしに、主の晩餐にあずかる危険性をコリントの信者に思い起こさせています。「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(Iコリント 11:29-30)。これらの信者は、一つのからだの中で筋によって骨同士が結び合わされるように、ともに主の晩餐を祝うことによって、互いに契約の中にあるとのだということを理解しない、「みからだをわきまえないで」いたのでした。
その契約を守らなかった一つの結果が、虚弱、病気、早期の死などでした。これは、今日の多くのクリスチャンの間にも存在する類似した状況の一つの明らかな原因です。主の晩餐の中にある契約の義務を受け入れる準備ができていないクリスチャンは、主の晩餐を祝わない方がよいでしょう。
西洋文明の大部分のクリスチャンは、契約に含まれているものをほとんど理解していません。今日私たちの間でなされる最もなじみのある例は、結婚です。これは、神の前で自分たちの人生を完全に共にするために男と女によってなされる厳粛な義務です。それは、「良い時も、悪い時も、富める時も、貧しい時も、病めるときも、健やかなるときも、死がふたりを分かつまで」です。つまり、いったん契約が結ばれたなら、気分や感情、状況に左右されないということです。結婚において、契約の破棄の結果は離婚と家庭の崩壊です。キリスト教においてのその結果は、妬み、敵対心、分裂、交わりの崩壊で、効果的に機能するにはあまりにも弱く、ばらばらなキリストのからだにしてしまいます。
ミニストリーの筋肉
人間のからだを作り上げる際に、論理的に筋は筋肉に続くものです。筋肉は本来様々な機能を持っていますが、ほとんどの場合、2 つの基本的原則で作用します。緊張と抵抗です。例えば、私の腕を使ってみましょう。内側の筋肉は曲げる位置に私の腕を引っ張り、反対側の筋肉は、まっすぐな位置に私の腕を伸ばします。この緊張と抵抗の組み合わせは、腕を健全に保ち、効果的に作用することを可能にします。対立する緊張がなくなる時、腕は麻痺状態にあります。
キリストのからだにおける筋肉の機能は、神が与えてくださる様々なミニストリーによって発揮されます。これらのミニストリーには、ちょうど筋肉のように効果的に作用するために緊張と抵抗が必要です。私はそのことを長年理解していませんでした。キリストのからだの中の緊張や抵抗を心の中で恐れていたのです。私は一致というものを、各器官がまったく同じように機能する状態のように考えていました。私の現在の理解は、もし、そのような状態であったなら、それは一致ではなく、麻痺であるということです。
私たちがこのミニストリー間の緊張と抵抗の必要性を理解するとき、キリストのからだを結びつけることは実際に達成できる具体的な可能性であると、以前より容易に見ることができるようになります。初めは一致と矛盾するように思えたものが今、全体としてのからだのふさわしい機能に必要であるように見えてきます。
現代のクリスチャンの状況で私たちが直面するおもな緊張は何でしょうか。教団教派の間に見られるもの、あるいは個々人の信者間に見られるものという、2つの主要な見出しになるでしょう。
A. 教団教派間:
- 固定した形式の礼拝 vs 自由な形式の礼拝
- 組織的 vs カリスマ的
- 伝統的 vs 真理
- 個人的リーダー vs 複数のリーダーシップ
個人間
- 外向的 vs 内向的
- 衝動的 vs 慎重派
- 直観的 vs 分析的
- 神秘主義的あるいは預言的 vs 実際的、管理運営的
- 伝道活動 vs 牧会的ケア
上記のリストのすべての対立点を見て安心することは、他のものを犠牲にするものを選ぶ必要がないことです。いずれのケースも、全身には両方が必要です。その間にある緊張と抵抗は、からだの活動と柔軟性にとってカギとなります。しかしながら、強調しなければならないことは、「論理的には、からだ(教会)がミニストリーの筋肉の対立する緊張にさらされる前に、契約の筋が正しい場所になければならない」です。もし、骨がまず契約の責任によって安定していなければ、別々のミニストリーの緊張がそれらを引き離し、ばらばらになり、効果をもたらしません。現代のクリスチャンの問題の多くは、最初に契約によって互いに結びついていない信者間でミニストリーが行なわれていることによるものです。
最終段階
筋と筋肉が正しく備わっているなら、肉と皮膚は自然と後に続き、完成した、完全なからだを生み出します。詳しい説明なしでも、私たちはクリスチャン・コミュニティの全体的生活を作り上げるあらゆる活動と人間関係の発展を表わす「肉」で満たされていることを思い浮かべることができるでしょう。そして、皮膚は、そのようなコミュニティを取り巻く世界との直接的接触する様々な方法を表わします。
終わりに、一つの最後の重要な学びのために、エゼキエルの幻に戻る必要があります。最初の段階で、神は超自然的にからだの中で一つとするために個々の骨を動かしました。しかし、次の段階で神はもはや個々の骨ではなく、ただ完全となったからだを動かしただけです・
教会の現在の段階において、神はなお、からだの中の個々の信者を組み合わせています。それは、地域教会のことです。しかし、いったんこの段階が完成したら、神の「非常に多くの軍(集団)」が立ち上がり、神はもはや孤立した個々の信者を取り扱うのではなく、完成された地域教会である完全なからだだけを取り扱います。ですから、この時、一人一人の信者は、神が示された地域のからだに自分が置かれていることを確認することが必要です。さもなければ、その最終段階が来たとき、その人は素通りされてしまいます。

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