神は私たちをどのように聖めるか

聖さは、神特有の性質です。神は他にも、愛、知恵、力など多くのご性質を持っておられ、それらの性質を表わす人々や自然界の物事などとの関係によって、私たちが理解できる範囲のものです。しかし、聖さは、自然界に相当するものがなく、特有のものです。ジョン・ウェスレーは聖さを「完全な愛」と定義しました。しかし、私はむしろ、聖さを「神の義と愛の結合したもの」と定義したいと思います。愛はあなたを歓迎し、義はあなたは来るのにふさわしくないと言います。聖さの中に、この固有の緊張感があるのです。

神の民の特徴

神のことばは、聖さは神の民の特徴であると言っています。へブル 12:9-10を考えてみましょう。

「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」

神の願いは、私たちが神の聖さにあずかる者となることです。へブル 12章14節にはこう付け加えられています。

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを           追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」

第一に、私たちは聖さを追い求めることを目標としなければなりません。

第二に、聖さを得るために、私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません。私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず、平和的に生きるように努めなければなりません。へブル書の著者は、このことについて、非常に厳しく警告しています。私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り、主を見ることはないと言っているのです。

神がご自身の民に聖くあるようにとの願いを表わしている聖句が、Iテサロニケ 4章3節にあります。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」聖くなるとは、そもそもどういうことでしょうか。それは、聖くされるプロセスです。

この聖句を正確に訳すこと、このようになります。「神のみこころは、あなたがたが聖く造られることです。あなたがたひとり一人が聖さ(聖くあること)と尊さの器を持つ方法を知らなければなりません。」この聖句には、現代英語の“方法を知る”という言い回しが含まれています。聖くされるための霊的方法を知るということです。

この聖句には、現代英語の“方法を知る”という言い回しが含まれています。聖くされるための霊的方法を知るということです。

その人の器とは、からだです。人間の霊の地上の器です。多くのクリスチャンは、からだを何か悪いもの、恥ずかしいもののように言います。からだは悪いものではなく、良いものです。神の創造の力の究極的なみわざの一つです。ダビデは言いました。「あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです」(詩篇 139:4)。ダビデは、自分のからだを畏怖と不思議をもった見方をしていたました。

なぜ、信者は自分のからだを聖い状態に保つ方法を知るべきなのでしょうか。二つの聖句から、それに答えることができるかもしれません。「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」(使徒 7:48)と、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮で...」(Iコリント 6:19)。神は地上に住まわれる一つの宮を定められました。それは、手で作られた宮ではなく、信者のからだです。ですから、私たちひとり一人が、神が住まわれるのにふさわしい状態に自分のからだを保つ方法を知らなければならないのです。

聖くさせる媒体

聖書は、聖くなるプロセスをどのように描き、私たちはどんな役割をすればいいのでしょうか。私の理解では、聖くさせる5つの媒体があります。

1. 聖霊

聖霊、あるいはへブル書で言われている、「聖なる御霊」がなくては、私たちが聖くなる希望はありません。

「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです」(IIテサロニケ 2:13)。すべての贖いのプロセスと同様、聖くなることにおいて、主導権は神にあります。神が私たちを選ばれ、永遠のものとしてくださったことに始まります。その後、以下のようなことが続けて起こります。

  • 聖霊が私たちを動かし始める
  • 聖霊は、滅びから私たちを遠ざける(マタイ7:13)
  • 彼は私たちを真理と向き合わせます(最終的にはイエスご自身が真理です)。
  • 聖霊は、私たちを真理と向かい合せるようにする
  • 真理を信じることによって、私たちは救いの中へ入る

エペソ 2:8 でパウロは、私たちは「信仰によって救われた」と言っており、その信仰は私たちから出たものではなく、神による恵みとして私たちに与えられているということを思い出させます。

この認識から、私たちは聖くなることを、「神のために分けられる」と定義できるでしょう。多くの場合、聖くなるプロセスは、私たちが個人的に神を知る前に始まっています。使徒パウロは、自分は生まれたときから選び分けられた(ガラテヤ1:15)、と言っており、神はエレミヤに、母の胎内に形造る前から聖別したと告げています(エレミヤ 1:5)。神は私たちが何の知識もない時から、ご自身のために私たちを選び分け始められたのです。

Iペテロ1:2はそのプロセスに類似したものを表わしています。

「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」

永遠になされる神の選びは、神の知識に基づいており、それは決して無作為ではありません。聖くなることは、聖霊が私たちをキリストの宣言と向き合う場所近くへと引き寄せるプロセスです。聖霊は私たちに福音に従う恵みを与え、私たちが従う時、イエスの血潮が私たちに注ぎかけられます。

IIテサロニケとIペテロの両方の聖句が、聖めのプロセスの主導権は人ではなく、神にあることを示しています。最初の媒体は、聖霊です。

2. みことば

エペソ5:25-26に、二つ目の聖めの媒体があります。

「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり・・・」

旧約聖書によると、血が注ぎだされた後、すべてのいけにえは清い水で洗われました。新約聖書Iヨハネ5:6は、イエスが「水と血とによって」来られたと言っています。血とは、十字架上で流されたキリストの贖いの血で、水は、みことばの純粋な水です。キリストは、ご自身の血によって私たちを贖い、みことばの水の洗いによって私たちを聖めてくださいました。

イエスは、弟子たちのために父に祈りました。「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ 17:17)。神のことばが私たちを聖める主な方法の一つは、私たちの考え方を変えることです。聖めは内側から外側へと進むもので、外側から内側へ向かうものではありません。宗教的な聖めの方法は、衣服の丈を長くする、髪を切る、口紅を落とすことです。しかし、パウロは、「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)、また、「あなたがたが心の霊において新しくされ」(エペソ 4:23)と言っています。私たちの心を一新してくださるのは聖霊です。聖霊は、真理、すなわち神のことばを通してそのことをしてくださいます。

私たちはよく、「洗脳」という言葉を、良くない意味で用います。しかし、その言葉は、聖霊が私たちの心を一新し、神のことばの純粋な水で聖め洗ってくださる方法を表わすのに適切な言葉でしょう。

3. 信仰

これは、主イエス・キリストから異邦人に遣わされる者としてのパウロへの大宣教命令です。

「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」(使徒 26:18)。

聖められるために必須の要素は、信仰です。神の霊と神のことばは、決して変わることがありませんが、神が提供してくださるそれらのものを受け取ることを可能にするのは、信仰です。聖めのプロセスは、私たちの信仰の程度に応じた効果しか、もたらしません。

さらに、神のことばと私たちの信仰には直接のつながりがあります。それは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」(ローマ 10:17)からです。神のことばに耳を傾ければ傾けるほど、信仰が拡大し、神が私たちの聖めのためにしてくださる完全な備えを受け取ることを可能にします。

4. イエスの血

へブル 13:12は言っています。

「ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」

イエスは、様々な目的のために血を流されました。一つは私たちを贖うためです。もう一つは、私たちを聖める、あるいは聖別させるためです。

私たちはイエスの血によって守られ、聖められているので、私たちは、罪とサタンが私たちに触れることができないところで生きることが可能なのです。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Iヨハネ 1:7)。

この聖句で使われている時制は、継続現在形です。もし、私たちが光の中を歩み続けるなら、交わりを持ち続け、イエスの血が私たちを聖め続けてくださいます。私たちは異なる世界に生きるので、純粋で汚れなく保たれます。この悪に満ちた世界の汚れと堕落に生きていません。私たちは神のために分けられ、イエスの血によって聖別されています。

このことは、私たちをもう一つの重要な聖句に導きます。

「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです」(Iヨハネ 5:18)。

これは、恐るべきチャレンジです。ヨハネは、新生した人は、以後決して罪を犯さないと言っているのでしょうか。聖書の他の箇所は、私たち自身の経験と照らし合わせると、この解釈はありえないと思われます。この節を理解する鍵は、ヨハネがここで言っているのは、個人についてではなく、性質についてであると私は思います。誰々さんが罪を犯さないというのではなく、新生によってそれぞれの信者が、罪を犯さない新しい性質を受け取るということです。

Iペテロ 1:23は、この新しい性質について、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」と言っています。人生のいかなる状況にあっても、決して変わることのない一つの原則があります。種の性質は、種から来る命の性質を決定します。りんごの種は、みかんではなく、りんごを生み出します。神のことばの朽ちない種も、同様に朽ちない性質を生み出します。この性質とは、「新しい人」で、その人は朽ちません。彼は罪を犯しません。これは、各信者を個人的に見ると、誰にもできないことですが、すべての信者の「新しい人」の性質に当てはまるのです。

これは、Iヨハネ 3:9 と一致します。

「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」

ここでのヨハネのことばは、さらに強いものです。そのような人は、罪を犯さないだけでなく、罪を犯すことができないと言っているのです。なぜでしょうか。それは、朽ちない神のことばが、朽ちない種のように彼にとどまるからです。新しい人は、罪によって朽ちさせられないのです。

この解釈は、ヨハネが書いた3つの聖句によって確かにされます。Iヨハネ3:9は、「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。」 ヨハネ 3:6は、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」 そして、Iヨハネ 5:4は、「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。」これらの聖句を一つにすると、「私たちは神から生まれた者、御霊によって生まれた者、神によって生まれた者を持っているのです。」となります。ある一人の人のことを言っているのではなく、すべての信者に、新生することによってもたらされる性質のことを言っています。この新しい性質は、朽ちず、負けることがありません。罪を犯さず、罪を犯すことができないのです。

私は新生しているので、私の人生は、新しい人、あるいは古い人のどちらの性質が私をコントロールするかにかかっています。もし、私が敗北させられるなら、私は新しい性質と自分の問題を向き合わせていないからです。新しい性質は敗北することがありません。人生で際立った勝利を得た一人の年配の女性が、ある時、どのように誘惑に打ち勝ったかと質問されました。彼女はこう答えました。「悪魔がドアをノックしたら、イエスさまに応対してもらうだけです。」これこそ、キリストが内におられる、新しい人です。

サタンが触れることができるのは、古い人だけです。神は人の肉をちり..から造られ、人は罪を犯しました。神はその時から、蛇にちり..を食べるようにと言われました。肉的な性質は、まさにサタンのえじきですが、サタンは新しい性質に触れることができません。新しい人は罪を犯すことができず、朽ちることもできず、敗北することもできず、サタンに触れられることもありません。

Iヨハネ 5 章 18 節に戻ってみましょう。

「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」

このことは、新生したひとり一人に責任があるということです、私たちは、自分自身を守るように求められています。どのようにでしょうか。血によってです。そして、Iヨハネ 1章7節で

「私たちも光の中を歩んでいるなら・・・御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

と言っているように、私たちは光の中を歩むことによって、自分を守ります。光の中を歩み、血のもとに自分を置き続ける新しい人は、サタンの手の届かない領域に生きるのです。その人は朽ちることがなく、敗北することがなく、キリストの血によって、すべての悪の力と汚れから離されています。

5. 祭壇

聖めの五つ目の媒介は、聖めの場所という、ある意味具体的な鍵です。マタイ23章16-17節でイエスは、律法学者たちの教えを戒めています。

「わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。」

イエスは、黄金はただの金属で、それ自身が聖いのではないと言っているのです。しかし、それが神の神殿の中に組み込まれる時、黄金は聖くなります。神殿が黄金を聖くするのです。

18、19 節で続けてイエスは言われています。

「また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。」

供え物は祭壇を聖めませんが、祭壇は、そこに置かれた供え物を聖くします。

旧約聖書で、祭壇に置かれるまで、いけにえは単なる獣の体に過ぎません。しかし、祭壇に置かれ、縛り付けられると、それは聖くなり、神のために分けられます。このことは、新約聖書を信じる人たちにも真理なのです。パウロは言いました。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ 12:1)。

私は、旧約聖書のいけにえと新約聖書のささげ物の違いは、ただ私たちのからだは祭壇に置かれても生きていることだけだと信じます。どちらの場合でも聖めの原則は同じです。ささげられた供え物を聖くするのは、祭壇です。

神に私たちのからだをゆだねるというこの行為は、私たちの思いという内側の聖めのプロセスの歩みとどれほど緊密であるかに気づいてください。2節でパウロは続けて言っています。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

私たちが自分のからだのすべての権利を放棄し、神の願うように用いてくださいと、無条件に神の祭壇に置くまで、思いと動機という私たちの内側の変化は成し遂げられません。

私たちの聖めに働く5つの媒体を簡単に復習しましょう。聖霊は、福音を信じ従うところへと私たちを引き寄せます。神のことばは、清い水のように私たちの思いを洗い、私たちの考えと態度を変え、神の基準と一致する中へ導きます。神のことばを聞くことによる私たちの信仰は、私たちのための神の完全な備えを受け取ることができるようにしてくれます。 そして、私たちが従順に歩み続けるなら、イエスの血は、罪とサタンが私たちを汚し、打ち負かすことができない神のために分けられた場所の中で私たちを守ります。最後に、礼拝の祭壇は、神のみこころに無条件に私たちのからだをゆだねるとき、私たちのからだを生きた聖い供え物として聖めます。

このように、新しくされた思いで、私たちのための神の完全なみこころ(神の聖さにあずかる者、すなわち、聖なる民、聖められ、神のために分けられた者となること)を知り、私たちに適用していくのです。

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