十字架について話しますが、明確にしておきたいことは、これから話すのは、首からぶら下げたり、教会の壁に掛けたりする金属や木で作られた十字架についてではないということです。今からお話しするのは、十字架の上で罪のための犠牲となったイエス・キリストの死によって、私たちのために成し遂げられたことについてです。それらすべてを説明するために、「十字架」というシンプルなことばを用います。

神が私たち一人ひとりを贖うために喜んで支払ってくださった、その代価に示されている神の愛について話します。その代価とは、イエス・キリストの血潮でした。イエスの血が流されることを前もって神が示している旧約聖書から見ていきます。そして、贖罪の日の儀式がレビ記16章に記録されています。神は、尊いイエスの血潮を七度振りかけるとあらかじめ示されました。

東アフリカで 5 年間、私はアフリカの学校の教師を訓練していました。その教師全員に強調していたことの一つは、繰り返しは良い教え方の一つであるということです。ですから、福音書に記されているように、連続して七度振りかけられるイエスの血潮について簡潔に説明します。第一に、ゲッセマネの園でイエスが苦しみながら祈っている時、汗が地面に血のしずくのように落ちました。それから、イエスが大祭司の家に連れて行かれたとき、平手で(あるいは棒で)イエスの顔を打ち始めました。そして血が流れました。彼らがイエスを痛めつけていたある時点で、彼らはイエスのあごひげを引っ張り始めました。すると、もちろんのこと、血が出てきました。

そして、イエスは鞭で打たれるためにポンテオ・ピラトに引き渡されましたが、ローマ人の鞭は、骨と金属の破片が埋め込まれた何本もの皮でできていました。その鞭で背中を打たれると、文字通り、肉が裂けて開きました。イエスが王であると主張したので、彼らはあざけって、いばらの冠をかぶせまし た。イスラエルに行くと、今でもそれと同じいばらを見ることができます。そのとげは長く、非常に硬く鋭いのです。彼らはそれをイエスにかぶせ、頭に押し付けたので、とげが頭皮に食い込み、血が出て顔に流れ落ち、あごひげで凝固しました。イザヤ 53 章で、イザヤはそのことを、「その容貌は損なわれ」と預言しています。現代翻訳の一つを読むと、イエスは人としての外見さえも失ったと書かれています。 その後、彼らはイエスを十字架につけ、手と足を釘で打ち付けました。そして、ついにイエスが死んだあと、一人の兵士がイエスの心臓のあたりの脇腹を槍で刺し、血と水が噴き出しました。

これが、血が七度注がれるということで、贖罪の日の儀式で預言されていました。そして、レビ記 17:11 ではこう書かれています。「肉のいのちは血の中にあるからである。」また神は、「わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた」と言っています。これは旧約聖書のもう一つの驚くべき預言です。それは、単にイスラエル人が血と一緒に食物を食べても良いかどうかという規定ではありませんでした。それは十字架の預言でした。すべての肉のいのち、あるいはたましいは血の中にあり、主はあなたのたましいの贖いをするために、カルバリの祭壇の上でこれ(いのち)を与えた、ということです。そして、イザヤ 53:12 で、イザヤは贖いの大いなる預言的描写の中で、主はご自分のいのちを死に明け渡した、と言っています。イエスはどのようにしてそれをしたのでしょうか。血によってです。いのちは血の中にあります。イエスは全人類のための罪のささげ物として、ご自分のいのちを注いでくださいました。イエスのいのちは、あなたのいのち、私のいのちの代わりとなりました。 イエスは最後の罪のささげ物となったのです。このセッションでは、極めて実践的な話をします。私が説明したことは真実で素晴らしいことなのですが、それをあなたの人生や経験の中でどのようにして実現させるのか分からないのではないでしょうか。

では、私たちの人生の中でイエスの血潮をどのように適用し、イエスの血潮の効果を十分に発揮させる方法についてお話しします。まず、黙示録 12:11 を開きましょう。ここは、今の時代の終わりに待ち受けている、天と地が関与する大いなる終末の戦いについて語っています。神の御使いたちが関与しています。サタンとその使いたちが関与しています。そして、地上で神を信じる人々が関わっています。神とその民に勝利がもたらされることを感謝します。そして、この箇所は地上の神の民、この地上で神を信じる人々がその勝利を得るためにどのように自分の役割を果たしているかを説明しています。これは御使いたちの言葉ですが、地上の信者たちのことを言っています。黙示録 12:11 です。

「兄弟たちは...彼に打ち勝った。」

「兄弟たち」とはだれですか。みなさんや私のように、イエス・キリストを信じる人々です。「彼」とは誰ですか。サタンです。そこが非常に重要です。私たちとサタンの間で直接対決があることを非常に明確に示しています。私たちとサタンの間には誰もいません。兄弟たちは彼に打ち勝ちました。

そして、どのように打ち勝ったかを教えています。

「...小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに...」

また、その人々がどのような人であったかも書かれています。

「...彼らは、血に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

一言で言うなら、彼らは献身していた、すべてを捧げていました。それこそが、サタンを恐れさせるクリスチャンです。すべてを捧げているクリスチャンです。血に至るまでもいのちを惜しまなかった、とはどういう意味でしょうか。彼らにとっては、生きることは最優先ではありませんでした。生きるにしても死ぬにしても、神のみこころを行うことが最優先だったのです。彼らにとって最も重要なことは、 生きることではなく、主に忠実であることと、主のみこころを行うことでした。

私たちが「主の兵士である」ということについて話すことがありますが、多くの人は、兵士であることは非常に感傷的なものだと考えているのではないでしょうか。私は第二次世界大戦で 5 年半イギリス軍の兵士となりました。私は志願兵ではなく、徴兵されました。しかし、とにかく、入隊の時、司令官から、「私たち(軍)は、決してあなたがたが命を失うことはないと保証する」という保証はされませんでした。殺されることはないという条件で入隊する兵士はいません。実際、入隊する時は常に、自分は殺されるかもしれないという一つの覚悟をします。それは、私の人生を犠牲にするかもしれません。そして、それは主の軍においても同じです。自分のいのちを犠牲にすることはない、という保証はありません。サタンが恐れるのは、いのちを捧げることをいとわない人々です。結局のところ、人生は短いものです。それは永遠のものではなく、また毎日がバラ色の人生というわけでもありません。

地上でのわずかな期間のために、永遠の栄光を逃すことは愚かなことです。私はこれが、何が重要であるかという正しい価値観を持った賢明な考え方だと思います。私にとって人生で最も重要なことは、神のみこころを行うことだと言うべきだと思います。Iヨハネ 2:17 に、素晴らしいことばがあります。

「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」

あなたの思いを神のみこころと完全に一致させるとき、あなたは決して沈むことがありません。敗北することがありません。揺るがされません。あなた自身を神のみこころと一つにさせるとき、完全な確信を持ちます。生きるとか死ぬとかは二の次となり、あなたは打ち負かされることがありません。

小羊の血と、私たちの証しのことばによって、サタンに勝利するとはどういうことかを考えてみましょう。これは、長年にわたって神が私に与えてくださった真理の宝物の一つです。これに値段をつけることはできません。あなたが何十億円差し出しても、十分ではありません。この真理の価値に見合う金銭的価値はありません。それを簡潔に、明確にお話ししたいと思います。よく聞いてください。

「イエスの血潮が私たちのためにしてくださったことを、みことばが何と言っているかを個人的に証しする時、私たちはサタンに勝利する。」もう一度言います。「イエスの血潮が私たちのためにしてくださったことをみことばが何と言っているかを個人的に証しする時、私たちはサタンに勝利する。」

ただその言葉を覚えるのではなく、私の後について言ってください。頭の中に定着させてください。 私と一緒に言うのではなく、私が区切りながら言いますので、後について言ってください。「イエスの血潮が私たちのためにしてくださったことを、みことばが何と言っているかを個人的に証しする時、私たちはサタンに勝利する。」

では、どのようにするのかを実際にお見せしましょう。まず旧約聖書から一つ例を取り上げます。出エジプト記 12 章に、過越の儀式が書かれています。この時、神が過越の子羊の犠牲を通して、イスラエルの民全員を完全に守ってくださいました。しかし、その守りを確実にするためには、子羊と子羊の血で決められたことを行わなければなりませんでした。その箇所を開く前に、Iコリント 5 章を読みましょう。7 節の最後の部分です。

「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」

つまり、パウロが言っているのは、旧約聖書のエジプトでの過越は単なる預言的描写で、十字架でのイエスの犠牲的な死によって完成されるものの予告に過ぎなかった、ということです。キリストこそが真の過越です。私たちに永遠の贖いを最終的に保証するものは、過越の子羊の血ではなく、キリストの血なのです。

しかし、イスラエルが子羊の血を用いるように指示された方法は、私たちへの素晴らしい模範です。では、出エジプト記 12 章 21-23 節を読みましょう。この過越の儀式の方法は、聖書で多く示されている、父親としての大きな責任の一つでもあります。イスラエルでの安全と救いを得させることができたのは、イスラエルの父親たちだけだったからです。もしイスラエルの父親たちが義務を怠っていたなら、イスラエルは過越によって守られることはなかったでしょう。そして、今日私が個人的に思うのは、私たちが直面している最大の社会問題は、父親たちの怠慢です。子どもたちの問題を抱えた親たちをカウンセリングして私が何度も言ってきていることは、怠慢な子どもは存在しない、存在するのは怠慢な親たちであるということです。私たちが懸念するすべての問題-中絶、薬物、家族崩壊、その他様々な社会的な悪-その根源をたどっていくと、父親の怠慢が原因であると私は考えます。この過越の過程の中で、もし父親が失敗していたら、イスラエルは決して贖われることはなかったでしょう。神は別の計画を持ってはおられませんでした。その計画だけでした。そして、すべては父親たちにかかっていたのです。

出エジプト 12:21-23 です。

「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。『あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。』」

それが、過越と呼ばれる理由です。主が子羊の血で守られた戸口を過ぎ越してくださると言われたからです。

さて、彼らがしなければならなかったことについて考えてみましょう。ある一定期間の間に、それぞれの父親は自分の家族にふさわしい大きさの子羊を選ばなければなりませんでした。そして、その子羊をほふり、その血を鉢に受けます。その血は非常に貴重で、地面にこぼしてはなりませんでした。

子羊はほふられ、血は鉢の中にありました。それは守りを意味しますが、鉢の中にあるだけでは人を守ることはできないので、鉢の中から、かもいと門柱に塗ったり、振りかけたりします。しかし、決して敷居に落とさないようにしなければなりませんでした。誰も血の上を歩いてはなりませんでした。イスラエルの全運命が鉢から戸口に移された血にかかっていました。どのように血を門柱に塗ったのでしょうか。とても簡単なことです。神は小さなヒソプの束を取るように言いました。ヒソプとは、中東のどこにでも生えている雑草の一種です。そのヒソプの束を摘み取ってきて、鉢の中の血にそれを浸し、かもいと門柱に振りかけます。つまり、ヒソプはとても地味で重要でないものでしたが、イスラエルの救いには欠かせないものだったのです。

そして、神はもう一つのことを言われました。血がかもいと門柱に振りかけられたら、家の中に留まるということです。外に出てはいけません。血の外に出てしまうと、守られないからです。

出エジプト記 12 章を指で押さえたまま、Iペテロ 1:1-2 を少し見てみましょう。これはペテロのあいさつです。

「イエス・キリストの使徒ペテロから...選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」

さて、彼がそれらをどのように説明しているかをご紹介します。

「神の父の予知に従って選ばれ、聖霊による聖別のため、イエス・キリストの血の従順と振りかけのために。」

注ぎかけの前に何か来ていますか。従うことです。不従順な者には血は注ぎかけられません。従わずに家の外に出て行った者には、血は何の働きもしません。ですから忘れないでください。血には完全な守りがありますが、それは従順な者のためだけです。

では、過越の儀式に戻りましょう。血は鉢の中にあり、かもいと門柱に移されなければなりませんでした。彼らはヒソプの束を取り、それを血に浸して、かもいと門柱に振りかけました。彼らは安全でした。さて、パウロは、キリストは私たちのために犠牲になった私たちの過越であると言っています。そうです。キリストは 2 千年前にほふられました。過越の儀式に例えると、血が鉢の中にあるだけでは誰をも守りません。私たちはイスラエルと同じ状況にあります。私たちは自分たちの住むところまで鉢の中から血を持って来なければなりません。そして、私たちが従順であるなら守られています。では、私たちはどのようにして私たちの置かれている場所まで鉢の中から血を持ってくるのでしょうか。

黙示録 12:11 に戻ってみましょう。

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った...」

先ほど、私たちはこのように宣言しました。「イエスの血潮が私たちのためにしてくださったことを、みことばが何と言っているかを、個人的に証しする時、私たちはサタンに勝利する。」では、鉢の中から私たちの置かれている場所に血を運ぶものは何でしょうか。私たちの証しです。証しは、とてもシンプルなもので、みことばに沿ったわずかな言葉です。それは小さなヒソプの束のようですが、私たちを救います。私たちの守りです。あなたの証しの重要性は、それほど大きなものです。

もう一箇所、へブル 3:1 は非常に密接に関連しているみことばです。

「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」

へブル人への手紙の著者は、イエスを私たちの告白する大祭司であると読んでいます。告白とは何でしょうか。告白とは、文字通り「同じことを言う」という意味です。ですから、聖書とイエス・キリストを信じる私たちにとって、告白とは、神がご自身のことばで語っておられるのと同じことを私たちの口で言うことを意味します。私たちの口の言葉を、神のことばと一致させるのです。そしてイエスは、私たちの告白する大祭司です。告白がなければ、大祭司はいません。イエスはあなたが正しい告白をするときにのみ、あなたに代わって弁護ができます。それを証しと呼んでも、告白と呼んでも構いませんが、あなたが神の救いを受けるために絶対に欠かせないものです。イエスはあなたのことばによってあなたは義とされ、また、あなたのことばによって罪に定められと言われました。あなたが語ることばで、あなたの運命が決まるのです。ヤコブは、舌は船の舵のようなもので、それは船のとても小さな部分だ が、船がどこに進むかを正確に決めると言いました。私たちは自分の舌の使い方によって、人生の進路が決まります。正しいことを言って、自分の口のことばを神のことばと一致させることも、間違ったことを言って、道を外すこともできます。そして、舌の用い方によって、安全に港に着くか、難破してしまうかのどちらかになるのです。

私たちクリスチャンの多くが、自分たちの舌の使い方に不注意で怠慢です。人々は言います。「あなたに死ぬほど会いたい。」決してそのような言い方をしないでください。アメリカ人は言います。「死ぬほどくすぐられた。」そのように言わないでください。笑い事ではありません。馬鹿げていると思うかもしれませんが、実現してほしくないこと(死ぬという言葉を使うこと)を口にしないでください。また、神があなたを貴いと考えているのに、自分を過小評価しないでください。神はあなたにイエスの血を与えてくださいました。自分を卑下したり、非難したりする時、あなたがしていることは、神のみわざを非難していることになるのです。なぜなら、聖書は私たちは神の作品だと言っているからです。どうして、私たちは神の作品を非難するなどという厚かましいことができるでしょうか。高慢はクリスチャンにとって大きな問題ですが、それと同じくらい大きな問題は、私たちがどのような者であるかではなく、私たちを造られたのは神であるのに、自分自身を過小評価することです。

では、イエスの血潮を鉢の中からあなたが置かれている場所、あなたの生活に移す方法について具体的に説明しましょう。もちろん、神のことばが語っていることを知らなければ、イエスの血潮について神のことばが何と言っているのかを証しすることはできません。ですから、聖書がイエスの血潮について何を教えているかを知ることが、一つの必須条件です。新約聖書はイエスの血が七度注がれたことが記されていることはすでにお話ししました。ですから、あなたの生活の中でイエスの血を七度適用することについて考えてみましょう。新約聖書が明らかにしている、イエスの血潮が私たちに働く方法は大きく分けて七つあります。

第一は、贖いです。みことばを2箇所開きましょう。エペソ 1:7 です。

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。」

贖いとは、「買い戻す」という意味です。私たちは悪魔の手に渡されていましたが、イエスがご自身の血潮によって私たちを買い戻してくださいました。

もう一箇所は、Iペテロ 1:18-19 です。

「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

小羊という言葉は、過越を思い起こさせます。過越の子羊です。イエスには傷もなく、原罪もなく、 汚れもなく、個人的な罪もありませんでした。私たちはイエスの血潮によって贖われたのです。

その文脈で、詩篇 107:2 を開けてみましょう。

「主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い...」

敵とは誰ですか。サタンです。私たちは贖われているなら、何をしなければなりませんか。「贖われた」 と言わなければなりません。そう告白しなければ、贖いはありません。贖いをあなたのために働かせるものはあなたの告白であり、あなたの証しです。そうでなければ、血潮は鉢の中に残ったままです。

私たちが言うことのできることを考えてみましょう。例を挙げます。これは一例に過ぎませんが、私の個人的な証しは、「イエスの血によって悪魔の手から贖われた」です。私はイエスに出会った時、どこにいたのか確かに知っています。私は悪の手の中にあり、それについて何の疑いもありません。しかし、 今日私はそこにはいません。私はイエスの血によって悪の手から贖い出されたからです。

では、私と一緒にこのことを言いましょう。これは、とても実用的なメッセージで、多くの方法を紹介します。あなたが積極的に参加するほど、多くの祝福を受けることができるでしょう。私が区切りながら言いますので、私のあとについて言ってください。「イエスの血によって/私は悪の手から/救い出された。」では、今度は一緒に言いましょう。「イエスの血によって、私は悪の手から救い出された。」

素晴らしいです。それを他の誰かに言うことがとても重要です。ですから、隣や前後の人の目を見て、恥ずかしがらずに、宗教的にではなく、言ってください。「イエスの血によって、私は悪の手から救い出された。」

それを言ったことで、今までに経験したことがないほど自由になった人もいるでしょう。

何かがあなたに起こったのです。イエスの血が与えてくださる 2 つ目のものは、きよめです。Iヨハネ 1:7 を読んでみましょう。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

原語では、この節の動詞はすべて現在進行形です。それを知ることが重要です、私たちが光の中を歩み続けるなら、互いに交わりを持ち続けているのです。そして、あなたが光の中を歩んでいるというしるしは、あなたが交わりを持っていることだ、ということに注目してください。交わりの外に出ることは、光の外に出ることです。光から出てしまい、暗闇の中にいるなら、血はきよめてくれません。それは非常に重要な事実です。血は暗闇の中できよめることはありません。

私たちが光の中を歩み続けるなら、私たちは互いに交わりを持ち続け、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ続けてくださいます。継続的な備えです。私たちがどこにいようと、光の中にいるなら、最も汚れた状況の中にいたとしても、最も不道徳な人々の中にいても、数えきれないほど多くの悪が私たちを圧倒しても、私たちが光の中を歩み続ける限り、血潮は続けて私たちをすべての罪からきよめ続けてくれるのです。

もう一つ、素晴らしいことを紹介します。詩篇 51 篇を見てみましょう。これは、ダビデが姦淫と殺人という 2 つの大きな罪を示されたあとの悔い改めの詩篇です。ダビデは悔い改めの叫びと憐れみを求めて神に立ち返りました。すべてを説明する時間はありませんが、7 節でダビデが言っていることを見てみましょう。

「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」

ヒソプという言葉が使われています。ダビデの頭の中に何があったのでしょう。過越です。彼は何を考えていたのでしょうか。血です。「ヒソプを持って私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」罪を犯した時にどこに行くべきかを知っていることは、なんという特権でしょうか。今、これを聞いている全員にその特権が与えられています。少し静まって、考えてみてください。罪を犯している世界の何十億という人々が、どこに行けばよいのかわからないのです。自分の罪の現実に苦しめられ赦しと平安がどこにあるのかを知らずに、罪悪感を持ち続けることがどれほど苦しいことか想像できますか。それが、今日の人類の約半数の状態なのです。

では、ヨハネの手紙第一に戻って、簡単なパターンをお教えします。このように言うことができるでしょう。「私が光の中を歩んでいる間、イエスの血は私をきよめており、そしてすべての罪から続けて私をきよめてくださる。」今、私は何と言いましたか。今この瞬間だけではなく、今この瞬間から .. 、私が光の中を歩み続ける限り、です。私の後について言ってくださいますか。「私が光の中を歩んでいる間/イエスの血は今も/そして続けて/すべての罪から/私をきよめてくださる。」では、一緒に言いましょう。「私が光の中を歩んでいる間、イエスの血は今も、そして続けてすべての罪から私をきよめてくださる。」

与えられるものの 3 つ目は、義認です。義認は一部の人々を混乱させる神学用語ですが、実際にはそれほど悪いものではありません。ギリシャ語の基本形では「義とする」という意味です。しかし、それには多くの異なる意味合いがあります。まず、みことばを見てみましょう。ローマ 5:9 です。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」

つまり、私たちはイエスの血によって義とされました。このように言うことができるでしょう。あなたは、死刑に値する罪で、法廷で裁判を受けています。あなたの命がかかっています。判決は無罪となりました。それが義認です。無罪とされることです。しかし、それ以上の意味があります。あなたは自分の義によってではなく、イエス・キリストの義によって義とされたのです。それによって、あなたは 義とされたという意味です。それが、無罪、罪に定められない、義と認められる、義とされる、ということです。

イエスは罪を犯したことがありません。罪に定められることは何もしていません。隠すべき過去もありませんでした。そうです、私たちは自分の義では決して天国には行けないのです。イザヤは、私たちの義はみな、汚れた着物のようであると言っています。しかし、その汚れた着物を捨て、イエスの血によってイエスの義を着てください。そうすれば、悪魔はあなたを非難することはできません。

次の美しいみことばを見ましょう。イザヤ 61:10 です。

「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」

あなたが得るものが 2 つあります。「救い」と「義」です。あなたがイエス・キリストを信じ、またあなたのためにイエスがいけにえとなられたことを信じるとき、あなたに救いの外套が着せられます。しかし、それだけではありません。あなたは義の外套で覆われるのです。ある聖書訳は、「主は義の外套で私を包んでくださった」とあります。あなたはイエス・キリストの義で完全に覆われています。悪魔はあなたに対して何も言うことができません。もしサタンが、あなたは多くの過ちを犯したと告げるなら、あなたはどうすればいいか知っていますか。サタンに同意するのです。こう言ってください。「サタンよ、お前の言う通りだ。しかし、それはすべて過去のことだ。私はイエス・キリストの義を身に着けている。それに誤りがあるかどうか見てみろ。」

では、ローマ 5:9 に戻りましょう。順番に確認していきますので、よく聞いてください。「イエスの血によって、私は義とされ、無罪とされ、罪に定められず、義と認められ、義人とされた。まるで一度も罪を犯したことがない者のように。」では、私の後について言ってください。「イエスの血によって/私は義とされ/無罪とされ/罪に定められず/義と認められ/義人とされた。/まるで一度も罪を犯したことがない者のように。」深呼吸して言いましょう。「神さま、感謝します。」

では、先へ進みましょう。次は聖化です。へブル 13:12 を開きましょう。

「それゆえ、イエスもまた、自らの血によって民を聖別するために、門の外で苦しみを受けられました。」

さて、原語の「聖化」は、聖さ(holiness)を表す語と直結しています。聖化とは、聖人にする、あるいは日本語訳にあるように、聖なるものにするという意味です。それには 2 つの側面があります。一つは否定的な面です。私たちは罪や汚すものすべてから切り離されます。そして、神ご自身の聖さで聖なるものとされるのです。へブル 12:10 に、神の懲らしめについて語られており、肉の父親は短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめると言っています。しかし、神は別の方法でそれをされます。 へブル 12:10 です。

「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」

私たちの聖さは、私たちの義ではなく、神の聖さであることに注目してください。私たちはどのようにして神の聖さにあずかるのでしょうか。イエスの血によってです。イエスはご自身の血で人々を聖くするために、門の外で苦しみを受けられたのです。

血の働きをどのように適用するかを示しましょう。「イエスの血によって、私は聖いものとされ、罪から切り離され、神に選ばれ、神の聖さで聖とされました。」私の後について言ってください。「イエスの血によって、私は聖いものとされ、罪から切り離され、神に選ばれ、神の聖さで聖とされました。」事実を理解しているなら、言葉が少し変わっても構いません。

私たちがここまでしてきたことは、鉢の中にヒソプを浸して自分に振りかけることでした。では、先に進みましょう。私たちは贖い、きよめ、義認、聖化を取り扱ってきました。では、いのちについて説明しましょう。ある説教者が、イエスの血の備えはすべて否定的なもので、単に私たちを何かから私たちを救ってくれるだけだと言っているのを聞いたことがあります。常に危険な発言です。いのちほど、ポジティブなものは思いつきません。レビ記 17:11 を少し見てみましょう。

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」

いのちを贖うものは血です。神のいのちはイエスの血の中にあります。創造主なる神ご自身のいのちです。創造主は、造られたすべてのもの(被造物)よりも無限に大きな方なので、私たち人間の頭では、 このみことばの意味をはかり知ることができません。造られた全宇宙は神の御手の中にあります。イエスの血に何があるのかを悟ることができたらと思います。イエスの血の一滴は、サタンの王国全体にはるかに勝る力があります。なぜなら、私たちは、永遠で、創造者である神ご自身のはかり知れないいの ち、すべてが創造される前におられたイエスの血の中にあるいのちを得たからです。

それを念頭に置いて、ヨハネ 6:53-57 を読みましょう。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」

イエスの教えには二段階の強調があります。イエスは時に、「まことに」と言い、時には「まことに、まことに」と言っています。「まことに」とは重要だという意味で、「まことに、まことに」は非常に重要だという意味です。ですから、ここは非常に重要なことを語っています。

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。』」

それを適用する方法は多くあります。私は1946 年にエルサレムの北のラマラというアラブ人の町でキリスト教のミニストリーを始めました。その場所は現在では町ではなく、大都会となっています。当時、私の先妻と子どもたちが家で話す言葉はアラブ語でした。そして、決して頭から離れないものがあります。聖餐式をするとき、私は当時使っていたアラブ語を思い出すのです。「イエスの血を飲みましょう。」それは、何か超霊的な言い方というわけではなく、彼らが聖餐式で使う言い方です。これを適用する方法は多くあるかもしれませんが、私には聖餐式の時、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲みます。これは、ある人にとってはつまずきの石となるかもしれませんが、私にはどうすることもできません。

聖餐式は記念として行うと教えられた人もいると思います。それはイエスが言われたことではありません。イエスは言われました。「あなたがたは、私の肉を食べ、私の血を飲む。」私たちはそれを記念としても行いますが、それだけではありません。私たちは確かに、主イエス・キリストのからだと血をいただきます。それを変える理由はありません。それがどのようにしてからだと血になるかについては、多くの異なる意見があります。カトリックや聖公会は、それは祭司による奉献だと考えられています。

率直に言って、私はそうは思いません。それは信仰によってもたらされるのだと私は信じます。イエスのことばを信じる信仰によって私がそれを受け取る時、それはまさしくイエスが言った通りになると信じています。それに関する議論はしないでください。私はそう信じているのですから。Iコリント 10:16 を見てみましょう。

「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」

聖餐、キリストの血を分かち合うこと。

「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』」

パウロは続く 11 章で、主の晩餐の方法を 23 節以降で彼らに思い起こさせています。

イエスを覚えて主の晩餐を行うことは、まったくの真実ですが、イエスの何を覚えるのでしょうか。 私たちはからだにあずかります。

「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。 これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」

はっきり言いますが、みなさんが私や妻のようになることを勧めているのではありません。キリストのからだの中には素晴らしい自由があり、一定の制限の中で神が私たちに導くことを行うことができます。これは私にとって大変重要なことで、神のいのちの必要性を私はとてつもなく感じています。謙虚に言わせてもらえば、私は神のいのちの広告塔だと思っています。ほとんどの方は私が 71 歳とは思えないでしょう。それは、イエスのからだと血にあって生きていることも一因だと思います。私にとってこれは教理や理論ではなく、まさに生きた現実のものです。

では、聖餐式のやり方です。全員が私たちと同じようにするようにとは言いません。しかし、私たちは夫婦で毎朝一緒に聖餐式をしています。そして、毎朝私は同じことを言います。私はパンを裂いて、「主イエスさま、私たちはこのパンをあなたの肉として受け取ります」と言い、それを食べます。それから、小さなコップを取って言います。「主イエスさま、この杯をあなたの血としていただきます。」それからこう言います。「私たちはこれを行うとき、あなたが来られるまであなたの死を告げ知らせます。」このことを、クリスチャンが国民の 1%未満のエルサレムで行なっていました。イエスが死なれた町で毎日主の死を宣言することは何という特権でしょう。

19 世紀の偉大な聖書学者がこのように言いました。「主が来られるまでは、主の死を示したり、宣言したりする。この聖餐式を行うとき、私たちは瞬時に時間を超越する。」私たちには十字架以外の過去はなく、再臨以外の未来はありません。私たちは、主が来られるまで主の死を宣言します。そして、聖餐式を行うたびに、主が再び来られることを自分自身に思い起こさせるのです。

では、どのようにそれを告白するのでしょうか。信仰によって行いましょう。今ここで聖餐式を行いませんが、このように言いましょう。「主イエスさま、あなたの血にあずかるとき、その中にあるあなたのいのちを受け取ります。それは神のいのちで、聖なる永遠の無限のいのちです。」では、私の後について言ってください。「主イエスさま/あなたの血にあずかるとき/その中にある/あなたのいのちを受け取ます。/それは神のいのちで/聖なる永遠の無限のいのちです/。感謝します。」

今から主を礼拝する時を持ちましょう。今、主を受け取ってください。神のいのちが、あなたの心、 思い肉体に満ちますように。パウロは、死は勝利にのまれると言いました。私はこう考えます。私たちのからだの死、病、衰えなどのプロセスがありますが、それらは日々神のいのちに飲み込まれていくのです。パウロは、私たちの外の人は朽ちても、内なる人は、日々新しくされると言いました。内なる人の中には、私たちの働きが終わるまで、外なる人が働き続けるために十分ないのちがあるのです。

イエスの血の働きについて、あと2つお話しします。6 つ目は、とりなしです。へブル 12:22-24 を開きましょう。時制に注目してください。「近づいている」と言っています。私たちは霊や肉において来ようとしているのではなく、聖霊によって近づいています。近づいているものが 8 つ挙げられています。

「シオンの山」に近づいています。それが一つ目です。

二つ目、「生ける神の都、天にあるエルサレム」です。地上のエルサレムではなく、天にあるエルサレムです。

三つ目、「無数の御使いたちの大祝会」に近づいています。御使いたちは私たちのために最高の衣を着ています。どんな服装であっても、無数の御使いたちが集まりを見るだけで素晴らしいのですが、それは大祝会です。

私たち夫婦は今から 3 年前、アイルランドのベルファストという町におり、ある家でリーダーたちの小さな集まりを持っていました。私たちが主の前にへりくだり、また互いにへりくだった時、神の臨在が私たちの内に働きました。そして、およそ 10 分間、妻は無数の御使いたちの集団が何度も何度も通って行くのを見ました。それから御使いの一人がその部屋の中に入ってきて、その後、妻は目を閉じました。これは、今日私たちが経験できるすべてではありません。私たちは新約聖書の中の人々と少しも変わりません。

私たちはシオンの山、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいています。四つ目、「天に登録されている長子たちの教会」に近づいています。新しく生まれ変わった者たち、その名が天に記されている者たちです。五つ目、「万民の審判者である神」に近づいています。そこには審判者である以上の神がいることを感謝します。そうでなければ、私たちは近づくことができません。

六つ目、「全うされた義人たちの霊」に近づいています。それは、私たちが新生によって達成するものを、生涯の信仰の歩みによって達成した旧約聖書の聖徒たちであると信じます。

七つ目、「新しい契約の仲介者イエス」に近づいています。私たちはそこに近づくことができるのです。 審判者の神だけであるなら、私たちは決してそこに行くことはできません。しかし、審判者なる神とともに、新しい契約の仲介者イエスがおられます。

そして、最後の 8 つ目は、「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」に近づいています。 天で私たちの代わりに語るイエスの血の注ぎかけが、アベルの血と対比されています。その対比にはおもに3つのポイントがあります。アベルの血は自分の意志に反して流されました。イエスは喜んでご自身の血を与えました。アベルの血は地面に注がれました。イエスの血は最も神聖な場所に注がれました。 アベルの血は復讐を叫んでいました。イエスの血はあわれみを請うものでした。これは本当に美しい啓示です。その恩恵に漏れる人が一人もいないことを願います。

私たちが弱っているとき、プレッシャーを感じる時、祈ることさえできず、もう生きてはいけないと思うときがあります。そのような時には、神の御前に流されたイエスの血が、私たちのためにあわれみを求めて叫んでくださっていることを知っておいてください。

この真理にふさわしい小さな告白をしましょう。私がまず言います。「主よ、感謝します。私が祈ることさえできないとき、イエスの血が天で私のために懇願してくださいます。」では、準備はいいですか。 私の後について言ってください。「主よ/感謝します/私が祈ることさえできないとき/イエスの血が/天で私のために懇願してくださいます。」もう一度、一緒に言いましょう。「主よ、感謝します。私が祈ることさえできないとき、イエスの血が天で私のために懇願してくださいます。」アーメン。

最後に、私たちはイエスの血によって近づくことができます。これら最後の 2 つの血潮の備えは、時間の領域を出て、私たちが最終的にたどり着きたい天と永遠の領域の中へと私たちを導きます。へブル 10章に戻りましょう。19 節以降です。これは神の備えの一部であると思います。へブル 10:19 節からです。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。

「大胆に」、あるいは「自信を持って」です。ギリシャ語の意味は、「語る自由」です。大胆さは、私たちに語る自由を与えることはとても大切なことです。つまり、それは私たちの証しであることを忘れないでください。もし、私たちが証しをしないなら、私たちは自信を持つことはできません。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」

次の言葉に注意してください。

「私たちは揺るがすことなく、私たちの希望の告白をしっかりと守りましょう。」

へブル 3:1 は、イエスは私たちが告白する大祭司であると言っています。へブル 4:14 は、告白を堅く保とうと言っていますが、へブル 10:23 は、動揺しないでと言っています。それはどういう意味でしょうか。あなたが飛行機に乗っていて、シートベルトをしっかり締めるようにと言われたら、何を予測しますか。乱気流です。神のことばが、「告白せよ、告白を堅く保ちなさい、動揺しないで」と言っているなら、乱気流が来るから、シートベルトをしっかり締めなさいと言っているようなものです。しかし、乱気流が原因でシートベルトを外してはいけません。正しい告白を保ってください。あなたが完全に四面楚歌のように思える時でも、神のことばは真実です。

あなたは、新しい生ける方法で至聖所に入ることができることに気づくでしょう。レビ記 16 章で大祭司は年に一度、至聖所に入って何をしましたか。かおりの高い香を持って入り、香から出る雲が贖いのふたを覆うようにします。それが礼拝です。しかし、大祭司はいけにえの血も持って入り、垂れ幕と贖いのふたの間に七度振りかけました。一回、二回...七度振りかけ、それから主の前にある祭壇の東側に指でそれを振りかけます。へブル書の著者が、新しい生ける方法によってイエスの血を通して大胆さを持つと言っているのは、七度の血の注ぎかけと贖いのふたの血のことを言っているのです。私たちはイエスの血のゆえに、全能の神の御座と宇宙で最も神聖な場所に近づくことができるのです。私たちにはその道があるのです。

私たち自身について何と言うべきでしょうか。このように言いましょう。「主よ、感謝します。イエスの血の注ぎかけを通して、私はあなたの臨在の中に、全能の神の臨在の中に、宇宙で最も聖なる場所への道がることを感謝します。」

では、七つの備えを復習して終わりましょう。順番が変わっても構いませんが、これは論理的な順序です。贖い、きよめ、義認、聖化、いのち、とりなし、そして近づく、です。七度の注ぎは、七つの方法で私たちの内に働きます。しかし、忘れないで下さい。私たちは小羊の血と、何によってサタンに勝 利するのですか。私たちの証しのことばです。それを一緒に言って終わりましょう。もう一つ、「私たちは死に至るまでもいのちを惜しまない」を付け加えましょう。「私たちは、小羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに彼に打ち勝った。私たちは死に至るまでもいのちを惜しまない。」

今、私たちができることは一つだけです。それらすべてを思い巡らし、神を賛美することです。神を賛美しないなら、私たちはそれを信じていないということです。

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