霊的、それともたましい的?

デレク・プリンス
Published: 2018
Last Updated: 2026年7月
Read Time: 9
「霊的であること」と「魂的であること」の違いについて考えたことはありますか?この「教えの遺産」レターの中で、デレク・プリンスは「私たちの霊と魂の関係とは何か?」という問いに答えています。彼の明確な説明は深い真理をわかりやすく示しており、私たちが理解することが非常に重要です。
人の霊は、神から直接生じ、神と直接つながっています。創造の最初の原型では、連動作用がありました。神が人の霊に働きかけ、人の霊はそのたましいに作用し、たましいは直接からだに作用します。しかし、人の反抗により、人の霊は脇に置かれ、代わりにたましいがコントロールするようになりました。その結果、悔い改めない人は、意思、知性、感情というたましいの3つの機能によってコントロールされます。
神が人と和解されるその目的は、神が人の霊と直接つながり、人の霊はたましいに作用し、たましいはからだに作用するという本来のかたちに回復されることです。
これは、詩篇103:1のダビデのことばを説明しています。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」
信仰により、ダビデの霊は神と一つとされ、神を礼拝することを熱望しました。それで、ダビデの霊が声帯に作用し、礼拝にふさわしいことばを発するようにたましいをかき立てたのです。
調和対緊張
人が神への従順にとどまり、たましいを自分の霊に従わせることにとどまっている限り、人は神と調和して機能します。しかし、人が神への反抗を再び行使することがあるなら、そのたましいはもはや霊に従わず、内側の調和は壊れます。これは、霊とたましいの間に常に緊張感があることを意味します。
新約聖書のギリシャ語には、たましいを表わす言葉から直接作られた特別な単語、psucheがあり、それはたましいによって起こされる行動の表現です。その形容詞はpsuchikosです。これを示す自然な英語は『たましい的』でしょうが、残念ながらそのような言葉は生まれませんでした。
したがって、新約聖書の英語の翻訳では様々な言葉が使われてきました。生まれつき、快楽的、この世的、霊的でない、この世の思い、霊なしのなどで、フレーズとしては、自然の用に従ってと訳されています。翻訳の背景を知ることのできない読者は、同じ一つのギリシャ語の単語をどのようにしてこれらの7つの言葉やフレーズに翻訳となったのか知る由もありません。
この学びの残りの部分で、私は『たましい的』という言葉を用います。
これは、新約聖書の霊的なものとたましい的なものとの間の緊張感を強調するものとなるでしょう。
霊的なからだ
Ⅰコリント15:44-46でパウロはこの言葉を3回用いて、私たちの今あるからだ、すなわち生まれつきのたましい的なからだと復活のからだ、すなわち霊的なからだの違いを指摘しています。たましい的なからだとは、霊がたましいによって動かされるからだで、霊的なからだとは、たましいの作用なしに、霊がからだを直接動かしているからだです。
エゼキエル1章に書かれているケルビムは、霊的からだの現われです。
「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き…」(12節)。
また、
「これらは霊が行かせる所に行き…」(20節)。
明らかに、それは信者が復活のあとに得るからだの型です。もはや、私たちの霊は、ふさわしい応答をさせるために私たちのからだを指揮せよと、私たちのたましいをせき立てる必要はありません。私たちのからだは、私たちの霊の決断に直接応答するのです。私たちは、エゼキエル書のケルビムのようになり、振り返ることなく、霊が行かせる所へまっすぐに進むのです。なんと素晴らしい自由でしょう!
たましい的な体
霊的なものとたましい的なものの対比がさらに描かれている他の箇所が新約聖書に3つあります。Ⅰコリント2:14-15でパウロが言っています。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」
霊的なことを理解するために、たましいは霊にゆだねられています。霊との一致がなければ、霊的真理の領域は閉ざされてしまいます。ですから、私たちのたましいが私たちの霊に従い、神の霊と私たちの霊が一致するという正しい状態で真理に近づくことは、いかに重要なことでしょうか。
ユダはその書簡で、「…ぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。・・・この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。」(ユダ16、19節)と教会の中の人について語っています。
クリスチャンのたましいが、自分の霊を神に従わせないとき、その人はあらゆる肉的な路線に走り、不一致を教会にもたらす者となってしまいます。これは確かに、キリストのからだに分裂を起こすもととなります。
The Downward Slide
ヤコブ3:15では、知恵のかたちについて、「上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」と言っています。ヤコブは、地、肉、悪魔へと降下する三連続の段階を描写しています。
クリスチャンがこの世的になると、永遠というビジョンを失ってしまいます。今の人生の成功、娯楽、富、肉体的健康を越えたものを見ることができません。彼らは、自分の信仰が今の人生に働くことだけにしか興味がないのです。
そのような人たちについてパウロは言いました。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15:19)。クリスチャンはそのように、しばしば自分の繁栄と成功に関心を持ちます。神はそのような人々を哀れな者と見なしています。
この世的の次の段階はたましい的です。たましい的になることは、利己的、自己中心的になることです。そのような人々は、クリスチャンの信仰は自分の人生に望むものを得るための方法なのです。彼らは、「敬虔を利得の手段」と考えているのです(Ⅰテモテ6:5)。
たましい的であることは、悪魔に道を開くことになります。これは、教会に悪魔が入り込む主な方法の一つです。よく質問されることは、クリスチャンは悪霊から解放される必要があるのか、ということです。ヤコブのことばは、明確な答えを提供しています。この世的から悪霊へと向かうたましいの堕落は、個々人の信者、そして教会全体の両方を悪魔の行動へと向かわせます。
今日、多くの地域の教会の中に、神からではないものが混じっています。霊的なものとたましい的なものを分ける明確な線引きがないため、悪霊への壁もないのです。純粋な聖霊の現われに、明らかに悪霊的な現われが混入してしまっています。その結果、多くの誠実な信者が混乱し、困惑させられています。
私たちは、自分たちを守るために、みことばを見極めることを養わなければなりません。真に霊的なものと、たましい的なものを見分けることを学ばなければなりません。それができるほどに鋭利なものは唯一、神のことばだけです。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(へブル4:12)
さらに、へブル5:14で著者は、見分ける訓練のために私たちが満たさなければならない2つの条件を述べています。
「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」
第一の条件は、聖書全体から、常に堅い霊の食物をとらなければならないということです。第二の条件は、見分ける訓練を常にしなければならないことです。私たちは、あらゆる状況で遭遇する霊的力を認識するように敏感であり続けなければなりません。見分けることが、祈りと同じくらいに私たちのクリスチャン生活の一部とならなければなりません。
最後に、Ⅰコリント16:13-14のパウロの勧めに従って歩みましょう。
「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行いなさい。」
*Prayer Response
親愛なる主よ、あなたが私を創造されたときに思い描かれた最良の自分になりたいと願っています。私は今、自分の思考と祈りの生活において、より注意深くあることを誓います。あなたの声を聞き、従いたいと願っています。
あなたの恵みを謙虚に求めます—私の霊、魂、そして体をあなたのデザインに従って整えるために。私はあなたを愛し、あなたに従う中で、魂的ではなく霊的でありたいのです。イエスの御名によって、アーメン。

無料ダウンロード
このティーチング・レターは、個人または教会で使用するためにダウンロード、印刷、共有することができます。
コード: TL-L122-100-JPN











