宣言の力

デレク・プリンス
Published: 1990
Last Updated: 2026年7月
Read Time: 40
社会的なプレッシャーに押しつぶされそうになっていませんか?デレク・プリンスの『壁を打ち破る』は、福音の光の中で赦しと愛を力強く探求し、キリストにおける真の解放への鍵を授けてくれます。聖書に基づいたこの教えは、あなたの人生を変える力を持ち、神の国がもたらす自由を受け入れる力を与えてくれます。
Transcript
宣言して始めましょう。その後、宣言というテーマについて学び、多くの宣言をして締めくくりたいと思います。妻と私は、常にそのようにして奉仕を始めます。神は、集会の初めに信仰によってみことばを宣言することは、集会の雰囲気やメッセンジャーの油注ぎに大きな違いをもたらすということを、私たちに教えてくださいました。イザヤ 55:10-11 は、私の好きな宣言の一つです。私たちはこの宣言を、ラジオ・ミニストリーと世界宣教の奉仕に結び付けて頻繁に用いています。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
ここで、「宣言」、「宣言する」という言葉について少し説明しましょう。この語は、「大声で叫ぶ」というラテン語から来ており、強い言葉です。「告白する」、あるいは「言い広める」という新約聖書の2 つの言語に関連しています。告白するとは、「同じことを言う」という意味です。聖書を信じる私たちにとって、告白とは、神がすでに聖書の中で言っておられることと同じことを、私たちの口で言うという意味なのです。私たちの口から出る言葉を、神のことばと一致させるのです。そのようにして、私たちは、イエスの完全な保証と権威を受けるために自分自身を整えます。へブル 3:1 で、著者はこう言っています。
「私たちの告白する...大祭司であるイエスの」
これは非常に重要な言葉です。告白しなければ、あなたには大祭司はいません。イエスは私たちが告白することに関する私たちの大祭司です。言い換えれば、イエスを信じる者として、聖書が私たちについて何と言っているかを私たちが語るとき、ご自身の権威と祝福と解き放つ、天におられる大祭司イエスが共にいてくださるということです。しかし、もし私たちが沈黙を守るなら、ある意味において、私たちは大祭司としてのイエスの働きを封じてしまうことになります。また、私たちが間違った告白をするなら、もっと悪いことになります。それは、否定的な力を私たちの周りや頭上に招いてしまうのです。
宣言とは、いわば告白を攻撃的に行うことです。ある意味、霊的戦いの言葉と言えます。神のことばの権威を、教会生活の中、政治的状況の中など、あらゆる状況の中に解放することです。神の力を解放する必要のある状況は数え切れないほどあります。そして、あなた自身の生活や家族、あなたの教会、あなたの国など、どんな状況であっても、宣言以上に神の力を解放する効果的な方法はありません。宣言とは、まさに布告する人の活動です。今日はほとんど使われない言葉ですが、布告人とは、王や公爵または貴族から権限を与えられた人のことで、特定の地域に行って、王などの統治者の意志や決定を伝えました。
新約聖書では、ほとんどの翻訳では出てきませんが、「宣べ伝える」という言葉は、布告する者という言葉です。それは、宣言を意味する言葉です。
マタイ 24:14 は私の好きな聖句の一つです
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ...」
しかし、私はこのように言い換えたいです。
「この御国の福音は全世界に宣言され、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
私は 50 年ほど聖書の教師をしていますが、私の役割は、聖書を解説、説明して、人々が聖書を理解することができるようにすることであると常に思ってきました。しかし、12 年ほど前、主は「宣言」の重要性を私に示し始めました。教えることだけではなく、さらに「宣言する」ことをチャレンジしているのだと感じました。その結果、私のラジオでの聖書の学びのミニストリーが 1979 年にアメリカの8局から始まり、現在それは 10 の言語で放送され、世界のほとんどの地域をカバーしています。それはまさに、 宣言する、言い広めるミニストリーです。私をかき立てたみことばが、マタイ 24:14 だったのです。
「この天の御国の福音は、すべての国々に対する証として、全世界に宣べ伝えられる。そして、その後に終わりが来る。」
私たちがイエス・キリストの教会として、この地上でイエスの証人としての働きを果たすまでは、この時代は終わらないのだと私は理解するようになりました。その働きとは、すべての国々への証人として、世界中にこの福音を宣言することです。そして私は、信仰をもって宣言する神のことばの力の途方もない大きさを私は経験してきました。それは最も驚くべきことを成し遂げるのです。
アメリカに、クリスチャンの標準から全くかけ離れた一人の女性がいました。彼女はマルクス主義者であり、同性愛者であり、フェミニストでした。彼女はそれらを真剣にとらえていました。なんと、彼女は男たちを撃つための回転式連発銃まで購入していました。彼女は悪事を企んでおり、仲間たちと南シナ海を小さな船に乗っていました。嵐が近づいているようだったので、仲間たちに、「下に降りて、ラジオで天気予報をチェックして来るように」と言われました。彼女がラジオをつけると、フィリピンのマニラで放送されていた私のラジオ伝道プログラムに偶然出会い、その船底で救われたのです。それは 15 分の短い番組だったので、彼女はその 15 分の間に救われたということです。彼女は現在、その当時とは真逆の人生を送っています。
これはほんの一例です。その番組は教えではなく、私はあまり説明もしませんでしたが、宣言されたみことばがその働きをしたのです。
神がモーセに、エジプトに戻ってイスラエルの民をエジプトから脱出させる解放者となるように召した例を取り上げたいと思います。出エジプト 3-4 章で、神は燃える柴の中でモーセに現れ、「さあ、イスラエル人をエジプトから連れ出すためにあなたを遣わす」と言いました。モーセは 40 歳の時に持っていた自信をすべて失っていました。80 歳になっても、自分に自信を持つことはできませんでした。モーセは言いました。「主よ、なぜ私なのですか。私にはできません。私には何も持っていません。どのようにしてそのようなことができるのでしょうか。」すると主は、いつものように具体的に答えられました。「あなたの手にあるそれは何か。」モーセはそれを見て、「杖です」と答えました。それは中東の羊飼いたちがみな持っている物でした。モーセは自分の杖を特別なもの、重要なものとは考えていませんでした。しかし、主は言われました。「それを地に投げよ。」言われた通りにすると、杖は蛇になりました。モーセはそれから身を引きました。つまり、モーセが手にしていた杖には、彼が想像もしたことがなかった可能性があったのです。
それから主は言われました。「その尾をつかめ。」蛇を扱う人なら誰でも知っていることですが、蛇の尻尾をつかんではいけません。しかし、モーセは言われた通りにしました。きっと恐れながらだったでしょう。すると、それは彼の手の中で杖に戻りました。そして、神はモーセに言いました。「さあ、あなたの杖を持って行け。その杖一本ですべてのことができる。」出エジプト記の残りの部分を分析してみると、エジプトからイスラエルの民を解放のすべては、その杖によって成し遂げられています。モーセが神に介入してほしいと願うたびに、彼は自分の杖を伸ばし、神が介入してくださいました。その結果、ある意味、モーセは手にしていた杖で、パロからエジプトの支配権を奪い取ったと言えるでしょう。
そして最後の場面は、紅海を渡ることです。モーセが杖を伸ばすと、水が二つに分かれました。エジプト人たちがイスラエル人たちを追って水の中に来たとき、モーセが再び杖を伸ばすと、水は元に戻り、エジプト人は溺れてしまいました。このように、神が召したすべての働きに必要な唯一の道具は、最初に見た時には重要でないと思っていた、一本の羊飼いの杖でした。
あなたが聖書を信じ、献身的なクリスチャンであるなら、あなたは杖を持っています。それが何だかわかりますか。聖書です。今、手元に聖書があるなら、それを掲げてください。そしてこのように言ってください。「これは私の杖です。この聖書によって、神が私に言われることすべてを行うことができます。」
私たちが聖書から理解しておかなければならない最初のことは、神のことばの力です。私たちは、聖書が超自然的な本であることを理解しなければなりません。モーセの杖のように、最初に見た時には気づかない力がみことばの中にあるのです。神のことばの力を啓示している聖句をいくつか紹介します。 詩篇 33:6。
「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。」
「いぶき」と訳されているヘブル語は、通常、「霊」に用いられる Ruach という語です。ですから、すべての創造は、神のことばと神の霊という2つのものによってなされました。今あるもの、今までにあったもの、のちに存在するものすべてが、神のことばと神の霊という2つの力によって始まったのです。
このように、ことばと霊がともに働かなければなりません。ですから、詩篇の作者は、それを霊ではなく、「いぶき」と訳したのではないかと思います。私がアフリカ人に第二言語として英語を教えていたとき、私自身が基本的な音声学を学ばなければなりませんでした。私は言葉について、興味深いことを発見しました。言葉には計り知れない力があるにもかかわらず、いかにシンプルであるかを知っていますか。あなたはどのように話しますか。肺から息を出して、それが口や鼻を通って、口や鼻の様々な条件によって、出てくる言葉が決まります。しかし、基本的には、息をしなければ話すことができません。話すためには、息をしなくてはなりません。これは神の姿です。神が話す時は常に、神のことばに神の息が伴います。神の息は神の霊です。ですから、神のことばと神の霊はいつも共にあります。神のことばと霊は、存在するすべてのものにいのちを与えます。宇宙を存在させました。IIペテロ3章は、非常に力強いみことばです。ことばは創造し、ことばはそれを保ち、ことばは滅びに至らせるという3つのことを教えています。IIペテロ 3:5-7 です。
「こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」
このように、神のことばによって、天と地が存在するようになり、また、神のことばによってそれらは保たれています。そして神の時が来ると、神のことばによって、それらは消え去ります。先ほども言ったように、神のことばは創造し、保ち、消し去るのです。
人間がこの地球をめちゃくちゃにしているのを見ると、いつか神のことばがその混乱を消し去ることができることを嬉しく思うことがあります。すべては神のことばによって行われるのです。
さて、最初に分かち合った聖句をもう一度取り上げましょう。今説明したように、イザヤ 55:10-11 は、神の口からことばが出てこなければならないと言っています。そうでなければ、ことばには何の効果もありません。では、どのように始めればいいのでしょうか。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
神は、ここで「わたしの口から出るわたしのことば」と言っています。言い換えれば、「私の息によって押し出される私のことば」です。IIコリント3:6でパウロは言っています。
「...文字は殺し...」
つまり、息を伴わない空しい言葉は、いのちをもたらすことができません。言葉と霊が一緒でなければならないのです。ですから、どんなみことばを語っても、そこに息がなく、いのちを与えない、死をもたらす渇いたメッセージをすることもあり得るのです。言葉と霊が一緒に働かなければなりません。
さて、モーセの経験と比較して、私たちが神のことばを宣言することによって、そのことばを効果的にする方法を説明しましょう。みことばの宣言とは、ある状況の中にそのみことばを放つということです。それには自信と大胆さが必要です。臆病であってはいけません。「私はこれを信じる」と心に決めなければなりません。それが神のことばであり、私が信じる心と信じる唇を通して言うならば、神の霊が私を通して神ご自身が言っているかのように効果的なのです。それを信じますか。神の霊があなたの口を通して神のことばを宣言するなら、それは神が天と地を創造されたときのことばのように効果的なのです。
最初、モーセにそれが起こった時、彼はおののきました。自分の杖を投げて、それが蛇になった時、後ずさりしました。私たちが効果的な宣言をする前に、神のことばを畏れることを学ばなければなりません。神のことばにおののくことを学ぶ必要があります。神はイザヤを通して言われました。イザヤ 66: 1-2 です。
「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。──主の御告げ──』」
つまり、主は、「あなたは私を感動させる宮や建物を建てることはできない。なぜなら、私は全宇宙を建てたからだ」と言っているのです。しかし、主は、「私の心を引くものが一つだけある」とも言っておられます。
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」
別の訳では、「わたしが目を留める者」の部分が「わたしが重んじる者」とあります。
「貧しく、心の打ち砕かれた者、そして私の言葉に震える者。」
モーセのように、神のことばへの私たちの最初の反応は、恐れと畏怖の念でなければなりません。今日の教会では、神のことばへの畏れがあまりにも少ないのです。頻繁に引用しますが、慣れ親しみ過ぎて、本当の意味での敬意を表していません。私たちはそのような態度を改めなければなりません。
神のことばにおののくべきであるという2つの理由が、ヨハネの福音書に書かれています。一つ目は、 ヨハネ 12:47-48 です。イエスが語っておられます。
「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」
イエスは、わたしはあなたをさばく者ではない、あなたは神のことばによってさばかれるのだと言っています。全能の神の御前に立って、自分の人生の弁明をしているところを想像してみてください。私たち全員にその日がやって来ると信じます。あなたはおののき、とても慎重になるでしょう。イエスが言っておられるのは、神のことばに対しても同じ態度であるべきだということです。なぜなら、あなたを裁くのは、神のことばだからです。私たちが聖書を開いて読むたびに、それがやがて私たちをさばくことになるものだと理解できるなら、みことばを読んでおののくことは当然です。
さらにヨハネ 14:23 で、イエスはもう一つの驚くべきことを言っています。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
これは聖書の中で、神について複数形の名詞が用いられている数少ない箇所の一つです。「わたしたち」、すなわち「父と御子」がその人のところに来るのです。どのように来られるのでしょうか。何を通してでしょうか。神のことばを通してです。つまり、もし私たちが神のことばに心を開き、それを信じるなら、父と御子なる神ご自身が私たちと一緒に住みたいと願って、私たちの人生の中に来てくださるのです。それが何らかの形で、たとえ幻の中であっても、主イエスがあなたの家に入って来られるのを見たなら、あなたは圧倒されるでしょう。畏怖の念を抱くでしょう。イエスの足もとにひれ伏したくなるでしょう。イエスは言われます。「わたしだけではなく、父も来られます。」何を通してですか。神のことばを通してです。
現代の教会にいる私たちのほとんどは、神のことばに対する態度を改めなければならない、と言わせてください。私たちは敬意と畏怖、恐れを表す必要があります。私たちが神のことばに敬意を払うことを学ばない限り、神のことばが私たちの人生に効果的なものとはなりません。
モーセの最初の反応は、神のことばにおののくということでした。モーセは自分の杖に力があることに突然気づき、それから身を引きました。畏敬の念に圧倒されたのです。
次にモーセは、その杖を取りました。信仰によってそれをつかみ、それは彼の手の中で杖に戻りました。私たちはおののくとき、神のことばを握る必要があります。詩篇にとても印象的な箇所があります。 詩篇 149 の5節からです。
「聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。」
聖徒たちとは、すべての真の信者であると私は信じます。「聖徒」という言葉は、ヘブル語では、hasid です。超正統派ユダヤ教徒です。これは、神のことばにおののく者、神のことばにすべてを捧げた人のことです。
「聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行うため。それは、すべての聖徒の誉れである。」
これが、神があなたのために持っておられるものだと理解していますか。国々の王たちを鎖で縛り、貴族たちを鉄のかせで縛るのです。これは、国々を支配しているサタンの主権について意味している部分もあると思いますが、それだけではありません。
最後の節で、書きしるされたさばきを国々の間で行うためであると言っています。そしてそれは、すべての聖徒の誉れ(あるいは特権)であると言っています。そのことについて考えたことがありますか。神は国々にさばきを行う特権を私たちに与えてくださっているのです。もし私たちがそのような観点から、自分自身を見始めるなら、多くの人たちの祈りの生活が変えられるでしょう。書き記されたさばきを行うため、と言っています。そのさばきは、どこに書かれているのでしょうか。そうです、聖書の中です。私たちがさばきを定めるのではありません。神がさばきを定めました。しかし、私たちが国々に、そして支配者たちにさばきを行う特権を持っているのです。言い換えれば、私たちは歴史の中で他の人たちが持っていない、決定的な役割を担っているのです。これは実に重要なことです。あまりにも多くのクリスチャンが、神が私たちに与えてくださっているすべてのもの、そして神が私たちに期待しているものすべてのことをほとんど理解していません。
しかし、私が強調したいことは、私たちがさばきを定めるのではないということです。書き記された神のことばの中にさばきを見出し、それを行うのが私たちです。どのようにして神のさばきを行うのでしょうか。一言で言うと、「宣言」です。聖書にすでに書かれている神のさばきを解放するのです。私たちはさばきを宣言します。私たちは告げ知らせる者です。世界の街角に立ち、大きな声で神の命令を告げ知らせるのです。
非常に実際的で現実的なことをしたいと思います。モーセが杖を握ったあとの次の段階です。エジプトに戻った彼は次に何をしましたか。その杖を伸ばしました。モーセは杖にあった権威を行使したのです。私たちも同じことをする必要があります。書かれた神のことばを握って、神の権威が必要とされるあらゆる状況にそれを伸ばす必要があります。これが唯一の方法ではなく、多くの方法の中がありますが、ある状況の中に神の権威を解放する最も効果的な方法は、信仰と聖霊の油注ぎのもとで宣言することによるものであると思います。なぜなら、ことばには息が伴わなければならないからです。その2つが一緒になったとき、神の霊である神の息が私たちの口から神のことばを押し出させ、その状況の中にさばきを解放することによって、その状況の中に全能の神のすべての権威があるようにするからです。
神は御座から降りて、モーセの手にある杖を取り上げて、「モーセよ、わたしがそれをする」とは言い ませんでした。私たちの多くはそれを期待しているのではないでしょうか。神は言われます。「あなたには杖がある。あなたが行いなさい。」聖書では、「神の杖」と呼ばれていますが、モーセが持っていました。モーセはそれを伸ばしました。モーセとアロンが一緒にいました。モーセでもアロンでも違いはあ りませんでした。その働きをしたのは杖だったからです。
では、個人的な状況から始め、国家的、国際的な状況など様々な状況を想定して、私たちが杖を伸ばす方法を紹介します。私の妻にここに来てもらいましょう。今から行うすべての宣言は、私たち夫婦が個人的なデボーションで定期的に行う宣言です。私たちの個人的なデボーションは、いつも静かな時間であるとは限りません。時には、叫ぶこともあります。結局のところ、宣言は叫ぶことだからです。叫ぶことに、より大きな力があるとは言いません。聖霊がどのように促してくれるかによります。私たちが定期的に行っている宣言は、おそらく 100 から 200 ぐらいあります。そして、妻が病気と闘っていたとき、それは私たちの最大の武器でした。中には、何千回も繰り返している宣言もあります。
あなたに否定的な考えをする傾向があったり、多くの否定的な影響を受けたりしているなら、一度の 宣言ではあまり変化はないでしょう。言っていることをあなたが信じるまで、言い続けなければなりません。どんな状況になっても、その宣言があなたの反応となるまで、です。
私はイギリス人です。イギリス人は非常にネガティブな傾向があります。生まれつき悲観論者なのです。私もかなりの悲観論者でした。神は私に徐々に革命をもたらしてくだいましたが、それには長い時間がかかりました。私の妙な精神的習慣の一つは、幼少時代にさかのぼりますが、私はふと、起こりうるあらゆるトラブルや問題を自動的に考え始めるのです。車を運転しているときも、事故が起こるのでは、などと考えてしまうのです。みなさんの中にも同じ問題を抱えている人もいるかもしれません。ですから、私は様々な方法で、みことばの武器を使ってきました。エレミヤ 29 章の中で、主はイスラエルにこう語っています。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、
別の翻訳では、災難ではなく繁栄の計画とされています。
平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
何らかの災難の否定的なことを思い巡らし始めるたびに、私はこう言います。「主よ、あなたが私のために計画を持っておられることを感謝します。それは悪い計画ではなく、良い計画であり、災いではなく、繁栄、将来と希望を与える計画であることを感謝します。」それを何度も言わなければならないこともあります。しかし、最後には否定的な思いは去って行きます。そして私は、強く自信に満ちたポジティブな態度を持つことができます。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
あなたが家を出る時や、車に乗る時にいつもそれを言ってください。あなたには素晴らしい一日が待っています。あなたがやろうとしていることを成し遂げることができます。あなたの態度は大きな違いをもたらします、人々のあなたへの接し方も変わるでしょう。肯定的な態度でお店に入って行くとき、店員はあなたのために何かをしてくれるでしょう。もしあなたがトラブルや問題が起きるのではないか、悪い応対をされるのではないかと思って入って行くなら、おそらくそうなってしまうでしょう。
わかりました。それはただの余談ですが、私が人々に言うように、それには追加料金はかかりません。
少し話がそれましたが、宣言のいくつかのパターンを紹介しましょう。しかし、何よりもそれは、ことばに息が伴っていなければなりません。つまり、それは聖霊でなければならないのです。二つ目に、その宣言を個人的なものとすることです。ですから、聖書が「あなた(がた)」と言っている箇所を「私(たち)」と言い換えます。それを自分たちに当てはめるのです。攻撃を受けたときの自己防衛から始めます。残りの時間すべてをそれに費やすこともできますが、必要の領域だけを扱うことはしたくありません。多くのクリスチャンが自分の必要だけにとどまっています。ですから、その個々の必要という領域を簡単に行い、私が「攻撃」と呼んでいる領域に進みたいと思います。そこでは、自分を守るのではなく、攻撃するのです。
あなたが多くの暗い否定的な予感を抱えているとします。自分が死んだらどうなるかについて考え続けているとします。そのような考え方をしている人は多くいます。今、これを聞いている方の中にもいるかもしれません。私の妻がかつて言われたように、あなたも医者から次のように告げられたことがあるかもしれません。「この状態を乗り越えられかどうかは保証できません。私たちは最善を尽くします。」私たちが何千回も用いてきたみことばがあります。妻はベッドにただ横たわって、これを言うのが精いっぱいの時がありました。詩篇 118:17 です。
「私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。」
一緒に言いましょう。すぐに暗唱できます。では言いましょう。「私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。」もう一度。「私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。」
では、自分が本当に大胆であることを確かめるために、誰かと向かい合って、その人の顔を見て言ってください。「私は死ぬことなく、かえって生きる。」それには、厚かましさ、図太さが必要でしょう。「私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。」アーメン。少し気分が良くなりましたか。
そのような状況があなたに起こったとしましょう。説教者は特にこれの標的です。多くの人々があなたを非難し、あなたに不利なことを言います。あなたに敵対して祈っている人もいます。その時、あなたはどうしますか。その解決法は、イザヤ 54:17 です。自分の言葉に変えて言っていいのですが、この聖句に基づいて言ってください。
「私たちを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、私たちを責めたてるどんな舌でも、私たちはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。──主の御告げ──」
あなたは、このみことばをどのように自分に当てはめますか。もはや秘密とはなっていない秘訣を教えましょう。いずれ世界中のすべての人が知ることになるでしょう。私たち夫婦は毎晩寝る前にこれを言います。もう一度言いましょう。
「私たちに対して作られた武器は prosper せず、私たちに対して裁きの中で立ち上がるすべての舌を私たちは非難します。これは主のしもべとしての私たちの遺産であり、私たちの義はあなたから来るのです、万軍の主よ。」
彼らが神の義を非難しているので、私たちを責めたてる舌を、私たちは罪に定めることができるのです。敵の舌は常に敗北しています。
誤解のないように言っておきますが、私たちに不利なことを話したり、祈ったり、あるいは私たちに危害を加えたり、悪を計ろうとしている人たちがいるなら、私たちは彼らを赦し、主の御名によって彼らを祝福します。そのようにして、私たちは否定的なものを肯定的なものに置き換えるのです。聖書は、人があなたがたを呪うとき、彼らを呪うのではなく、祝福しなさいと言っているからです。パウロは、「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と言っています。悪に打ち勝つことのできる力は、善だけです。ですから、私たちは否定的なものに出会ったときに、肯定的なもので打ち勝つことを学ぶ必要があります。しかし、それはこのみことばに基づいていなければなりません。
私たちのミニストリーが攻撃されるとしましょう。あるいは、私たちの家庭や家族が攻撃されるかもしれません。とても有名なみことばがあります。申命記 33:25-27 です。
「私たちのかんぬきが、鉄と青銅であり、私たちの力が、私たちの生きるかぎり続くように。エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神は私たちを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。私たちの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた。」
アーメン。これは実にサタンを脅かす言葉です。私たちはサタンを滅ぼさなければならないことを学びました。神はサタンを追い出しますが、あなたはサタンを滅ぼさなければなりません。敵の首をあなたの足で踏みつけなければなりません。詳しくは説明しませんが、彼らは血に飢えています。
私たちの敵は、人ではなく、空中の霊的な力であることに注意してください。私たちの敵は血肉ではありません。あなたの牧師はあなたの敵ではなく、あなたの夫もあなたの敵ではありません。時にそう思ってしまうこともあるかもしれませんが、違います。私たちは人間と戦っているのではないことを学ばなければなりません。これらの武器は非常に強力ですが、適切な状況下で用いられなければなりません。
あなたに何らかの必要があるとします。経済的、身体的、あるいは癒やしなどの必要です。それが起こるべきだと思っています。それぞれに対する宣言を紹介します。まず、IIコリント 9:8 です。
「神は、私たちを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
これは3つのシンプルなことばから成っています。神はできる方です。あなたは神の力を信じますか。とても重要なことです。神に出来ることが書かれています。これは驚くべき聖句です。すべて、あらゆる、あふれる、満ち足りるという言葉が多く用いられています。パウロがたった一節にこれほど多くの豊かさを表す言葉を入れている句は他にはなく、そしてそれは恵みです。どのように、何によって恵みを受けるのでしょうか。信仰によってです。恵みによって、信仰を通してあなたは救われました。それは私たちが努力して手に入れるものでも。報酬によるのでもありません。しかし、私たちは神の恵みを信じる信仰によってそれを受け取るのです。これは、私たちのミニストリーの経済的基盤と言えるでしょう。経済のために祈る時はいつも、私たちはこの基盤から始めます。すると、肯定的な姿勢になるのです。ですから、もう一度宣言しましょう。
「神は、私たちに向かってすべての恵みを豊かにし、私たちが常にすべてのことにおいて十分であり、すべての良い業に豊かにすることができるのです。」
あなたが自分にはできない、無理だと思っている問題や課題に取り組んでいるとします。自分にはそれをするための能力がない、教育がない、体力がないと感じています。しかし、神があなたにその課題を与えられているのです。ですから、私たちはピリピ 4:13 の言葉をよりどころとします。私の翻訳バージョンを紹介します。私はたまたまギリシャ語を知っているのですが、主はギリシャ語の優れた表現を私に与えてくれたと思っています。それは私が今まで聞いたどのバージョンの翻訳よりも意味が明確です。しかし、それは印刷されていません。そのバージョンはどこにも売っていません。
新改訳では、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
私のバージョンではこうなります。
「私は、私に力を与えてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
私が「力を与える」という言葉を使ったのは、ギリシャ語では通常「力」と訳される dunamis だからです。つまり、あなたの中には、あなたの宣言によって解放される力の源があるのです。「私は、私に力を与えてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」自分には教育も体力もない。でも、神のみこころなら、それが神からの与えられた仕事であるなら、私に内側から力を与えてくださる方がいてくださる、ということです。
その問題が病とします。私たちが好きな宣言の一つがIペテロ 2:24 です。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、私たちは、いやされたのです。」
お分かりのように、これは過去形です。贖いの癒やしについて書かれている時、未来は使われていません。イエスが来られる 700 年前に、イザヤは、「彼の打ち傷によって私たちはいやされた」(イザヤ 53: 5)と言いました。ペテロは贖いのことを振り返って、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされた」(Iペテロ 2:24)と言っています。それによって、私たちに全く新しい視点が与えられます。自動的に病が消え去るという意味ではなく、病気になってそれに立ち向かうための別の基盤が与えられるということです。時には、長い間その言葉を言い続けなければなりません。神のことばとあなたの症状、どちらがより信頼できるかを判断しなければなりません。
私たちはさらに攻撃的な領域に入って行きます。国家や国際情勢への介入について話します。妻と私は、自分たちの必要以外にも、様々な状況、国々の将来のために多くの時間を費やして祈っています。あなたを励まし、助けとなるみことばをいくつか紹介します。私たちのお気に入りの宣言の一つは、ダニエル 2:20-22 と 4:34-35 です。最初のことばはダニエルによって語られ、次のことばはネブカデネザルによって語られていますが、そのメッセージの内容は同じです。ダニエル 2:20-22、4:34-35 の抜粋です。
「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか』と言う者もいない。」
これらのことばは、未信者のネブカデネザル王のものであることを考えてください。彼がその頃までには神を信じていたと私は思います。しかし、ネブカデネザルの人生に起こった神の驚くべき働きについて考えてみてください。私たちが祈り方を学ぶなら、神は不信心な邪悪な支配者を変えることができるということは、私たちへの励ましです。
そして、第二歴代誌から 2 つの聖句を取り上げますが、それぞれ一節ずつの祈りの箇所です。私たちが祈る時、例えば中東の情勢や他のどのような状況のためであっても、特定の祈りをする前に、私たちはこれらの祈りをすることが多いのです。私たちを奮い立たせてくれるからです。第二歴代誌 14:11。
「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。
申し訳ありませんが、最後の部分を見逃しました。もう一度やりましょう。
主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」
もう一つは、第二歴代誌 20:6 です。
「私たちの父祖の神、主よ。あなたは天におられる神であり、また、あなたはすべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません。」
アーメン。では、詩篇 33:8-12 を宣言しましょう。これは、あなたが世界情勢のために祈る時、非常に力強い励ましとなります。
「全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。主は国々のはかりごとを無効にし国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。」
つまり、誰がすべての勝利者となるのですか。主を神とする国です。国々や国連、政府のあらゆるはかりごとや計画は、神のご計画に反するものなら、ばかげたものに過ぎません。
では最後に、私たちが最も祈っている地域の一つ、中東に関することをいくつか紹介します。あなたがその地域への祈りに同じ重荷を持っていなくても、原則を理解し、それをあなたの状況に適用してください。第一に、中東と北アフリカは、地球上で福音を浸透させるのが最も難しい地域であることは間違いありません。それにはとても重要な理由があり、宣言の力が発揮される理由でもあります。あなたは、ほとんどのムスリムが一日に 5 回、「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドは神の預言者である」と宣言していることを知っているでしょう。もちろん、アッラーは聖書の神ではありません。
さて、ムスリム暦は西暦 627 年頃に始まり、1300 年以上続いています。そして、この宣言は 1300 年 以上もの間、すべてのモスクで毎日 5 回宣言行われています。計算してみましょう。1300 年を日にちに直すと 474,500 日、四捨五入して 50 万日としましょう。日に 5 回なので、250 万回以上、すべてのモスクで宣言がなされてきたことになります。現在、北アフリカと中東には少なくとも 50 万以上のモスクがあるはずですから、何十億回もの宣言がなされてきたことになります。なぜその地域には、地球の他のどの地域よりも強力な反キリストの力があるのでしょうか。その原因は何でしょうか。宣言です。否定的なものであれ、肯定的なものであれ、宣言には力があるのです。私たちは、それらの否定的な宣言の力に打ち勝つにはどうすればいいのでしょうか。肯定的な宣言をすることです。
では、一つの例を挙げましょう。あなたが絶望的な課題だと思うケースです。モーセがエジプトの魔術師に立ち向かい、全員が自分たちの杖を地に投げて、すべての杖が蛇になった時、何が起こりましたか。モーセの蛇はエジプト人たちの蛇を飲み込んでしまいました。つまり、私たちがどのように宣言するかを知っているなら、その宣言はあらゆる否定的な宣言に打ち勝つことができるのです。ですから、イスラエルと聖書的に彼らの土地に関して特別な 2 つの宣言をしましょう。最初は詩篇 125:3 です。
「悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、正しい者が不正なことに、手を伸ばさないためである。」
今から行おうとしている宣言での文脈での「悪の杖」とは何ですか。イスラム教です。正しい者の地所とは何ですか。神の民の地所です。政治家たちが何と言おうと、彼らが何をしようと、悪の杖は正しい者の地所の上にとどまることはない、と聖書は言っています。
あなたはそれを、信仰を持って言わなければなりません。あらゆることが正反対に見えている時こそ、これを宣言する時です。あなたの杖を伸ばすと、あなたの蛇が魔術師たちの蛇を飲み込みます。
そして、詩篇 129:5-6 です。
「シオンを憎む者はみな、恥を受けて、退け。彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。」
私はシオンを憎むすべての人に告げます。彼らは決して成熟することなく、決して完全な背丈に成長しません。成長する前に枯れてしまうのです。それが神のことばであり、実現するのです。
最後に、エレミヤ 31 章にある、イスラエルの回復に関するもう一つの聖句を紹介します。エレミヤ 31:7 です。
「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらのために叫べ。告げ知らせ、賛美して、言え。『主よ。 あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』」
歌え、叫べ、告げ知らせ、賛美して、言え(祈れ)、という 5 つのことばがあります。「告げ知らせる」 (宣言)はその一つです。そして 10 節にはこう書かれています。
「主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。『イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る』と。」
これが、現在の中東情勢に対して私たちが言うことばです。イスラエルを散らされた神は、イスラエルを集め、牧舎が群れを飼うようにイスラエルを守るのです。それを言いましょう。
「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」
私たちは、聖書が言っていることを行いましょう。立ち上がり、宣言し、賛美し、叫び、私たち自身の喜びを表しましょう。

学習教材
個人的な使用、メッセージの準備、聖書の学びのディスカッションのために。
コード: MV-4320-100-JPN











