イエスは、私たちにとって励みとなる2つの言葉を用いました。詩篇から引用してこう言っておられます。

「もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから・・・」、

このヨハネ 10:35 で、イエスは聖書に対して、2つの肩書を使うことにしました。「神のことば」と「聖書」です。この二つはまったく同じ意味ではありません。イエスが聖書を「神のことば」と呼ぶときは、神から直接来たメッセージであることを意味しています。聖書は多くの異なる形式で、多くの著者によって書かれましたが、すべての源、究極の源は神です。聖書は神のことば、神のメッセージであり、神が私たちに知ってほしいと願っておられることなのです。

しかし、「聖書」という語の文字通りの意味は、「書かれたもの」です。それには限界があります。神は、聖書には書かれていない多くのことばを語られました。しかし、聖書の中に書かれているのは、神が私たちの益のために書いて記録するために選ばれたことばです。そして、聖書書かれていることはすべて、人間の益のためであることを常に覚えておかなければなりません。聖書には、私たちが人生の中で最善の道を見出し、神とともにこの世から永遠への安全な歩みをするために知っておく必要のあるすべてが書かれています。

ですから、今日私は、神のことばが私たちに何をしてくれるのか、その様々な側面を簡単にお話しします。時間の関係で、一つ一つを長々と話すつもりはありません。神がこの言葉を通して私たちに与えてくださったすべてのことを理解するために、みなさんの心が開かれることを願います。

これは、私自身の生い立ちからして、とても現実的なことなのです。私はケンブリッジのキングス・カレッジで古代・近代哲学の特別研究員となりました。つまり、私の職業は哲学家でした。私が哲学者になったのは、人生の問題の答えを探し求めていたからです。どうしても人生の意味と目的を見出したかったのです。なぜかはよくわかりませんが、生まれながらにして、「人生の意味とは何か」という疑問を持っていたように思います。10 代になる前、すでにその答えを探していました。私が通っていた学校は、チャペル出席が義務付けられていたので、10 年間イギリスの教会に通っていました。そして、聖書から聞いたことに感銘を受けましたが、キリスト教がその答えを持っているようには思えませんでした。ですから、ケンブリッジ大学に入学して、毎日チャペルに行く義務がなくなった時、教会生活はもう終わった、行かなくてもいいことが嬉しかったのです。人生の意味を別のところで探そうと思いました。そして、自然と哲学の道へ進みました。私は研究員になり、最終的には哲学の教授になりました。

私は、学問的なキャリアでは非常に成功していましたが、答えはまだ見つかっていませんでした。その後、第二次世界大戦が勃発し、どこに派遣されるのか変わらないまま、イギリス軍に徴兵されました。入隊する際には、多くの荷物を持って行くことはできず、一つの黒い円柱のカバンにすべてを詰め込んで持ち歩かなければなりません。大半の兵士とは違い、私はどの本を持って行くか悩みました。そこで、私は最終的に選んだのは、世界中で最も広く読まれ、人類の歴史に影響を与えた本、それは一種の哲学の本のようであるにもかかわらず、私はその中身をあまり知らないと本を持って行くことに決めました。何だと思いますか。聖書です。そして、私の予想はまったく正しかったのです。文句なしに、聖書は人類の歴史上、最も影響力のある本です。聖書について何も知らない人が教養があると言えるのか、私は疑問に思います。

そこで、私は新しく黒い聖書を買いました。の宗教観は基本的に黒だったので、黒色以外の聖書があることが信じられませんでした。私はどのように読もうかと考え、最初から最後まで順番に読もうと決めました。ですから、入隊した最初の夜、創世記1章から読み始めました。私のバラック小屋はちょっとした騒ぎになりました。そこには他に 24 人の新兵がいましたが、彼らは聖書を読む私を見てひそひそ話し始めました。彼らは戸惑っているようでした。

問題は、私が聖書を読んでいない時の私は、聖書を読んでいる人のような生活をしていなかったことでした。その反対で、誰が見ても明らかな罪を犯していました。

私は聖書を読んでいながら、不道徳な生活を送っていました。聖書は私がまったく理解できないと思った初めての本でした。私はギリシャ語、ラテン語、ロシア語、フランス語など、様々な著者の本を読み、著者の言いたいこと、著者の主張の正しいこと、間違っていることが常に把握できました。しかし、聖書に関しては、何について言っているのか全く理解できなかったのです。聖書はどの分類の書物なのかさえ分かりませんでした。詩なのか、歴史なのか、神話なのか、それとも哲学なのか。どの分類にも当てはまらないように感じたのです。

そして9か月後、ある真夜中に軍のバラック小屋で聖書の著者である主イエス・キリストが私にご自身を明らかにしてくださったのです。その夜から今日に至るまで私が一度も疑ったことのない二つのことがあります。一つは、イエス・キリストは生きておられること、もう一つは、聖書は真実であり、重要な最新の書物であることです。イエスに出会ったその瞬間、聖書は完全な意味を成すものとなりました。悩む間もなく、毎日が新しい日々になりました。

これが私の個人的な経験と背景です。ですから、私は聖書を高く評価しているのです。その日から 50 年近く、私は聖書を学び、様々な国、様々の宗教、様々の文化の人々に聖書を分かち合い、教える機会が与えられています。そして、聖書は、すべての国々、すべての文化、すべての人々に語ることのできる唯一の本であることを知りました。ですから、私は聖書を恥としません。私は聖書を信じていることを決して恥ずかしく思いません。クリスチャンは聖書を信じていることを恥じるべきではありません。知的な劣等感を抱く必要もありません。私は哲学を専門にしていました。人間の起源や宇宙の起源など様々な説や理論を研究してきました。しかし、私の判断では、聖書は私がこれまで研究した本の中で最も論理的な本だと言わざるを得ません。その論理は完璧です。

もし、完璧な論理の例を知りたいなら、ローマ人への手紙を読んでください。これは傑作だと私は思います。人間が書いたもので、パウロのローマ人への手紙の論理性と完璧性に匹敵するものはありません。ですから、あなたがどのような立場の人であれ、聖書を信じていることで劣等感を抱く必要はありません。それは劣等のしるしではなく、良識のしるしなのです。

では、「聖書があなたに何をしてくれるのか」というテーマで始めましょう。まず、聖書についてのいくつかの一般的な記述を紹介しましょう。詩篇 33:6 はこう言っています。

「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。」

「息(ここでは「いぶき」)」という言葉は、ヘブル語では「霊」です。私がことばを話すときに息が一緒に出てくるように、神が語られると、神の霊が一緒に出てくるのです。そして、それは、宇宙全体がどのように創造されたかを教えてくれます。それは、複雑なことではなく、主のことばと主の霊によって生まれたのです。この二つは、全被造物の神の代理人です。創世記の天地創造の記録を読むと、それがいかに正確であるかがわかるでしょう。ですから、これは私があなたにどうしても伝えたい驚くべき考えなのです。あなたが聖書を読んでそれを吸収し、自分の中に適用するとき、全能の神の創造のすべての力があなたに働くのです。なぜなら、神はご自身のことばと霊だけで宇宙を創造されたからです。そして、その同じことば、同じ霊が、私たちが聖書を読むときに同様に働くのです。ですから、聖書があなたの人生にできることに決して制限を設けてはいけません。外に出て、驚異的な神の創造の力が現れている星、太陽、海、山々を見てください。聖書を読むとき、それらすべてを創られたその同じ力が自分にも働いていると自分に言い聞かせるのです。

新約聖書のIテサロニケ 2:13 で、パウロは、新しく生みだされたテサロニケの教会に宛てて書いています。パウロは自分のミニストリーがどれほど力強く働いたかを思い出して、信者たちのことを神に感謝しています。こう書いています。

「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」

パウロは、これは人間の知恵によるものではなく、神のことばであり、神が私たちに語っておられるのだと強調しています。

しかし、神のことばは、私たちが信仰で受け取るまでは私たちのうちに完全に働くことはできません。信じる者には効果的に働くのです。不信仰は、神のことばの効果を遮断してしまいます。しかし、私たちが信仰をもって心を開き、それを信じるなら、効果的に働くのです。今日は、信仰によって受け取るときに、神のことばがあなたのうちに生み出す効果のいくつかをお話しします。

へブル人への手紙の中で、この手紙の著者もまた、あることを宣べています。まず、旧約聖書で神の民イスラエルについて、大いなるしるしと不思議によって超自然的にエジプトからどのように連れ出されたかを語っています。しかし、彼らは不信仰のために、神が約束された地に決して入ることはできませんでした。そして、へブル人への手紙の著者はこのことについて 4:2 でこう言っています。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」

彼らは神のことばを聞きましたが、神が意図された働きは彼らのうちに起こりませんでした。信仰に結びつけられなかったために、祝福の結果をもたらさなかったのです。私たちが神のことばを信仰によって結びつけるときにのみ、神が意図されたことが私たちのうちに働くのです。しかし、もしあなたが今、信仰を持っていなくても、それを手に入れることができることを少し後で簡単にお話しします。神のことばを受け取ることができたらと願うけれど、果たして自分に信仰があるかどうかわからないと言うなら、神のことばには素晴らしい点があります。それは、信仰を創り出すことです。後でその時間を持ちましょう。

もう一つ、へブル 4:12 で神のことばについて一般的なことが書かれています。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

神のことばについての素晴らしい事実のリストを紹介します。それは生きていて、死んでいません。力があります。どんな両刃の剣よりも鋭いです。現代的に言うなら、どんな医者のメスよりも鋭いのです。メスが刺し通すことができないところも刺し通すことができます。関節を骨髄から切り離すことができます。どんな精神科医の診断よりも鋭いのです。私たちの内側の最も密接な霊とたましいをも切り離すことができます。

そして、著者は、心の考えやはかりごとを判別すると言っています。ある人がこう言っているのを聞いたことがあります。「あなたが聖書を読んでいるとき、聖書もあなたを読んでいることを覚えておきなさい。」ある意味、私たちは畏敬の念をもって聖書に接する必要があります。なぜなら、聖書は自分でさえ気づかなかったものを明らかにしてくれるからです。神は常に、あわれみによってそれをしてくださいます。私たちは人生で成功することを妨げる問題を持っているかもしれません。その問題に気づいてすらいないかもしれません。あなたが聖書を読むとき、聖書にあなたを探ってもらい、そのメスが人間のメスが届くことのできないところまで入り、あなたが知らなかった問題を指摘してもらってください。

たとえば、率直に言いますが、私たちのほとんどが高慢の問題を持っていますが、多くの人は、自分の高慢に気づいていません。しかし、聖書を読むための時間を取ると、遅かれ早かれ、あなたの人生に高慢の根が隠れていることに気づくでしょう。それは、神があなたのためにしたいことを行う前に、取り扱われなければならない問題です。

さて、聖書がもたらす具体的な結果をいくつかお話ししたいと思います。私は聖書から話していますが、多くの場合、個人的な経験からも話しています。私が理論を説くことはあまりありません。神は、私に新しい真理の領域に入ることを望まれるとき、通常、いくつかの経験を私に与え、その真理を私に直面させる状況に導くのです。ですから、私が今お話しすることは理論ではありません。

まず、すでに間接的に言いましたが、聖書について言いたいことは、もしあなたが信仰を持っていないなら、信仰を得ることができます。これは、私自身の人生でのカギとなる聖句です。ローマ 10:17。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

信仰はどのように来ますか。聞くことからです。何を聞くのですか。神のことばです。さて、私はこの聖句を研究しました。なぜこれが私にとってそれほど現実的なのかをお話しします。私は主に出会い、聖霊のバプテスマを受けた後、まだイギリス軍に所属しており、中東に派遣されました。私は北アフリカの砂漠地帯で3年間過ごしました。その期間に私は医者には直せない病気になりました。そのため、一年間、病院で過ごしたのです。その病院のベッドに横たわりながら、私は神を知っており、聖霊のバプテスマにあずかっており、聖書を読んでいるし、自分に信仰があるなら、神は癒してくださると自分に言い続けていました。しかし、次にいつも私が思うことは、「でも、私には信仰がない」でした。それを口にするとき、私は、ジョン・バニヤンが『天路歴程』の中で、「絶望の沼」と呼んでいる、長く、深い、絶望の暗い谷にいたのです。そして、私はその谷から抜け出す道がなかったので、何週間も鬱と絶望の状態にありました。

そして、暗闇に一筋の光が差し込みました。それは、ローマ 10:17 からでした。

「そのように、信仰は...から始まる」

「始まる」という言葉を読んだとき、私は「これだ!」と言いました。信仰がなければ、始めることができるのです。その条件を満たなら、誰でも信仰がないまま生き続けなくていいのです。その条件とは何でしょうか。信仰は神のことばを聞くことによって始まるのです。

私は経験上、信仰には2つの段階があると考えています。あなたが神のことばに心を開いてそれを読み、黙想するとき、みことばがあなたの人生で何よりも大切なものとなり、聞くことができるのです。聞くとは、あなたが神と二人きりになる状況を作り、他のものを締め出すことです。そして、もし、あなたがそのように聞くことを続けるなら、信仰がやって来るのです。それはプロセスであって、即座に起こるものではありません。最初に神のことばがあり、それを聞き、それに注意を向け、心と思いを開き、自分をゆだねます。そうすれば、聞くことから信仰が生まれるのです。

もし、一日5分だけしか聖書を読まないなら、非常に小さな信仰しか育たないでしょう。それには時間がかかるからです。しかし、価値はあります。特に欧米諸国の人に言いたいのですが、あなたが霊的な人になりたいと切に願うなら、あなたの人生で交換しなければならない2つのものがあります。その2つのものとは、あなたが聖書を読む時間の長さと、テレビを見る時間の長さです。その二つの時間を入れ替るだけで、あなたの人生に驚くような変化が起こるでしょう。すべての人に当てはまるわけではありませんし、時間がかかることですが、注目に値します。

私がどのようにして、聞くことによって信仰を得、その信仰から得た癒しについて後でお話しします。なぜなら、私がどのように癒しを受けたかを説明するとき、それは「聞くこと」とは何かを示す完璧な例だからです。

次に、信仰から発展する神のことばがもたらす結果は、「新しい人」です。「新しい人」と「古い人」があります。新しい人は、信仰をもって神のことばを受け取るとき、私たちの中に生み出されるイエス・キリストにあるいのちです。古い人とは、神から離れている状態のことです。つまり、新しい人は神のことばの産物であり、神のことばの種から成長するのです。このことを、いくつかの聖句から見ていきましょう。ヤコブは、ヤコブ 1:18 でイエス・キリストの信者について言っています。

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」

新しい誕生はあなたから始まるのではなく、神によって始まります。私たちの心で受け取った真理の言葉によって、神のみこころに従って私たちは新しく生み出されるのです。ヨハネ 1:13 で、ヨハネは新しく生まれた人について言っています。

ヨハネ 1:13 で、ヨハネは新しく生まれた人について言っています。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

新生は、私たちの意志ではなく、神のみこころによってなされるのです。そのことを明確に理解する必要があります。私たちが信者となったのは、神がそれを望まれたからです。そして、最初の動機は神から来ているので、私たちはその神のみこころに応答しなければなりません。神はご自身のみこころによって、真理のことばによって私たちを生み出したのです。

そして、Iペテロ 1:23 で、ペテロはこのテーマを発展させてこう言っています。

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」

つまり、この新しいいのち、新しい人を生み出す種は、神のことばという種です。それは朽ちることのない種です。決して腐ることなく、変わることもなく、自然界にある種のように、変異したり劣化したりするようなことはありません。種の性質は生み出すものの性質を決定づけます。あなたがリンゴの種をまくと、リンゴができます。オレンジではありません。ですから、神のことばの種の性質は、そこから生まれて来るいのちを決定づけます。それは朽ちない種なので、どのようないのちが生まれてくるでしょうか。朽ちないいのち、腐敗することのないいのちです。それは神の種なので、神のいのちです。

そして、Iヨハネ 3:9 で、神のことばの種から新しく生まれることについて、ヨハネはこう言っています。

「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」

詳しくは説明しませんが、この聖句は、生まれ変わったクリスチャンについて言っているのではありません。私を例にとりましょう。私は1941年に新しく生まれました。それはとても現実的で、力強く、今日まで続いています。しかし、それは私が1941年以来一度も罪を犯したことがないということではありません。そうであればいいのですが、違います。また、私が罪を犯すことができないという意味でもありません。実際、私は罪を犯さないように、自分をよく見張って祈ることを強く意識しています。しかし、私の中に、罪を犯すことのできない性質、新しいいのちが生まれたことは事実です。朽ちない種から生まれたので、私は朽ちることのない者です。

私が対処しなければならないもう一つの性質は、キリストが私のうちに来られる前の「古い人」の性質です。罪を犯さずにはいられない、それが古い人の性質です。本来とても反抗的です。ですから、私たちが生まれ変わったクリスチャンであるなら、私たちが歩む人生は、どのような性質が自分を支配しているかによって決丸のです。新しい人が支配していれば、罪を犯さない人生を送ることができます。しかし、古い人が戻って来て、住み始め、コントロールし始めると、必然的に罪を犯すことになります。となります。しかし、私たちの内には、朽ちない性質、それは罪を犯さない性質、純粋で聖い性質をもった、神のことばの種が生み出されたということを知る必要があります。それはまさに、神のことばの種を通して与えられた神ご自身の性質そのものなのです。その性質によって、私たちは神の子どもとされるのです。それは神のことばから来るのです。

人間のレベルで考えてみましょう。人間の赤ちゃんが生まれると、まず必要なのは、適切な栄養です。とても健康な赤ちゃんであっても、適切な栄養を摂らないなら、すぐに衰弱し、やがて死んでしまいます。これは、生まれ変わったクリスチャンにも同じことが言えます。生まれ変わったあなたは、内側に新しい性質があり、栄養を求める新しい人です。赤ちゃんは食べ物をもらえないとき、どうしますか。泣きます。生まれ変わったクリスチャンの中にも、栄養が与えられなければ、泣き始めるものがあるのです。

神のことばの素晴らしい点は、新しいいのちを生み出す種であるだけではなく、新しいいのちの栄養となる食物でもあることです。このことは、聖書に非常にはっきりと書かれています。ペテロの手紙第 一に戻りましょう。最初の章では、朽ちない種から生まれることについて語っています。そして、2章 を「ですから」で始め、このように続けています。聖書で「ですから」という言葉を見つけたとき、何を踏まえてなのかを知る必要があります。この箇所の「ですから」は、新しく生まれたことです。あなたは新しく生まれたのです。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

つまり、生まれたばかりの神の子の栄養は何ですか。神のことばという純粋なミルクです。もし、生まれ変わったクリスチャンにその栄養を与えないなら、彼らは受け取った新しいいのちを失ってしまうに違いありません。何よりもまず、神のことばを定期的に摂取するために学ばなければなりません。最初はミルクから始めます。あなたは赤ちゃんにパンや、ましてや肉をあげてはいけません。消化の良いものが必要です。ですから、新しくクリスチャンになった人には、基本的にはイザヤ書や伝道者の書を読ませない方がいいのです。それらの書物に興奮する人もいるかもしれませんが、私は、新しいクリスチャンや求道者を導いている人に助言することは、まず必要なのは、適切な栄養であるということです。そして一般的には、新約聖書の3つの書を順番に読むように勧めます。これは、文化と背景によって異なりますが、一般的にヨハネの福音書、使徒の働き、そしてローマ人への手紙の順に読むことを勧めています。少し多すぎると言う人もいるかもしれませんが、一般的に言って、ヨハネの福音書は新約聖書で最初に読むのに適していると思います。そして、遅かれ早かれ、使徒の働きに進む必要があります。なぜなら、使徒の働きは、教会がどのように機能することを意図しているかを描いているからです。多くの場合、教会は神のみこころの型には程遠いことを認めなければなりません。神はご自身の型を変えることはありません。そして、ローマ人への手紙ですが、これは特に私の哲学的背景のせいかもしれません。しかし、クリスチャンはローマ書の実用的な真理を理解する必要がある時が来ると思います。福音書を理解するにはローマ書を読むべきだというのは、ほとんどの聖書注解者が同意するでしょう。簡単な内容ではありませんが、始める価値はあります。

私はローマ書を広範囲に教えてきましたが、やり切ったと感じたことはありません。教え終わるたびに、こう言えばよかったのにとか、これを言い忘れたとか、自分も知らなかったことを突然発見したりするのです。とにかく、生まれたばかりのクリスチャンは、神のことばのミルクが必要です。誰かが新しい人になった人に私が関わるとき、最初に言うことは、「まず必要なのは聖書です。定期的に読んでください」です。日曜日だけではなく、毎朝、毎晩読んでくださいと言います。そうすれば、あなたは成長します。

次に、聖書を読むとともに、祈ることを学び始めてください。聖書を読むとき、神はあなたに語ってくださいます。そして祈ることは、神に話しかけることです。ですから、もし聖書を読むことと祈りを一緒にするなら、あなたは神と双方向の交わりを持つことができるのです。

そして3つ目は、信仰を告白することです。あなたがイエスを信じていることを人々に知らせてください。街角に立って説教する必要はありませんが、何らかの方法であなたがイエスを信じていることを人々に伝える機会があるように、神はいつも見守っておられます。自分の信仰を告白しないなら、信仰は枯れてしまいます。信仰は告白されなければならないのです。

そして4つ目は、他のクリスチャンとの交わりです。クリスチャンは一人だけでは成長しません。互いを必要とするのです。神のことばが定期的に宣べ伝えられる場所にいる必要があります。他のクリスチャンたちと礼拝する機会も必要です。

みなさんの多くは、誰かをキリストに導く機会が与えられている、あるいはこれからその機会が与えられると思うので、少し復習しましょう。人々に植えつける必要のある4つのものを紹介しました。1 聖書を読むこと、2祈ること。宗教的な言葉ではなく、シンプルに神と話すことです。3自分の信仰を告白すること、4クリスチャンの交わりを求めることです。私は常に、聖書を読むことを第一に持ってきます。なぜなら、聖書を知性で読むなら、それがあなたを他のものへと導いてくれるからです。

ミルクの次に人が必要とする食物は、少なくとも中東での一般的な食べ物はパンなので、聖書はパンと言っています。イエスがご自身のミニストリーを始められたとき、サタンはイエスに、パンを石に変える奇跡を行うように誘惑しました。しかし、イエスはそれをしませんでした。イエスはこのように答えました。マタイ4:4です。

「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』(申命記にあります)」と書いてある。」

つまりイエスは、霊的には神のことばは霊的に、この世のパンと同じであるということです。人々の食生活で一番基本となる食べ物に例えているのです。世界の多くの地域では、他の食物を買う余裕がなくても、パンを主食としている地域では、人々は最初にパンを買うでしょう。イエスは、「神の口から出る一つ一つのことば」と言っています。それは一種の生きた関係です。単に本(聖書)を読むだけではなく、神がその本を通してあなたに語ってくださることを聞くのです。多くの人が、神は私たちが聞く必要があるものを知っておられると証言できるでしょう。妻と私は通常、毎朝、何かを始める前に聖書を読みます。人と接する前、忙しくなる前に神から聞きたいのです。そして、一緒に聖書を読んでその日を終えるのです。その日読んだ特定の箇所が、その日に必要なことを教えてくれたことが数え切れな いほどありました。それは焼き立てのパンのようなものです。パンを長い間置いておくと、完走したり、腐ったりします。ですから、神のことばを干からびさせたり、腐らせたりしないでください。毎日神の口から出る焼き立てのパンを食べてください。

霊的な栄養には、さらに次の段階があり、聖書で言うところの固い食物があります。へブル人への手紙の中で、著者はそれについて語っています。へブル5:12-14 です。そのへブル人たちは、イエスを信じるユダヤ人信者であったことを理解しておく必要があります。彼らは何世代も前から旧約聖書を知っていたので、当時は他の人たちよりも優位に立っていました。当時、他のどの国も知らなかった神についての知識を持っていました。へブル書の著者は、そのユダヤ人信者たちを叱責しています。それは、その人々が幼い時からみことばを学んできたというその貴重な強みを持っていたのだから、他の国々や人々の教師となる立場であるべきだが、実際には、あなた方は神のことばに対して怠慢だった。あなたがたは、まるで生まれたばかりの赤ちゃんのようで、ミルクを必要としている。パンを食べる段階にも来ていないと言っているのです。

この聖句を読んでさらに説明しましょう。へブル 5:12 です。

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」

これは、少なくとも欧米世界のイギリスやアメリカ、スカンジナビアのような、何世紀にもわたって聖書が存在してきた国々の何百万人ものクリスチャンの描写ではないかと思います。私たちは今日、一世紀のユダヤ人信者たちのような立場にいるのです。これは、今このメッセージを聞いている人全員がそうだと言っているのではありませんが、ミルクやパンだけではなく、十分な栄養を摂ることができる 時点まで成長し、成熟する責任があります。ですから、へブル書の著者は 13 節でこう続けています。

「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」

つまり、あなたの霊的レベルの発展は、あなたがクリスチャンになって何年経っているかで決まるのではなく、どんな食物を摂ることができるかによって決まるのです。もし、クリスチャンになって 10 年経っていても、まだミルクしか飲めないなら、霊的には赤ちゃんです。あなたの問題は、発育不良、まったく成長していないことです。

そして、へブル書の著者は、どのように成長できるかを説明しています。14 節でこう言っています。

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」

どうすれば成長し、どうすれば熟するのでしょうか。それには実行することが大切です。聖書を定期的に読むこと、日々直面する状況に適用するのです。なぜなら、聖書はあらゆる状況に光を投げかけてくれるからです。ですから、もしあなたが本当に聖書に生きているなら、新しい状況や問題が生じたとき、あなたは理解し、それが何であるかを見極め、対処方法がわかるのです。そして、問題への対処方法を知れば知るほど、さらに経験を積むことができるのです。

再び、欧米のクリスチャンについて言うと、彼らがどれほど簡単に騙されるかを見ると、いつも涙が出そうになります。私たちは、神の民につけ込み、神の民を欺くミニストリーの例を見てきました。神の民はそのように騙されるはずがないのですが、問題は、彼らが良い物と悪い物を見分ける感覚が訓練されていないことにあります。彼らは、ただ何でも飲み込んでしまうのです。もし、説教者が大声で叫び、大きな音を立てたら、それは神に違いないと思ってしまうのです。私は叫ぶことに反対しているのではありません。聖書には叫ぶように書かれている箇所が多くあります。私は、聖霊は人を打ち負かさないということを発見しました。もしあなたが、圧力をかけられているなら、立ち止まって確認してください。おそらくそれは聖霊ではありません。あなたがロック音楽に対してどう思っているか、私にはわかりませんが、私にとっては苦痛です。自分の感覚をあのような中にさらし続けたくないのです。聖霊はそのように私たちを扱わないと信じます。言っていることが分かりますか。あなたは敏感でなければなりません。聖霊に対して敏感さを養ってください。あなたが神のことばに動かされて生きれば生きるほど、さらに識別できるようになるでしょう。そうすれば、人々はあなたを騙したり、利用したりすることができなくなります。それは、クリスチャンの成長のために不可欠なことです。そして、成長する方法は、あなたが固い食物を食べることができるところまで進展させることです。

続けましょう。私がお話ししたい神のことばの次の働きは、精神的な光と私が呼ぶものです。たくさんの聖句がありますが、詩篇 119 篇だけを取り上げましょう。これは最も長い詩篇です。そして、その詩篇のすべての節に神のことばを表現したフレーズが含まれています。約8種類のフレーズがありますが、それを含まない節は詩篇 119 には一つもありません。詩篇 119:130 は次のように神に言っています。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」

これは、神のことばが私たちの思いの領域に何をするかについて言っています。神のことばは、光と悟りを与えます。さて、私はケニアでアフリカ人教師のための教育大学の校長を5年間していました。私は、人々をどう教育するかという問題に直面していました。私は学生たちに、教育を受けても愚かな者である可能性を指摘し続けました。教育は知恵ではありません。私は教育に反対しているのではなく、教育は重要で不可欠です。私が学生たちに言っていたことは、世界の問題のほとんどは、教養のある愚かな者たちによるということです。そのこと考えれば考えるほど、それがいかに真理であるかがわかると思います。もし、彼らが教育を受けていなければ、それほど大きな問題を引き起こすことはできないでしょう。

20 世紀初頭、アメリカの大統領が泥棒についてこう語っていました。教養のない人は、鉄道の車両を一両盗むが、その泥棒を教育したら、全車両を盗むだろうと。

つまり、教育とは光ではないのです。私自身高度な教育を受けながら、真っ暗闇の中にいたからです。自分がどこから来て、どこへ行くのか、人生で正しい道を見つけるにはどうしたらいいのか、分からなかったのです。しかし、試験や論文では、いつも優秀な出来栄えでした。私は教育を受けましたが、暗闇の中にいたのです。そして、それは多くの人々の状態でもあります。学歴がありながら愚かなのです。教育を受けているけれど、人生の正しい道筋のつけ方を知らないのです。学歴がありながら、道徳的な問題、心身の問題を抱えている人は、無教育の人と同じくらいたくさんいるのです。あるフランス人作家は「老いた医者より、老いた酔っ払いのほうが多い」と言いました。つまり、学歴があるからと言って、ですから、学歴があること自体が、良い人生や本当の成功を保証するものではないのです。神のことばは光として入って来ます。私たちがどこにいるかを示してくれます。神のことばは、私たちの本当の問題を示し、その答えを示してくれます。

自然界では、光の代わりになるものはありません。この世界で、光と同じ働きができるものは他にありません。再び、アフリカの学生たちについてですが、私はこの光のことを彼らに印象付けようと思いました。そこで、もしこの教室が真っ暗だったら、どっやって暗闇をなくすかと質問しました。彼らの反応を少し待ってから、「ドアと窓を全部開けて、風で暗闇を吹き飛ばすというのはどうだろう」と行ってみました。彼らは「それではダメだ」と言いました。次に私は、「では、何本かのほうきを持って来て、暗闇を掃き出すというのはどうだろう」と言いました。彼らはもちろん、「ダメだ」と言いました。私は、「では、どうしたら暗闇を追い出すことができるか」と聞きました。すると、ある学生は、「電気のスイッチを入れる」と言いました。その通りです。光が来ると、暗闇はもはや存在しません。神のことばに心と思いを開くことは、あなたの思いの中の光のスイッチを入れることです。自分が何者なのか、また、あなたの問題の本質がわかるようになります。

私は少なくとも 15 年間、人生の意味を探し求めていました。しかし、私が持っていた教育では、それは示されませんでした。聖書の光が差し込んで来たとき、自分が本当に必要としていたもの、人生を有意義にするもの、成功させるものを理解し始めたのです。聖書は、「わきまえのない者に悟りを与える」と言っています。英語では、「単純な者」です)。単純という言葉は、今日むしろ軽蔑される言葉です。しかし、単純、シンプルであることはとても大切なことです。複雑に考えすぎないでください。複雑に考えすぎると、解決策を見つけ出したかどうかが分からなくなってしまうのです。しかし、あなたが単純な人なら、もしあなたが基本に忠実な人なら、幸せがほしい、愛がほしい生きるための最良の方法を知りたいと言います。深く考えすぎないでください。私が学んだドイツ人哲学者インマヌエル・カントのことを思い出します。彼が2ページ以上にもわたる一文を書いたことを考えると恐ろしくなります。聖書はそれとは全く違います。聖書は、最も短い言葉で、最も偉大なことを語っています。

アフリカにいたとき、現地の教会に招かれて、1週間毎朝メッセージをしたことがあります。ある朝、 私はIペテロ 2:24 から話すことに決めました。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」

私にとって、これはとても深い考えです。まさに福音の中心です。私は車を運転しながら、今から話をする人々は読み書きができない人が大部分だから、このメッセージは彼らには深すぎるかもしれないと思いました。すると、主は聖霊によって私にその節の中の、単語の数を数えなさいと言いました。英語での話になりますが、それを数えると、その節には 23 節の単語があり、一音節の単語は 19 個、二音節の語は3つ、三音節の語は 1 つでした。それは最も深い真理でありながら、単純な言葉で述べられているのです。複雑になりすぎると、あなたは自分が真理を語っているのかどうかが分からなくなり、愚かになってしまうことがあります。しかし、あなたが単純になるとき、自分が向き合っているものが何であるかがわかるのです。

あなたが神のもとへ来るとき、単純(シンプル)になることをお勧めします。正直になってください。あなたの心をさらけ出し、あなたの本当の問題を神に話してください。何も覆い隠さず、神のことばがあなたに必要な理解を与えてくださるようにするのです。

次の神のことばが私たちにしてくれることは、少し時間をかけてお話しします。まず詩篇 107 篇を開きましょう。それは、神がご自身のことばを通してあなたのからだになされることです。詩篇 107:17-20までを読みます。

「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。」

つまり、愚か者たちは「死の門」に来てしまいました。解決法もなく、もうどうすることもできない状態でした。19 節はこう言っています。

「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。」

これに対する私の感想は、ある人々は祈ることを手遅れになるまで放っておくということです。彼らは道の行き止まりまで来て、死の門にまで来て、手の施しようがなくなって、ようやく主に叫ぶのです。しかし、神はあわれみ深いお方ですから、そのような人々にも耳を傾けてくださいます。20 節に神の応答が見られます。

「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」

神は、どのように彼らの癒しの叫びに答えましたか。何を送りましたか。みことばです。神のことばによって、彼らの肉体を癒されたのです。19、20 節を見ると、神は彼らを救い、彼らをいやし、彼らを助け出したとあります。それらは、神のあわれみの3つの大きな働きです。罪から救い、病をいやし、サタンの力から解放してくださいます。神はそのために何を用いますか。何を送りますか。「神のことば」を送り、救い、癒し、解放します。

みなさんの中に、からだの問題を抱えている人がいると思います。祈ってほしいと思っているかもしれません。神が今、あなたのところに来ています。神はみことばを送っておられます。それを受け入れるなら、神のことばがあなたのところに届くので、あなたはこのメッセージを聞き終えたとき、癒されるでしょう。

では、からだのいやしについての別の素晴らしい聖句を開きましょう。箴言 4:20-22 です。

「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。」

神はご自分のことばについて言っています。そして、22 節でこう言っています。

「見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。」

全身とは、どういう意味でしょうか。私たちのからだ全体です。ですから、神のことばを私たちが見出すなら、私たちにいのちを与え、全身の健康をもたらすと神は言っているのです。

そして、多くの聖書で、「健康」という言葉は、「薬」と読み替えることができます。神は私たちの全身のために薬や健康を備えてくださっているのです。どのようにそれを与えてくださるのでしょうか。みことばを通して、また、神が言われることを通してです。

これは、私が一年間の入院の末に退院に至らせてくれた箇所です。医者が治療法はないと判断したとき、自分で聖書を学び、推測しました。哲学者であった私には特別な問題を抱えていました。癒しについて書かれた箇所を読むたびに、私は「そうです!」と言いましたが、それは単に私のたましいの癒しにしか過ぎない、神は私のからだには関心がないと思っていたのです。しかし、箴言 4:22 で、「全身を健やかにする」と書かれているのを見て、哲学者であっても、からだ(肉)を、たましいや霊の意味に捉えることはできないと考えました。それで、私はその言葉のまま受け取ることにしました。そして、みことばを薬として摂ることに決めました。私は医療兵だったので、薬の服用方法は知っていました。神のことばを薬として服用することにし、人はどのように薬を飲むかを考えました。通常の答えは、食後3回です。

これは、単純であることの例です。お分かりですか。私は頭は良くても、病気のままだったかもしれません。しかし、私が単純であったからこそ、癒されたのです。私は神のことばを薬として毎日3回、食後に服用することに決めました。そして毎食後、一人になって聖書を開き、頭を垂れて言いました。「神さま、あなたのこれらのことばは、私の全身を健やかにするための薬だと言われました。私は今、イエスの御名によって私の薬としてみことばを飲んでいます。」私は奇跡を受け取ったのではありません。私がいたスーダンは、最も体に良くない気候でした。そして、その最悪な気候の中で、神のことばは私に完全で永久的な健康をもたらしたのです。

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