神のことば 2

デレク・プリンス
Published: 1991
Last Updated: 2026年7月
Read Time: 40
健康問題や個人的な葛藤との戦いに負けそうに感じていませんか?デレク・プリンス著『神の言葉 ― あなたの尽きることのない資源 ― パート2』を読み進め、神の言葉がどのようにあなたに信仰、癒し、そして勝利をもたらすかを学びましょう。聖書はあなたの薬です。処方通りに服用すれば、人生に奇跡が起こります。
Transcript
前回の学びで、神のことばが、それを信じる私たちにもたらす様々な効果について話しました。そのうちの2つを簡単に振り返りたいと思います。まず、信仰は神のことばを聞くことによって来ると話しました。それは素晴らしい真理で、決して強調しすぎることはありません。もし、あなたが信仰を持っていないなら、信仰を得ることができます。なぜなら、信仰は神のことばを聞くことによってやって来るからです。
そして、前の学びの最後に、神のことばが私たちの全身に健康や薬を与えることを目的としているかを私自身の経験から簡単に説明しました。箴言4章は、聞くこととは何かを完璧に表している箇所なので、少しそれを振り返りたいと思います。あなたが神のことばを聞くことはどういうことかと疑問に思っているなら、箴言4章から得た私の個人的な経験に基づいて説明します。私は入院中にその聖句に出会い、それは私に健康と薬を提供しているのだと理解し、その通りにしようと思ったのです。医者たちの治療には感謝しますが、癒やされなかったので、神のことばを薬として飲むことにしたのです。私がそう決めた時、神はとても明確に語ってくださったと感じました。また神は、医者が薬を処方するとき、服用方法が書かれていることも言いました。そして、これが私の飲むべき薬の瓶で、書かれている説明を読むようにと言われました。そして、神のことばを薬として服用するための4つの指示があることを知ったのです。通常、医者は薬を処方するとき、その指示通りに飲まないなら、効果がないと言うでしょう。ですから、神のことばを薬として服用するための4つの指示をお教えします。私たちは、おそらく人生の中で一度はこれらの指示が必要になると思います。病気と無縁で長生きできる人はほとんどいません。ですから、これら 4 つの指示を覚えておいて、いざという時のために備えておいてください。
1. 神のことばに注意を向ける
2. 神が言っていることに耳を傾ける
3. みことばをあなたの目から離さない
4. みことばをあなたの心の真ん中に保つ
これら4つの指示に何が関連しているかを簡単に考えてみましょう。一つ目は、「注意を向ける」です。聖書を開くとき、あなたの全神経を集中させなければなりません。気が散らされないようにしてください。他のどんな声や影響、印象を遮断してください。神のことばだけに集中してください。そもそも、神はあなたに語っているのですから、神が言われることを聞くことに価値があるのです。
二つ目の指示は、「あなたの耳を傾ける」です。それは、謙遜の態度です。私はこれを考えるとき、アフリカのことを思い出します。アフリカの小・中学校では、生徒は練習帳を持って教師の所へ来る時、その練習帳を開いて教師の前に立ち、頭を下げ、耳を傾けます。つまり、教師と生徒の立場がはっきりしています。神が教師で、あなたは生徒となります。耳を傾けるということは、教えてほしい、学びたい、学ぶ必要があるという態度です。
私自身はこれに関して問題がありました。私の以前のキリスト教に対する印象は、もしクリスチャンになったら、人生の大半はかなり惨めになってしまうだろうと考えていたのです。惨めになるほどの価値があるとは思えませんでした、そして、私はキリストを信じたあとも、そう考えていました。ですから、聖書を学んでいると、神はいつも私が健康で、丈夫であることを望んでいる、私の成功を望んでおられると言っているように思えました。私は、それは話がうますぎる、聖書はそういう意味で言ってはいないはずだと、自分に言い聞かせていました。別の意味があるに違いないと。そして、主が私の思いに語りかけたことをもう一度思い巡らしていると、神は、誰が教師で、誰が生徒かと質問されました。私は、「主よ、あなたが先生で、私が生徒です」と答えました。すると神は、「あなたに教えてもいいか」と言われました。そして、私は自分が耳を傾けていなかったことに気づいたのです。私には、耳を傾ける態度ではなかったのです。神が語ることはこうだろうという、私の中に先入観があったのです。そして、もし神が別のことを言ったなら、私はそれを聞くことができなかったのです。
さて、キリスト教の背景を持たない人にとっては、そのような問題はないかもしれません。その人は、多くの面で先入観や偏見なく始めることができます。しかし、何らかのキリスト教の背景を持った人は、おそらく、聖書に一致したものではない伝統や先入観の影響を受けているでしょう。ですから、自分が期待していることと異なることを神から語られるとき、それを聞くことが非常に難しいことがよくあるのです。その解決法は、耳を傾け、頭を垂れて、謙遜になり、教えられやすい者となることです。
私は様々な場面で教師をしてきました。教わりたくない人に教えることは不可能です。あらゆることができ、すべての講義を聞き終えても、結果が伴わないのです。ですから、教わりたいという願い、教えを聞く態度が必要なのです。
3 つ目の指示は、みことばをあなたの目から離さないことです。これは、神のことばに集中するのです。他の事柄が聖書の内容と矛盾している可能性があるからといって、聖書も他のものを部分的に捉えてはいけません。聖書を通して神があなたに語っておられることに集中するのです。気が散らされないようにしてください。神が語っておられることからあなたを引き離そうとするものに影響されないようにしてください。
みなさんの中に教師の方もいると思いますが、私たちが以前小学校で教えていたとき、子どもの注意を引くための 2 つの主な門があると言っていました。それは、「耳の門」と「目の門」です。そして、良い教えにはその両方が使われます。ですから、ビデオが音声よりもさらに効果的なのは、ビデオは耳の門だけでなく、目の門も使うからです。神は教育心理学者より約3000年も前に、耳の門と目の門を使い分けておられたのです。
そして最終的な結果は、それらをあなたの心の中に保つことです。これらすべての指示の目的は、神の言葉をあなたの心、つまり人間の個性の中心に入れることです。
箴言の次の節、23節にはこう書かれています:
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」
つまり、あなたの心にあるものが、あなたの人生の行く末を決めるということです、ですから、あなたの心を見守ってください。
私の生徒の一人が、アフリカの言語で、「力の限りあなたの心を見張れ。人生のすべてはれから生まれる」と言ったのを覚えています。それは誇張ではありません。みなさん一人ひとりの心の中にあるものが、最終的にあなたの人生の歩みを決定するのです。間違ったものを心に持っているのに、正しい生き方をすることはできません。また、心に正しいものを持っていながら、間違った生き方をすることはできません。なぜなら、心こそが、私たちが導くすべてのいのちの源、泉だからです。これらの指示の目的は、耳の門、目の門、集中力、謙遜さ、教わるという態度を通して、神のことばを心の中に取り込むことを示すことにあります。
そして、すべての指示を同時に守ること、それが「聞く」ということです。そのようにして信仰が来るのです。あなたが対処している問題が病気であれ、他の問題であれ、信仰が必要なら、この箴言4 章の箇所には、あなたが信仰を得ることができるかが書かれているのです。
では、神のことばの他の効果について、簡単に説明します。次の効果は、罪に対する勝利です。詩篇 119:11 でダビデは主に向かってこう言っています。
「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」
ダビデは、「あなたのことば」を宝として、自分の存在の中心である心にたくわえたと言っています。心がいかに重要であるか、もう一度よく考えてみてください。あなたが神のことばを心に蓄えるなら、それはあなたの人生の歩みを方向付けるのです。ですからダビデは、「私は罪を犯したくない、罪から私を守るのは、あなたのことばを私の心に蓄えることだ。」と言っているのです。
ある人が、罪があなたを聖書から遠ざけるか、聖書が罪からあなたを遠ざけるか、そのどちらかであると言いました。遅かれ早かれ、どちらかが勝つのです。聖書が勝利すれば、あなたを罪から守ってくれるでしょう。
詩篇 17:4 に、ダビデのもう一つのあかしが見られます。ダビデはとても正直な人でした。彼の詩篇を読むと、彼の人生に多くの苦悩があったことが分かります。しかし、その苦悩を通して、私たちに方向を示し、助けを与えてくれることを神に感謝します。詩篇 17:4 です。
「人としての行いについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。」
「無法な者」とは、サタンのことです。サタンはあなたを滅びの道へと導くために誘惑するのです。その道には、いくつかの非常に紛らわしい標識があります。「成功」、「幸福」、「評判」などです。そして、あなたは、その道に進もうと考えるのですが、それは、書かれているものに続く道ではありません。その標識を立てたのは悪魔だからです。そして、あなたを迷わせ、滅びに至る道をたどらないようにするためには、神のことばに耳を傾けなければならないのです。神のことばは、あなたに警告を与え、注意を促し、方向を示し、罠と危険を示してくれるのです。
詩篇 119 に少し戻ってみると、その 2 節前の9 節で詩篇の作者はこう言っています。
「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」
それは、若い人たちたちだけではなく、年配の人たちにとっても大きな問題です。再び私がアフリカにいたときの話をします。基本的にアフリカ人は、若い男女はきよい生活を送ることは不可能だと考えています。しかし、それは当たり前ではありません。ですから、私たちは神のことばによって、それと戦わなければなりませんでした。ダビデは、「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるか」と問い欠けています。それはとても現実的な質問です。つまり、誰一人それが簡単なことだとは思っていないのです。しかし、ダビデは、「あなた(神)のことばに従って、それを守ること」によってできると言いました。もう一度言いますが、神のことばがあなたを罪から遠ざけるか、罪があなたを神のことばから遠ざけるかのどちらかです。もしあなたが、聖書にあまり興味を持たなくなってきていると感じたら、あなたの生活の中で聖書の代わりになってしまっているものをチェックしたほうがいいでしょう。それは破滅を招くかもしれないからです。
そして、聖書は罪に対して勝利するだけではなく、サタンに対しても勝利させてくれます。これはとても重要なことです。サタンはすべての信者の敵です。絶えず私たちに敵対し、私たちを迷わせ、誘惑に陥れようとします。しかし、サタンに勝たせてはいけません。私たちはサタンを倒すことができるのです。私たちには武器があります。それは「神のことば」です。エペソ 6 章で、パウロはクリスチャン全員が、現実の戦いではなく、霊的戦いの中にあることを指摘しています。私たちは血肉の戦いをしているのではありません。リビングバイブルでは、「戦う相手は、血や肉を持った人間ではなく、目に見えない世界の支配者たちや、霊界にいる無数の悪霊ども」であると言っています。それは霊的な戦いですから、私たちは霊的な武器を持っていなければなりません。パウロはエペソ 6 章で、私たちの霊的武器をリストアップしていますが、私は 17 節の武器に注目したいのです。こう言っています。
「救いのかぶとをかぶり...」
それは、あなたの頭を守るものです。そして、それは望みでもあることを付け加えておきます。Iテサロニケ 5:8 では、「望みをかぶととしてかぶって」と言っています。あまりにも多くの人々がうつの問題を抱えているので、話しは少しそれますが、お話ししたいと思います。今、うつや暗い気分、悲観的になって悩んでいる人はどれぐらいいるかと尋ねたら、多くの人が手を上げるでしょう。私もその一人です。私が主の働きを始めて間もない頃、うつで大変苦しみました。私は救われており、聖霊のバプテスマも受けており、人々を主に導いていました。しかし、その暗い雲が私の上にとどまり、私を閉じ込め、押し沈めました。私はそれに苦しみ、それと戦い、知っていることすべてをやりましたが、何の効果もありませんでした。それどころか、頑張れば頑張るほど、状況は悪化していきました。まさに絶望の淵に立たされた時、預言者イザヤの書 61 章 3 節を読んだのです。神は、「憂いの心の代わりに賛美の外套を与え」てくださると言っておられます。この言葉を読んだとき、聖霊は私に、「それがあなたの問題だ」と語りました。それは霊の問題であり、悪霊があなたを苦しめているのだと。あなたではなく、あなたの思いでもなく、別の人格があなたの思いの中に作用しているのだと示されました。
そして、もう一箇所、ヨエル 2:32 です。
「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」
そこで私は祈り、神に言いました。「神さま、イエスの御名によって、この重苦しい鬱の悪霊から私を救い出してください。」すると、神は私を解放してくださいました。そして神は、私の思いを守るものが必要だと示されました。私は武具について考え、それはかぶとに違いないと言いました。エペソ 6:17 ではそれを「救いのかぶと」と呼んでいます。私は救われているのさから、救いのかぶとを持っているはずだと思っていました。しかし、パウロは、救われたクリスチャンに、救いのかぶとをかぶるように言っています。私は、それがどういう意味がわからなかったのですが、それと関連しているIテサロニケ5:8 を見てみましょう。
「救いの望みをかぶととしてかぶって...」
私のかぶとは望みなのだと、自分に言い聞かせました。それこそ、私の心、思いを守るものです。そして、聖書を学んでわかったことは、望みとは、良いことを確信をもって期待することであることです。神から、私の思考パターンをすべて変えなければならないと示されました。私は本来悲観論者でした。そのように生まれたというより、幼少期から悲観的であるように育てられました。私の家では、もし、あなたが悩んでいないなら、悩みがないことについて悩むべきだと言われてきました。ですから、私は自分の思考回路全体が変えられなければならなかったのです。私は良い物を期待する、望みのかぶとをかぶらなければならなかったのです。
私がとった方法は、否定的な考えが浮かぶたびに、聖句の肯定的な言葉に意図的に置き換えることでした。そしすると、次第にそれは自動的にできるようになりました。ですから、現在、私はその問題がありません。神に感謝します。つまり、私たちはみな、時に否定的な思いに襲われることがありますが、結局、うつは私の問題ではないのです。それはすでに過去のものです。私はうつの霊から解放される必要があり、また私の思いを守ることを学ばなければなりませんでした。もう一度言います。望みのかぶとです。あなたがクリスチャンとして聖書を学ぶなら、望みを持てない理由は何一つありません。望みを持つ理由が聖書にありますが、あなたはそれを見つけ、適用しなければなりません。
次の声明に移りましょう。先ほどの続きです。
「また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
サタンに反撃する私たちの武器、それは神のことばです。ギリシャ語では、二種類の「ことば」があります。聞いたことのある方も多いでしょう。「ロゴス」と「レイマ」です。ロゴスは、神、神の助言のすべて、永遠の神、神のことばの総称です。レイマは、神が語られることばです。ここで使われているのは、レイマです。「神の語ることばである御霊の剣を受け取りなさい」と言っているのです。つまり、あなたを守ってくれるのは、枕元や本棚にある聖書ではなく、あなたが信仰によって声に出して宣言するみことばです。それが御霊の剣であり、そのように悪魔に立ち向かうたびに、悪魔は後ずさりするほど鋭い剣です。サタンは御霊の剣を恐れています。
その完全な模範がイエスです。マタイ 4 章で、サタンがイエスを誘惑しに来たとき、イエスはどのように答えましたか。三度、イエスは何と言いましたか。「書かれている」と言われました。それが御霊の剣なのです。すると、サタンはイエスから去って行きました。サタンは御霊の剣に答えることができないのです。どんなに心理的な理由で反論しても、サタンは何も感じません。しかし、あなたが聖句を自分に適用して用いるとき、サタンを追い出すことができるのです。
ですから、御霊の剣、神のことばは、サタンに対する私たちの武器なのです。あと 2 つの聖句を見ましょう。Iヨハネ 2:14 の後半部分で、ヨハネはこう言っています。
「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」
悪い物とは誰ですか。サタンです。ヨハネは、この若い者たちについて 3 つのことを言っています。あなたがたは強いこと、サタンに打ち勝ったこと、それは、神のことばがあなたがたのうちにとどまっているからだということです。もし、神のことばがあなたのうちにとどまっているなら、それは霊的な力と、サタンへの勝利を与えてくれます。
黙示録 12:11 で、その例を見ることができます。それは、終末に起こる神の民とサタンの民の激しい衝突を描いていると思います。それには、悪魔自身が個人的に関与しています。しかし、そこには私たちに与えられている勝利のカギが書かれています。
「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」
どのようにサタンに打ち勝つのでしょうか。小羊の血と私たちのあかしのことばによってです。
私がこれまで多くの人々にこのことを説明してきました。真理の価値は、支払うことができないほど高価です。私たちはどのようにして、小羊の血とあかしのことばによってサタンに打ち勝つのでしょうか。私はこう説明します。みことばが語っているイエスの血が私たちにしてくれることを個人的に証するとき、私たちはサタンに勝利します。そのカギは、神のことばが何を言っているかを知ることです。そして、それを自分の人生に適用するのです。
妻と私は、これらの聖句を適用した証しの形式をいつも用いています。その証しを今から実際にやってみたいと思います。いいですか。
「私のからだは聖霊の宮であり、イエスの血によって贖われ、きよめられ、聖なるものとされました。私のからだの各器官は、神の働きと栄光のために神にささげた義の道具です。悪魔は私の内に入るスキがなく、私を支配する力もなく、私を非難することのできるものは残されていません。すべてはイエスの血によって解決しました。私は小羊の血と私のあかしのことばによってサタンに打ち勝ち、私は死に至るまでいのちを惜しみません。私のからだは主のためにあり、主は私のからだのためにおられるのです。」
これらはすべて聖書から囲繞しています。お分かりですか。
私たちはすべての祝福を受けるべきです。座ったまま願うだけでなく、実際に少しずつ区切ってそれを宣言する機会を持ちましょう。これは、あなたの告白です。私が言うから言うのではなく、聖書がそう言っているから宣言するのです。いいですか。あなたが聖書を信じるなら、これらのことばを信じるのです。ですから、私のあとについて区切りながら言ってください。あなたは、私に向かって言うのではなく、目に見えない霊的な世界に向かって言うのです。それは、計り知れないほどのインパクトがあるのです。準備はいいですか。私のあとについて言ってください。
「私の体は聖霊のための神殿です。イエスの血によって贖われ、清められ、聖別されています。私の肢体、私の体の部分は、神のために、そして神の栄光のために、神に捧げられた義の器です。悪魔は私の中に居場所がなく、私に対して力を持たず、私に対する未解決の請求もありません。すべてはイエスの血によって解決されています。私は子羊の血と私の証の言葉によってサタンを克服し、死に至るまで自分の命を愛しません。私の体は主のものであり、主は私の体のためのものです。アーメン。」
心からこれを信じるなら、神に感謝しなければなりません。少し時間を取って神に感謝をささげてください。それはあなたの信仰の表明なのです。
さて、もう一つ言っておきたいことがあります。そのように言えるのは、特定のクリスチャンだけです。そのクリスチャンたちは、死に至るまでいのちを惜しまなかったと言っています。言い換えれば、彼らは完全に自分を捧げていました。彼らにとって何よりも重要なことは、生きていることではなく、神のみこころを行うことでした。あなたはどうでしょうか。サタンは献身していないクリスチャンを恐れません。あざ笑います。しかし、献身したクリスチャンはサタンを脅かします。なぜなら、サタンは彼らを倒すことができないからです。
これは、神のことばがサタンに対する武器として用いられている一例に過ぎません。神のことばのもう一つの側面である、きよめ、あるいは洗い、聖別について説明しましょう。様々な言い方が用いられますが、聖別するというのは、聖なる者にするという意味です。ですから、神のことばは、あなたを洗い、きよめ、聖い者にしてくださいます。外側ではなく、内側をきよめてくださるのです。
本当に汚くて、暑くて、べたべたしていて、洗うことができないことは、どれほど気持ち悪いことでしょう。それに耐えるしかないのです。戦時中、軍に所属していた私たちは、そのような状況がよくありました。しかし、内側が汚くて、洗うことができないことは、それ以上にひどい状態なのです。自分がきよめる方法を知っていることは、何と素晴らしい特権でしょう。今日、地上の何十億という人々がどのように自分をきよめることができるかを知りません。私たちは何という特権があることでしょう。エペソ 5:25-27 を読みましょう。パウロは、夫と妻の関係を、キリストの花嫁と呼ばれる教会とキリストとの関係に例えています。こう言っています。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
ここで、夫たちに自分の妻を愛しなさいと言っているのは、勧めではなく、命令です。自分の妻を愛さないことは愚かなことです。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり・・・」
これは、ロゴスではなく、語られたことば「レイマ」です。
「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
それが、ご自身の花嫁としてイエスが迎えてくださる教会の姿です。しかし、教会がそのようになるためには、神のことばを教え、語り、読むことによって、水の洗いを受けてきよめられ、聖なるものとされなければなりません。私は世界中の多くの集会で語ってきましたが今日のカリスマ派とペンテコステ派はどちらも、賛美と礼拝についてのこだわりを持っていることに気づきました。素晴らしい賛美チームがあり、会衆は手をたたき、叫び、興奮します。それは素晴らしいことですが、定期的に神のことばを教えている会衆には違いがあることを発見したのです。彼らの礼拝には、純粋さと聖さがあります。ただ集って自分の感情を表現するだけで、神のことばのきよめを受けていない集会には、そのような純粋さと聖さは見られません。真の純粋な礼拝を持つ唯一の方法は、人々が定期的に神のことばによって洗われ、きよめられることです。神の民が神のことばで定期的にきよめられるのを見ることこそ、教会におけるミニストリーの責任なのです。
もちろん、私たちには一人ひとりにも個人的な責任があります。自分の心と思いと生き方を神のことばの前に差し出して、洗いきよめられ、霊的生活と成長を妨げるあらゆる種類のがらくたを洗い流してもらうことです。これも神のことばの効果です。
そして、もう一つの重要な側面は、神のことばは「鏡」であるということです。ヤコブの手紙を開いてみましょう。1 章 23 節でヤコブは言っています。
「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。」
神のことばは鏡であると言っています。しかし、通常の鏡のように外見を映し出すのではなく、内側を映し出す鏡です。あなたの本当の霊的な状態を示すのです。そして、ヤコブはただ鏡を見て、自分がどのようであるかを見るけれど、鏡の前から離れると、それを忘れて、何もしないと警告しています。しかし、もし私たちが神のことばを鏡としてしっかり見つめるなら、私たちの内側の本当の状態を示してくれるとヤコブは言っているのです。
私はよく集会でメッセージをするとき、実際に聖書を掲げて、「私はみなさんに鏡を向けています」と言います。私はあなた自身について何かを言うつもりではありません。ただ、鏡を見て、鏡である神のことばがあなたに語ることをよく見てください。私が悪霊からの解放についてメッセージするとき、人々は不安になってくるので、私は「大丈夫ですから、不安にならないでください」と言います。私は講壇から飛び降りて、あなたの眉間に指を当てて、あなたには悪霊がいると言うことはありません。私はそのようなやり方をしません。私はただ鏡を掲げて、あなたが自分自身を見るようにさせるだけです。みことばの鏡に映し出された自分を見て、そう行動するかはあなたが決めることなのです。
鏡を見ることは、私たちの霊的成長と繁栄のためにとても重要です。IIコリント 3:18 で、パウロはとても美しい表現をしています。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
これはすべて現在進行形で書かれています。私たちが鏡を見続けている間、鏡に現されている神の栄光を見続けるのです。そして私たちが見ているときに、聖霊が私たちを栄光から栄光へと、見ているもの似せて変えてくださるのです。それは素晴らしいことですが、鏡を見ている間だけしか効果がありません。あなたが鏡から目を離すと、聖霊はもう働きません。ですから、神があなたをどのようにしようとしているかを知るためには、絶えず神のことばという鏡を見続ける必要があります。そして、見れば見るほど、さらに栄光に満ちるのです。それは静止していません。パウロは、「栄光から栄光へ」と言っています。神がキリストにあってあなたに望んでいる姿がどういうものかを垣間見て、あなたは素晴らしいと思うでしょう。そして、次にあなたが見るとき、それはほんの最初の段階に過ぎず、はるかに多くのものが用意されていることを示してくれます。しかし、よく理解してほしいのは、聖霊はあなたが鏡を見ていない限り、働くことができないということです。あなたが鏡から目を離すと、聖霊はあなたの中で働くのをやめます。ですから、あなたが変えられたいなら、鏡を見て過ごせば、その間、聖霊はあなたを変えるために忠実に働かれるでしょう。
今日の世界で私が発見したことは、ほとんどの人が非常に低いセルフイメージを持っているということです。その人たちは、自分自身を肯定的に見ることができません。そして、残念なことに、これはクリスチャンの多くにも当てはまるのです。他の問題よりも、クリスチャンにとって、セルフイメージの悪さほど悩ましいい問題はないのではないでしょうか。聖書的な解決策は、鏡を見続けることだと信じます。鏡があなたの状態を映し出すとき、最初はショックを受けるかもしれません。しかし、見続けるなら、神があなたをどのような姿にしたいのかが示され始めます。そして、あなたが神の目にどれほど高価であるかを示してくれるのです。
私たちが聖書を読むことにもっと時間をかけるなら、自分が劣っているとか、価値がないとかと考えることはできなくなるでしょう。私はこの方法で多くの人々を助けてきました。私は人々にこのように言います。物の価値は人が支払う額で決まります。あなたが自分の家を売りたいと思っていて、不動産屋は2億円以上の価値があると言ったとします。しかし、誰も1億2千万円以上は支払いたくないとしたら、その家の本当の価値は 2 億ではなく、1 億 2 千万円となります。そのように、物の価値は、人々がそのために支払う金額なのです。では、あなたの価値はどうですか。どうやって自分の価値を見つけますか。神があなたのために支払ったものを知ることによってです。そして、神は宇宙で最も価値あるイエスの血であなたを買ってくださいました。つまりそれがあなたの本当の価値です。神があなたのために喜んで支払ったものなのです。お分かりですか。劣等感を抱かないでください。他の人と比べて自分を評価しないでください。どのような否定的なことを言われても、耳を貸さないでください。ただこう言ってください。これは、私が多くの人々に教えてきたものです。「私は神の目には、無限に価値あるものだ。」と。なぜなら、神は宇宙で最も高価なイエスの血で私を買ってくださったからです。それを一緒に言いましょう。私のあとについて言ってください。
「私は神の目には、無限に価値あるものです。神は宇宙で最も高価なイエスの血で私を買ってくださったからです。そして、それが、私がどれほど価値あるかということです。」
そして、悪魔に、「非難や否定的なことを言って煩わせるな、私は自分の価値を知っているのだ」と言えばいいのです。しかし、聖書を読む時間をじっくり取らない限り、あなたは自分の価値を知ることはできません。神があなた自身とあなたに対する愛について語っておられることに耳を傾けるときにのみ、あなたは低いセルフイメージの問題から抜け出せるのです。ですから、みことばの鏡の前で時間を取ってください。
ほとんどの女性は、毎日ある程度の時間、鏡を見るでしょう。私は 9 人の養女を育てたので、女の子たちが鏡の前で過ごす時間についてよく知っています。あなたは神の鏡の前でどのくらい時間を過ごしますか。外見を気にしなくていいと言っているのではありません。身だしなみは必要です。しかし、あなたは永遠に残るものに対してどのくらいの時間を費やしていますか。外側の美しさはやがて消え去りますが、あなたの内側にあるものは永遠に生き続けるのです。神の目にあなた自身を美しくするために時間をかける価値があるのです。
花婿と花嫁の対話である雅歌に美しい表現があります。これは、花婿であるイエスが花嫁である教会に語りかけている様子を描いたものでもあります。その中の一節に、花婿が「あなたは美しい、わが愛する者、あなたには何の汚れもない」と言っています。イエスの血が私たちのためにしてくれたこと、神のことばが私たちにしてくれたことのゆえに、イエスは私たちにそのように語りかけておられるのです。私たちは劣等感を感じたり、価値がないと思ったりするかもしれません。しかし、鏡の前で時間を過ごすことができるなら、神が私たちに、「あなたのすべては美しく、何の汚れもない」と言っていることに気づくのです。鏡の前で時間を過ごすことは価値があるのです。
では、ヨハネ14章の聖句から、神のことばの効果についても教えをまとめたいと思います。ヨハネ 14:23 は、聖書の中で最も驚くべき聖句であると思います。聖書が言っていることに一度も驚いたことがない人は、聖書が言っていることをちゃんと聞いたことがないのだと私は思います。なぜなら、聖書は驚くべき書物だからです。イエスは弟子たちにこう言っています。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」
イエスを愛しているという証拠は何ですか。それは、教会に行くことでも、教団教派の肩書でもありません。イエスのことばを守ることです。それこそ私たちが愛していることのあかしです。それに基づいてイエスは言っています。
「そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
何という驚くべきことばでしょうか。聖書では、神を複数形で表現している箇所はわずかです。創世記で、主が「人はわれわれのひとりのようになり...」と言われました。他の箇所もありますが、とても少ないのです。しかし、ここでイエスは、ご自身を単数形で「わたし」と言っているのではなく、父なる神を言っているのではなく、「わたしたち」、つまり父と子がその人のところに来て、その人とともに住むと言っているのです。本当に驚くべきことばです。全能の神、宇宙の創造主、父と御子は、弱く価値のない人間である私たちのところに来て、ともに住むことを願っておられるのです。驚くべきことです。しかし、条件があります。神のことばを守ることです。神のことばを聞き、それを行い、適用し、それに生きることです。そうすれば、私たち一人一人が全能の神の住まいとなることができるのです。
聖書の素晴らしい点は、福音の本当の目的は、私たちを天に連れて行くことではなく、天を私たちにのもとに来させることです。聖書の最後の章には、新しいエルサレムが地上に降りて来るとあります。私たちがみな天に昇るのではありません。そして、神の幕屋は人とともにあると言っています。これは、私たちの頭では完全に理解することは不可能です。神は、私たちとともに住みたいのです。私たちがどのような被造物であるかと考えるとき、私は驚かされますが、聖書のメッセージは一貫しています。神は、あなたが私のことばを守るなら、私たち(父と子)はあなたのところに来て、あなたとともに住むと言っています。
最後に少しだけ、神のことばをどのように受け取ればよいのかについて、いくつかの提案をします。神のことばが私たちにしてくれることを、いくつかお話ししました。他にももっとあります。では、どのように受け取るかをお話ししましょう。イザヤ書 66 章の最初の 2 節は驚くような言葉です。この聖句は、先ほど私が言った、神が私たちとともに住むことを望んでおられるということと、まさに合致しています。
「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。』」
あなたは私のためにどのような建物を建てようとしているのか。どんな宮か、どんな聖堂か。神は、そんなものには感動しないと言われます。
「『これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。──主の御告げ──』」
そして、神からのメッセージです。
「『わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。』」
ここに 3 つの条件があります。へりくだる心。イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言いました。それは、臆病や気が弱いという意味ではなく、私たちが自分はどれほど貧しいか、どれほど神を必要としているかを自覚しているということです。
そして、「心砕かれ」とあります。それは、私たちが神を悲しませ、私たちの人生から神を遠ざけ、神が私たちとともに住むことを不可能にしてきた、すべての言動を悔いることを意味します。
そして、驚くべきことに、「私のことばにおののく者」と言っています。神のことばを受け取るための条件の一つは、神のことばにおののくことです。「おののく」とは、恐れ、畏怖を表します。少し前に話したことがその理由だと思います。もし、父なる神と子なる神が今から 5 分以内にあなたのところにやって来ると聞かされたら、あなたはどうしますか。私は震えます。心の準備ができているか、父と御子は何をするだろう、何を期待しているのだろう。哀れな土くれの私が、父なる神と御子にどう向き合えばいいのだろう、おののくのです。しかし、イエスは、「あなたがたがわたしのことばを守るなら、私の父とわたしは来て、あなたと一緒に住む」と言われました。ですから、神がなぜ私たちに神のことばにおののくことを期待しておられることを私はこう理解しています。それは、人格を持った神が私たちの人生の中に入って来られるからです。
私は何度も人々に、神に対する自分の態度を知りたいなら、神のことばに対する自分の態度を知ることだと言ってきました。それが、あなたの神に対する態度、姿勢だからです。あなたは、神のことばを愛する以上に神を愛することはありません。神のことばに従う以上に、神に従うことはありません。神のことばのために持つ時間以上に、神に向き合うことはありません。ですから、あなたにとって神がどれほどの意味があるのかを知りたいなら、神のことばがあなたにとってどれほどの意味を持っているかを知ることです。それが答えです。神のことばは、神が私たちのうちに入ってくる方法だからです。
神は、私たちを恐れさせたいのではなく、尊ぶことを望まれていると思います。畏敬の思いを持つことを望んでおられると思います。詳しく話す時間はありませんが、聖書で頻繁に使われている表現に、「主を恐れよ」というのがあります。これは、罰を受けるのを恐れるという意味ではなく、畏敬の思いを持つという意味です。特に箴言や詩篇を読むと、主を恐れることについて書いており、聖書全体の中で、主を恐れることほど大きな祝福の約束があるものはありません。聖書は、主を恐れるなら、いのちに至る、満ち足りて住み、わざわいに会わない(箴言 19:23)と言っています。そのことをよく考えてみてください。それはいのちに関わることです。あなたが主を恐れる態度を持っているなら、決してわざわいに会わないでしょう。ぜひ、聖書の中で主を恐れることについて書かれていることを調べてみてください。
さて、今から教えたいこと、次の条件はまさに、へりくだることと、神を畏れることと密接に関連しています。詩篇 25 篇は私の大好きな詩篇で、神が何としても教えたい人々は、どのような人なのかを知ることができます。聖書学校や神学校に入学しても、必ずしも、神があなたをご自分の生徒として受け入れるとは限りません。神は、知的な学識や学位によってではなく、人格によってご自身の生徒を選ばれるのです。詩篇 25 篇は、神がどのような人をご自分の生徒として喜んで受け入れる人かが書かれています。詩篇 25:8-9 です。
「主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」
ここで必要なことは何ですか。貧しい者、口語訳ではへりくだる者です。古い英語訳では「柔和」と訳されており、私はどちらかというと「柔和」のほうが気に入っています。
そして、同じ 25 篇の 12 節には、こう書かれています。
「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」
神があなたに教えてくださるための条件は何ですか。「主を恐れる人」であることです。
14 節には、
「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」
親しくされ、という言葉は、主の隠れた助言を意味します。神はどのような人々にご自分計画を分かち合いますか。「神を恐れる人」にです。ですから、私たちはそのような態度を養う必要があるのです。
また、別の箇所では、私たちは主を恐れることを選択しなければならないと教えています。私たちがそれを選ばなければ、主を恐れる態度になることができません。箴言1章には、主を恐れることを選ばなかった人には、災いが降りかかることが書かれています。
そして、ヤコブ 1:21 にも、非常によく似たことが書かれています。事実、私はそれらを教えるたびに、同じことがどれほど強調されているかに感心させられます。ヤコブ1:21 です。
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り...」
これが、最初の条件です。汚れたもの、不潔なもの、神に受け入れられないものをすべて捨て去るのです。それを表す言葉は基本的に一つです。そう、悔い改めです。悔い改めるとは、神に喜ばれない、受け入れられないあらゆるものを捨て去ることです。ですから、ヤコブは言っています。
「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
では、どのようにみことばを受け取ればいいのでしょうか。そう、謙遜、柔和な態度です。そして、みことばに従って行動する覚悟が必要です。
ヨハネ7:17 でイエスはこう言っています。
「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
イエスは、あなたの興味が単に知識だけなら、神は会ってくださらないと言っています。しかし、あなたが神のみこころを行いたいなら、神はあなたに真理を示してくださるのです。
そして最後に、みなさん全員にお勧めとして、詩篇 119:11 をもう一度開きたいと思います。ダビデは言いました。
「あなたの言葉を私は心に宝として蓄えました。そうすれば、あなたに対して罪を犯すことがないからです。」
あなたが、心から神の祝福と繁栄を望むなら、神のことばを心にたくわえる必要があると言いたいのです。それを実践する方法の一つは、聖句暗記でしょう。聖句を暗記することを習慣づけることは極めて重要です。聖書には、神のことばを黙想する人について語っています。しかし、神のことばをたくわえていなければ、黙想することはできません。暗記しなければ、黙想できないのです。
妻と私が読んだ、カール・ロレンスという著者の『中国の教会』という本について分かち合わせてください。それは素晴らしい本だと思います。特にあなたが中国人なら、ぜひ読むべきです。シンガポールに住む中国人について、率直に言わせてもらえば、彼らは中国本土にいる中国人についてあまり気にしていません。驚きです。しかし、とにかく、この本の中で著者は、文化大革命でクリスチャンが無慈悲に迫害されたとき、生き残ったのは、聖句を暗記していた人たちだけだと言っています。それ以外の人たちはみな、自殺したり、気が狂ったり、仲間の信者たちを裏切ったりしました。ですから、神のことばを暗記することには意味があるのです。そのこと以上に、内側の強さと安定を与えてくれるものは、他にはありません。ですから、私は聖句を暗記することをお勧めします。若い人は記憶力がいいので、いくらでも覚えられるでしょう。そうしないなら、あなたは計り知れないほど価値のあるものを自ら奪うことになるのです。
妻と私が暗記している聖句の数は分かりませんが、少なくとも 200 節はあるはずです。私たちは、人にひけらかすために暗記するのではなく、自分に必要だからです。私たちは絶えず霊的戦いの中に置かれています。常にサタンの要塞を攻撃しています。ですから、もし心の内側に神のことばを持っていないなら、私たちは生き残ることができません。それを暗記し、信じ、告白するのです。
それが、神にある繁栄を願う人々への私からの勧告です。どの聖句を暗記する必要があるかを聖霊に聞いてください。それは一人ひとり違っているかもしれないからです。主の祝福をお祈りします。

学習教材
個人的な使用、メッセージの準備、聖書の学びのディスカッションのために。
コード: MV-4323-100-JPN











