今日は、終末についての聖書の教えの中で、「収穫」というテーマに焦点を当てたいと思います。収穫は、聖書の最初から最後まで一貫して流れている大きなテーマです。神がノアに約束した、「この地が続く限り、種まきと刈り入れはやむことはない」というのが最初だと私は思います。

しかし、まず申命記を開きましょう。カナンの地に入る直前に、モーセはイスラエルの民に、どのように行動し、神が彼らに与えると言った相続地の利益と祝福をどのように享受することができるかについて、徹底した指示を与えました。申命記 11:13-14 を読みましょう。イスラエルの民が、基本的に平地で比較的雨の少ないエジプトから出てきたことを念頭に置いてください。おもな水源は雨ではなく、ナイル川でした。エジプトでは、シャドフと呼ばれる装置があり、ナイル川の水にバケツを沈め、それを引き上げて、作物に必要な地域とつながっている小さな水路に流し込みます。ですから、ある意味、水は自分たちの力が必要だったのです。モーセは民に言いました。「あなたがたが約束の地に入って行くとき、エジプトのような地ではなく、山や谷の地で、天から雨が注がれる。そして、それはあなたがたの力、支配によるのではない。あなたがたが神に従い、忠実であるなら、神はあなたがたに必要な雨を降らせてくださる。」これが約束です。しかし、聖書では、雨のことが語られる時は必ず一緒に「収穫」の約束があります。そして、収穫は雨に左右されることを理解しなければなりません。もちろん、突き詰めれば、どの国でもそうなのですが、イスラエルの地では、季節が主に2つしかないので、そのことがまさに当てはまるのです。暑い乾季と、寒い雨季です。春も秋もほとんどありません。

4月頃から9月の終わり頃の暑く乾燥した季節には、雨はまったく降りません。そして、冬の初めにいわゆる「先の雨」が降ります。農業経済において、雨の目的は、それまで硬くなっていた土を柔らかくし、農夫が収穫につながる作業を始められるようにすることです。それは通常、国全体に関わる大きな意味を持った雨です。

その後、冬の間、あちこちで断続的に雨が降りますが、聖書で言われている年の最初の月の過越の祭りの頃、つまり私たちのイースターの頃の3~4月に「後の雨」、あるいは「終わりの雨」まで、大きな雨の季節はありません。そして、後の雨の農業上の目的は、種を発芽させることです。

先の雨か後の雨のどちらかがちゃんと降らなければ、おそらく収穫は失敗するでしょう。ですから、雨は常に、収穫と密接に関連しているのです。そして、モーセがここでイスラエルに与えているこの約束では、雨と収穫を明確に結びつけています。モーセはまた、おもな収穫の3つのタイプを取り上げています。それが全部ではありませんが、穀物、新しい葡萄酒、油です。聖書を読むと、少なくとも旧約聖書では、この3つが基本的収穫であることが分かります。穀物の収穫、ぶどうの収穫、油の収穫です。それらの収穫がここで言われているのです。申命記 11:13、14 を読みます。

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。」

雨が神からの贈り物であることに注目してください。聖書は雨が主の神聖な支配ののもとにあることを強調しています。

「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。」

そして、神の経済における目的に注目してください。

「あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。」

収穫の3つの形があります。そしてこれは、黙示録で繰り返されているように、実際聖書全体に流れています。

また、これは聖書を通して明らかにされた啓示ですが、雨は聖霊の注ぎを表しています。教会の歴史において、聖霊の注ぎは「先の雨」と「後の雨」に相当すると私は信じています。先の雨はペンテコステの日と初代教会に降りました。聖霊は当時の教会に全体的に注がれたのです。それは、収穫を導くために計画されたプロセスを動かし始めました。

その後、冬と呼ばれる季節には、ほぼ 100 年ごとにどこかの教会で散発的な聖霊の注ぎがありました。しかし、全教会に訪れるような大きな注ぎはありませんでした。そして、これは私の見解ですが、20 世 紀の初め、実際 20 世紀の最初の日である 1900 年1月1日に、ある意味で「後の雨」と言える聖霊の注ぎが始まったと思います。なぜかと言うとその日、アメリカのカンザス州のトペカという町の聖書学校で、一人の若い女子生徒が先生たちの所へ行ってこう言ったからです。「新約聖書の型に従って、私が聖霊を受けることができるように私に手を置いてほしいのです」先生たちはそれが異言で話す結果となるとは思っていなかったのですが、彼女の願い通りに手を置いて祈ると、彼女は異言で話したのです。それは、ある意味聖霊のバプテスマの真理の突破口となりました。

そして、1904 年に、有名なロサンゼルスのアズサ・ストリートでの聖霊の注ぎがありました。

実際、その前の世紀の終わりにアルメニアで聖霊の注ぎの兆候があったことは興味深いです。しかし、とにかく、20 世紀初めに、後の雨が注がれ始めたと言うことができます。そして、それは最終的にすべての教会に影響を与えた聖霊の訪れとなりました。それ以降、現在までの間に、聖霊の超自然的な訪れがなかった国や教会は基本的にはないと言えます。私は、これは後の雨だと信じています。しかし、後の雨の成就とは思ってはいません。これからもっと多くのことが起こると信じています。しかし、自然界と同様、霊的にも雨は収穫のために与えられることを理解しないと、あなたの人生における神の目的を見失ってしまいます。

私は、およそ 50 年間、ペンテコステのムーブメントに携わってきました。ペンテコステ派、カリスマ派などと呼ばれているものです。あなたが何と呼ぼうと、ともかく二種類に分かれます。聖霊の注ぎについて理解している人々と、そうでない人々です。

聖霊の注ぎの理由を理解していない人たちは、自分たちの霊的祝福を求めるだけで、周囲の人々に大きな影響を与えることはほとんどありません。雨が収穫のために与えられることを理解する人々には、高度な資格や特別な教育や知性は必要ではありません。しかし、雨が神の国に入るたましいを集める収穫のために与えられていることを理解する識別力を持っています。そして、彼らは出て行って、国々をひっくり返してきました。能力の差ではなく、神の目的を理解しているかどうかなのです。

ですから私は、雨は収穫のためにあることを、力の限り強調したいのです。それはあなたを超霊的な者や特別に祝福される者とするためにではなく、神の収穫のためにあなたを有能な働き手とさせるためです。

預言者エレミヤに移りましょう。エレミヤ 5:23-24 です。エレミヤは、当時イスラエルの民が、神がなさっていることに気づかず、自分自身のこと、肉的な関心にとらわれていたことを戒めています。彼らは、神が言われ、なされていることに対して盲目であり、耳がふさがれていました。エレミヤはこう言っています。

「ところが、この民には、かたくなで、逆らう心があり、彼らは、そむいて去って行った。彼らは心の中でも、こう言わなかった。

さて、証拠は何ですか?次の節です。

『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる』と。」

雨は何のために与えられていますか。そう、刈り入れ、収穫のためです、イスラエルが犯した過ちは何でしたか。彼らは雨が完全に神によるものであること、そして収穫のために雨が与えられていることを理解していなかったのです。彼らは神の目的を見逃していました。そして、神は収穫のために定められた数週を守ってくださると、この箇所は言っています。

このことは、数年前、私にとって驚くべき啓示となりました。実は、私はあるレストランに少し早めに入って行って、座る席を探していました。しかし、その席に座ろうとしたとき、テーブルの上に小さな表示があり、座ることができませんでした。「予約席」と書かれていたのです。この聖書箇所を読んだとき、「そうだ、神は収穫が集められる短い数週間のために小さなしるしを置かれるのだ」と思いました。神はそれを予約しておられます。神はサタンに言います。「おまえにはその週を与えない、私が収穫のために取っておいてあるのだから。」数か月ではなく、数週間です。あなたが農夫や作物を育てているなら、一年の中で重要な時期を知っているでしょう。一年の中で一番忙しい時期はいつですか。総動員して働かなければならない時期はいつですか。そう、収穫期です。箴言 10:5 を見てみましょう。

箴言 10:5 を見てみましょう。

「夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。」

誰もが働く必要があるその時期に、眠っています。その子は父に恥をかかせることになるのです。

父なる神に恥をかかせる息子たちが教会の中にいるでしょうか。収穫の時に眠っているのです。メッセージを聞き、賛美を歌い、刈り入れるべき収穫にまったく気づかず、教会の椅子に座って寝ているのです。あなたはそのような部類に当てはまりますか。私が自己中心についてお話したことを覚えていますか。ここに、その自己中心のもう一つの側面があります。自分の霊的素晴らしさ、自分の霊的賜物に興奮し、霊的な言葉、異言を語ることに包まれているだけで、刈り入れなければならない収穫の時に眠っていることです。

そして、ヨエル2章を開くと、ヨエルの預言で自然界の収穫に相当する霊的収穫を見ることができます。ヨエル書のテーマ全体を扱うことはできませんが、ヨエル書の3つの章はおもに3つの部分に分けることができます。第一は荒廃、第二は回復、第三はさばきです。そして、この 2 章では回復の時です。その回復の手段は聖霊を表す雨です。ヨエルは2:23 で言っています。

「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」

雨の目的に注目してください。

「打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。」

3つの主な収穫は何ですか。穀物、ぶどう酒、油です。何がそれらをもたらしましたか。後の雨です。後の雨に相当する霊的な物は何ですか。28 節を見てみましょう。

後の雨の霊的な対になるものは何でしょうか?私たちはヨエル書2章28節に進みます:

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」

「その後」とは、神の民がともに集まり、断食し、祈り、神を呼び求めたあとです。

「その後、神は言われる、『私はすべての肉に私の霊を注ぐ。』」

ペンテコステの日にペテロがこの箇所を引用して、預言者ヨエルによって語られている、と言ったことは興味深いです。しかし、ペテロは「その後」と言わず、「終わりの日に」と言いました。使徒の働き2章をよく読んでみると、ペテロは、神が「私の霊を注ぐ」と言ったことを引用しています。しかし、ヨエル書に使われている言葉は、私のバケツを空っぽにする、それをすべて注ぎ出すという意味の語です。そして「すべての人に」と言われています。私がペンテコステ派ですが、1960 年代に初めてカリスマ運動に出会ったとき、衝撃を受けました。私は、聖公会、長老派、バプテスト派は聖霊を受ける権利はない、それはペンテコステ派のものだと思いました。しかし、神は私に、聖公会もバプテストも、長老派も、ブレザレンもみな、すべての肉、すべての人であることを優しく教えてくれたのでした。そして、神が私はすべての人にそれを注ぎ込むと言われたのです。そして、神はそのことを実行されたのです。

しかし、まだ注ぎを受けていない多くの肉、すなわち人々がいます。世界には 10 億人以上のムスリムがいます。基本的は、まだ数滴だけしか注がれていません。今の世界の統計を見ることは興味深いです。中国人は 10 億人を超えています。つまり、5人に一人が中国人です。知っていましたか。中国人に伝道していないなら、国々への伝道について語ることはできません。そして、それに近い数のムスリムが世界中にいるのです。私たちは彼らに対して何をしていますか。彼らは肉ではないのでしょうか。神が「わたしは、すべての人に私の霊を注ぐ」と言われたのですから、彼らにも聖霊の訪れが来ます。そして、神は終わりの日のクライマックスにつながる超自然的な現象について語っています。主の大いなる恐ろしい日の、血と火と煙です。

では、新約聖書に移りましょう。マタイ 13:39 のシンプルな言葉です。

「収穫とはこの世の終わりのことです。」

今の時代が永遠に続くものではないことを忘れてはいけません。それに対してあなたはどう反応しますか。主をほめたたえますか。私はそうします。私は今の時代がいつまでも続いてほしくはありません、この世は混とんとしています。そして、ますますひどくなっています。しかし、良い知らせがあります。それは永遠に続くものではなく、クライマックスに近づいていることです。それは、収穫を伴ったクライマックスで、その収穫はこの時代の終わりのことです。

私は知的ではあったが、霊的に目覚めていなかったとき、T.Sエリオットというイギリスの詩人の本を読んでいました。彼の書いた『荒地』という詩があります。その中の一節に、「世界は老婆が空き地で薪を集めるような虚しい終わりに向かっている」とあります。彼は間違っています。世界はそんな期待外れの終わり方をしません。クライマックスを迎えるのです。神は期待外れの神ではありません。そして、収穫でクライマックス、つまり、この時代の終わりなのです。「終わり」という単語は、通常の終わりという意味ではなく、「時代の完成」です。時代のすべての糸を一本の壮大なクライマックスにより合わせることです。

それでは、このことと一致する新約聖書のもう一つの聖句を開きましょう。ヤコブ 5:7-8 です。

「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。」

いつまでですか。そう、主が来られるまでです。ゴールは何ですか。私たちは何を待ち望んでいますか。主の訪れです。そして、私たちはその時まで耐え忍ばなければなりません。

「見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」

収穫ができないことに注目してください。農夫がどれほど長く収穫を待ち望んでも、先の雨と後の雨が降るまで、収穫が得られないのです。これは自然界にも言えることですが、霊的においても同じです。そして、ヤコブはそれを適用してこう続けています。

「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」

クライマックスとは何ですか。主が来られることです。しかし、収穫が集められて初めて、クライマックスが来るのです。そして、収穫は後の雨が降るまで刈り取ることができません。

ですから、3つの出来事が続けて起こります。聖書は正確な時を示してはいません。まず、「後の雨」です。次に、「収穫」を集めます。3番目に、「主の再臨」です。主の再臨の日や時間は誰にも分かりません。何年にやって来るかさえ知りません。しかし、それはとても近いと私は信じます。おそらく、私たちの大半が考えている以上に近いでしょう。私は、数年内に来られると言っているのではありません。いつ来られるかわかりませんが、私たちが予測している以上に近い将来に来られると私は思います。

しかし、主は神の秩序に従って来られます。物事は、神が言われる方法で起こらなければなりません。後の雨、収穫、たましいの最終的な刈り取り、そして主の再臨です。

10 年後には 80 億を超えると言われる人口爆発の状況の中に、私たちは置かれています。もし、聖霊の主権的な動きが教会の上に注がれ、キリスト教が何であるかさえ知らない人々の上に聖霊が注がれるなら、そして、教会が雨の目的を認識し、備え、従い、御霊の超自然的な賜物を備えて聖霊の力によって出て行くなら、これまでの教会の歴史で救われた以上の多くのたましいが 10 年の間に救われることもあり得るのです。私は、個人的にそれは控えめな表現だと思います。神の国への膨大な数のたましいの集結が起こると思います。そして、その日はとても近いと思います。

さて、幻について少しお話ししたいと思います、箴言では、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と言われています。彼らは自制心のない者となります。私たちに自制心を与えるものは、幻です。あなたはそれに気づいているでしょうか。たとえば、オリンピックで闘うアスリートを例にとりましょう。もちろん、オリンピックの前には国内大会があります。アスリートの世界でその段階に到達するためには、食事、エクササイズ、読書、精神面を鍛えること、睡眠時間、トレーニングなど、生活のすべてを管理して、最も厳しい訓練をしなければなりません。それは大変なことです。その厳しい訓練をやり遂げようと思わせるものはいったい何なのでしょうか。ビジョンです。誰よりも高く飛ぶ自分、誰よりも遠く飛ぶ自分、誰よりも早く走る自分、槍を投げている自分を思い描いているのです。目の前にあるビジョンを描きながら、ほとんどのクリスチャンが考えもしないような訓練を自分に課すのです。パウロは、クリスチャン生活をアスリートの生活に例えて、すべてのアスリートは行うことすべてにおいて自制をすると言っています。そしてクリスチャンも、金メダルを取るためには、同じように自分をコントロールしなければなりません。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」

私はこれを応用して、みなさんにお聞きしたいと思います。少なくとも一度はダイエットを試みた人はどれくらいいますか。成功した人は何人ぐらいいますか。2回挑戦した人はどれくらいいますか。

深入りしませんが、成功するダイエットの秘訣を知っていますか。ビジョンです。理想の自分の姿を思い描くことです。例えば、目の前にケーキがあるとき、自分のウエストラインを思い浮かべると、「ケーキはいらない!」となります。私は今日二つも食べてしまいましたが。

しかし、それにはビジョンが必要です。同じように、収穫の刈り取りに成功するには、収穫のビジョンを持たなければなりません。そして、私の今日の目的は、このメッセージを聞き終えたときに、みなさんが、「神が、犠牲や眠れない夜、仕事をあきらめるように語られたとしても、また、地上の神に見捨てられたような不毛の地に行くことを求められたとしても、私はビジョンを見た。そのビジョンは私の目の前にある」と言えるビジョンをあなたに与えることです。イエスが弟子たちに言ったことを見てください。彼らの問題は、ビジョンを見ることができなかったことでした。ヨハネ4章のイエスがサマリヤの女を取り扱った後の35節です。イエスは弟子たちに言いました。

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」

イエスと弟子たちのビジョンの違いを見てください。弟子たちは自然界のものしか見えていませんでした。そして、収穫にはまだ4か月あると言いました。イエスは、私の見方はそうではないと言いました。イエスは畑を見て、すでに白くなっていると言いました。そして、井戸のところでとても素晴らしい収穫をされました。そこにいた12人の聖書学校の学生たちは村に行き、食べ物を手に入れ、誰のたましいにも触れることなく戻ってきました。イエスは井戸のところにいた女にご自身を現し、彼女は自分の水がめを置いて村に行き、村中にイエスのことを伝えたので、村中の人々がイエスに会うために出てきました。一人の女と12人の聖書学校生(弟子たち)の違いは何だったのでしょうか。女はビジョンを持っていたのです。つまりビジョンの問題でした。

さて、マタイ 9 章でイエスは非常に悲惨な状況を語っています。これもビジョンの問題です。36 節から読みましょう。イエスは弟子たちとは違った視点で人々を見ていました。

「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」

彼らにはラビ(教師)がおり、シナゴーグもありましたが、羊飼いがいなかったのです。

「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」

それが、当時の状況であったなら、今日の状況はその百倍もの事実だと私は思うのです。収穫は多いのですが、働き手は悲しいほど少ないのです。推定では、ムスリム百万人に対して宣教師は一人しかいません。しかし、収穫は多いのです。

妻と私は以前インドネシアに行きました。そこはムスリム国ですが、過去 20-30 年間に人口の 30% がクリスチャンになったと言われています。そして、神のことばの真理に対する飢え渇きは大きいのです。インドネシアのすべての村に聖書の教えのビデオテープを配布しているミニストリーに携わっている一人のクリスチャンがいます。電気がない村でも、車のバッテリーなどを使って見ているそうです。

また、マレーシアも多くがムスリムですが、驚いたことの一つは、水道もなく、大きな店もないような村を車で通ると、テレビのアンテナはすべての家に立っていたのです。

数か月前、雑誌『タイム』誌に「ビデオ革命が政治体制を揺るがしている」という大きな記事が出ていました。近年の東欧諸国の混乱の理由の一つは、西側諸国がどのようであるかを、人々がテレビやビデオで知ったことにあると思います。政治体制は人々を抑えることができなかったのです。私は政治問題に興味はありませんが、収穫の刈り取りに注目しています。

私たちは、この5月にシンガポールで各地の責任者の会議を持ちました。そして、その会議の目的の一つは、世界伝道の手段としてのビデオについて話し合うことでした。そして、私たちがマイアミの地域教会の牧師と話し合っている時に、一人の若者から、「私が今朝デボーションを持っていて、何かのために祈ろうとしたけれど、あなたとあなたのミニストリー以外、何も祈ることができませんでした」というファックスが送られてきました。それには、「私が祈っている間、神は私に幻を与え、収穫を刈り取っている鎌が、ニュージーランド地域から始まり、東南アジアを通って中国まで上って行くのを見ました。そして、その鎌の刃はビデオテープだったのです」とありました。あなたはビジョンを持っていますか。あなたは、何が起ころうとしているかに気づいていますか。それとも、いつも通りの仕事に満足していますか。

あなたはこう思うかもしれません。「プリンス先生、私には多くの賜物がありません。私は説教者でもなく、伝道者でもありません。」あなたは非常に危険な状態です。タラントのたとえにある3種類の人を取り上げましょう。5タラント受け取った人は、それで商売をし、もう5タラント儲けて2倍にし ました。2タラント受け取った人もそれで商売をし、2倍にしました。彼らは 100%増やしたのです。しかし、1タラント受け取った人は、それの価値を認めず、地に隠しました。そして、主人が戻って来て確かめると、彼は言いました。「ここにあなたのタラントがあります。私はあなたを恐れて地に隠しました。」主人は何と言ったか覚えていますか。「悪い、なまけ者のしもべだ」です。あなたは、怠惰は悪であることに気づいていますか。

そして、主人は言いました。「あなたがそれを自分でどうすることもできなかったなら、それを銀行に預け、利息を受け取るべきだった。そうすれば、私に利子をくれることができたのに。」それから主人は何と言いましたか。「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」このように、1タラントの人は、私は大したものは持っていない、神は私に何を期待しているのかという態度の人は、最大の危険の中にあります。あなたが自分の働きをするのに十分な者を持ち合わせていないなら、それを銀行に預け、他の人のミニストリーに投資することをお勧めします。全員が何かができるはずです。自分が何に投資するべきか分からないなら、「デレク・プリンス・ミニストリー」という働きがあります。それは大きなミニストリーではありませんが、神の恵みにより、収穫の刈り取りのために全き献身をしています。しかし、あなたがそれに導かれていないとしたら、他のいくつかを紹介しましょう。私は誰からもお金をもらっているわけではありません。「ユース・ウイズ・ア・ミッション(YWAM)」は、収穫のビジョンのために献身している団体です。「オペレーション・モーバライゼーション(OM)」も同じビジョンを持って世界中に出て行っている団体です。ブラザー・アンドリューによる「オープン・ドアーズ」は、未伝の民族への伝道を目的とする団体です。これらは一例にすぎません。その中のどれかに関わるべきだと言っているわけではなく、あなたが教会で座って何もしないのは良くないと言っているのです。なぜなら、主が来られたとき、1タラントの人のように答えなければならないからです。もし、主から「外の暗闇に追い出しなさい」と言われたら悲劇です。

マタイ 25 章に、神から完全に拒絶された3種類の人々の姿があります。愚かな娘たち、自分が与えられたタラントを用いなかった不忠実なしもべ、そしてイエスの兄弟たちに憐れみを示さなかったヤギの国です。その全員が最終的に神の臨在から否応なしに拒絶されました。拒絶された原因は何だったのでしょうか。一言で答えることができます。「何もしなかった」ことです。拒絶される理由は、何もしない、ただそれだけです。

こんなことを言うつもりではありませんでしたが、私は聖霊を知っており、間違ってはいないと思うので言います。聖霊は今、真剣だと感じています。聖霊は、特に教会に通う人々に伝えたいと熱心に語っておられるように感じます。しかし、それは核心部分なのではありません。私たちは、ともに集まることをやめてはいけないと信じます。すべての教会が神の民の世話をし、羊の世話をしていることを神に感謝します。しかし、日曜日に教会に行って賛美を歌い、祈りをするだけでは、自分の義務を果たしてはいません。私は感情的にではなく、知的な確信からこのことを言うのですが、すべてのクリスチャンは収穫の刈り取りに何らかの形でかかわる責任があると信じます。その収穫の刈り取りという栄光ある働きに関わらなくてもいいクリスチャンは、一人としていないはずです。

イエスは、収穫は多いが働き手が少ないと言われました。次に何と言われましたか。「収穫の主に収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」です。「働き手を送る」というのは、ギリシャ語では押し出すという力強い言葉です。イエスが人々から悪霊を追い出すときに使われた語と同じ語です。聖霊が収穫の中に人を追い出す、押し出すようにと祈りましょう。イエスははっきりとご自分の思いを語りました。あなたは収穫の地にゆっくりと行くのではありません。それは何気なくすることではありません。聖霊からの押し出されるのです。それは、何かをあきらめることを意味します。今日の教会にある2つの偶像を知っていますか。安全と快適です。これらは毎週日曜日の朝に礼拝される偶像なのです。

収穫の様子について続けましょう。私がまだ言ってこなかったことをお話ししましょう。収穫は一回ではありません。あわれみの収穫とさばきの収穫があります。そして、それらは続けざまに起こるでしょう。黙示録 14 章にその両方が描かれています。黙示録には、私たちが理解できないことがあると思います。しかし、分からないからと言って、私は分かることを行動に移さないことはありません。答えのわからない疑問を解こうとして考え込み、すべきだと分かっていることさえ行わないようなことはしません。奥義と明らかにされていることについて私が言ったことを覚えていますか。秘密とされていることがあります。黙示録の正確な解釈については、私たちの誰もが知らない、隠されていることがあると思います。しかし、明らかにされていることも多くあります。この2つの収穫の真理は、明確な啓示、明らかにされていることだと信じます。それらを見てみましょう。黙示録 14:14 から始めましょう。まず、穀物の収穫があります。3つの収穫の順番を覚えていますね。穀物、ぶどう、油です。その順序は、黙示録までずっと継続しています。そして、ここで分かることは、穀物の収穫は憐れみの収穫であり、神の国の中にたましいを集めることです。啓示を受けたヨハネはこう言っています。

「また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。」

それはイエスに違いないと信じます。そのように表現される方は他にはいません。それは収穫の主としてのイエスです。イエスが収穫の主に祈りなさいと言ったことを覚えていますね。

「すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。『かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。』」

ギリシャ語では、地の収穫は渇いている、熟しすぎていると言っています。それは、失われる危険性があります。また、こう言っています。

「そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。」

これは正確ではないかもしれませんが、私には、主が全地球にかまを振りおろし、収穫全体が5年ほどの間に刈り取られるような急速なものが目に浮かぶのです。それは長期間にはならないでしょう。今日の世界で顕著なものの一つは、あらゆるものが加速しているということです。かつては 100 年かかっていたことが 10 年でできる。

10 年かかっていたことは1年でできる。それはサタンの働きにも当てはまりますが、主にも当てはまるのです。主は急いでおられます。切迫感、緊張感があります。ですから、あわれみの収穫である、穀物の収穫は刈り取られます。その後に何が続きますか。

「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。『その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。』」

ここで刈り取っているのは主ではなく、他の御使い的存在だと思います。そして、これは穀物の収穫ではなく、ぶどうの収穫です。イスラエルでは、今はこの方法ではありませんが、伝統的にはぶどうの収穫のために、段差をつけた岩の2つの貯水池(酒ぶね)のようなものを作り、高い方から低い方へ小さな水路を掘りました。収穫したブドウをすべて高い方の池に入れ、喜びの声を上げて飛び跳ねながら足でぶどうを踏みました。聖書には、人々がぶどうの収穫を喜び踏みしめている描写がいくつか出て来ます。そして、イザヤ 63 章には、ボツラから来るイエスの描写があります。ボツラはヘブル語でブぶどうの収穫という意味です。イエスの衣は血で染まり、預言者は、「あなたはどこから来られましたか」と言います。イエスは言います。「私は神のさばきの酒ぶねを踏んでいた。」イエスの衣は、ぶどうを踏む人の衣がぶどうの果汁で染まるように、血に染まっていました。これがその姿です。

「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。」

ゲッセマネと言う言葉を知っていますか。「ゲツ」とは酒ぶねから来ており、オリーブやぶどうが絞り出される場所です。酒ぶねは踏まれ、踏んでぶどうを押しつぶすのです。その酒ぶねは都の外で踏まれ、血は馬のくつわに届くほどに流れ出し、1600スタディオン、つまり300Kmほどに広がりました。

多くの人々が、黙示録の解釈は寓話的(たとえ話)であると考えています。聖書に預言の寓話的な適用はほとんど見つからないし、新約聖書には一つも見当たりません。旧約聖書から新約聖書に出てくるイエスの預言はすべて文字通り成就したのです。寓話的なものは一つも見当たりません。みなさんに質問しましょう。あなたは、この血は、たとえだと思いますか。たとえの血というようなものがあるでしょうか。神が不正な人をさばくという事実を受け入れる準備があなたにはできていますか。ご存知のように、教会で蔓延しているヒューマニズムの影響で、神が誰かをさばくことを謝罪しなければならないと考えるような状況になってしまっています。神の課題は、不正な者をさばくことではありません。神の課題は、不正な者を救うための方法を見つけることです。そして、神だけが十字架を通してその問題を解決することができたのです。しかし、誤解のないように言いますが、神は依然としてさばき主であり、地上のすべての不正な者をさばかれます。

このことは重要です。なぜなら、あなたの人々とのかかわり方に影響するからです。もし私が神のさばきを信じていなかったら、私はこのようなメッセージはできないと思います。もし、さばきがないとしたら、福音のメッセージの目的は何なのでしょう。バプテスマのヨハネは何と言いましたか。彼は 人々に、「だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」それはイエスのことを言っており、イエスは神の怒りから私たちを救ってくださるお方です。

神の課題は、不正な者をさばくことではありません。神の課題は、罪人を赦すことです。私たちは問題をまったく逆にしてしまったのです。

一つのことをお話しして終わりましょう、あなたが神のさばきを信じるなら、人々への話し方に影響を与えるでしょう。聖句からそれをお話しする時間はありませんが、黙示録 6 章でよく知られている馬に乗った 4 人の人を見たいと思います。勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った白い馬、死と暴虐と流血をもたらす赤い馬、欠乏、制限、飢餓をもたらす黒い馬、最後に、広範囲に死をもたらす青ざめた馬です。これらは、神が時代に終わりをもたらす段階を表していると信じます。それらの4頭の馬はすべて、天からの命令によって来たものです。赤い馬、黒い馬、青ざめた馬。つまり、神のさばきは神の命令によって行われます。

しかし、私は白い馬に興味があります。白い馬は、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った、とあります。多くの異なる見解がありますが、私にとってそれが意味しているものをみなさんにお話しします。白い馬は福音のイエスで、腰に剣を帯びて出て行きます。柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め、と詩篇 45 篇で描かれています。この姿は、このあとに起こるさばきのために、緊急性をもって福音を伝えることを示しています。赤い馬、黒い馬、青ざめた馬。これら4頭の馬はすべて、今日出動していると信じます。赤い馬は活動中ですし、黒い馬も、確かにアフリカで飢餓、栄養失調として活動しており、青ざめた馬は死をもたらしています。

しかし、私の確信であり、私の原動力はこうです。妻と私はこれを昼も夜も頭の中で描いて見ています。白い馬は他の馬たちよりも前を進んでいなければなりません。他の馬たちが着く前に、私たちが人々のところに着かなければなりません。神のさばきが下る前に彼らにあわれみを示さなければなりません。そして、これは緊急です。待ったなしです。あなたの都合や時間など言っていられません。収穫を刈り取ることができる間に、刈り取るかどうかということです。何十億という人々への憐れみのメッセージを携え、間に合うなら、多くの人が応答するでしょう。途上国へ旅行したことがない人は、そこにいる人々には、イエスについての真理を聞くために、聖霊が飢え渇きを与えていることを、おそらく理解できないかもしれません。

私たちは、人口の 98%がムスリムであるパキスタンに行ったとき、3つか4つの町で公にメッセージをしました。9日間で、およそ9千人がイエスを受け入れたいと言いました。彼らの少なくとも半分はムスリムでした。彼ら全員が救われたと言っているのではありませんが、彼らは福音を聞きたいと思っていることは確かです。

みなさん、今は収穫の時です。忘れないでください。収穫の時に眠っていた息子は、父の恥を引き起こしました。私たちの内の一人としてそのようでないことを願います。アーメン。

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