キリストに希望を見出す(パート 1)

デレク・プリンス
Published: 2008
Last Updated: 2026年7月
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シリーズ「キリストに希望を見出す」のパート1で、デレクは「死」というテーマにおいて、クリスチャンが持つことのできる希望について語ります。デレクはまず、聖書全体を通して見ることができる「死の三つの段階」について説明します。しかし、イエスはご自身の死と復活を通して、私たちを死から解放してくださいました。デレクは「車輪」のたとえを用いて、イエスの贖いをわかりやすく示します。そして最後に、イエスの復活とその歴史的事実について語って締めくくります。
あなたは、「死」という言葉を見たとき、ひるんでしまうようなことがありますか。その言葉に対する最初の反応は、その先を読むことをやめてしまうことでしょうか。もしそうであるなら、このメッセージにあなたに特に心を開いていただく必要があるという、確かな証拠です。現代文化では、「死」という概念からくる不快感や痛みをできるだけ取り除こうと隠れた努力がなされています。墓地という言葉に代えて、「メモリアルパーク」という言葉を用いるといったようなことです。また、埋葬前に葬儀などで参列者が見る遺体には、死による変化を最小限にして、生前と変わらないような姿にするための処置がなされます。
しかし重要なのは、死というものは実在し、望まれないものであるという、単純で客観的、また普遍的なものであるということを忘れてはならないということです。死は、つらく残酷なものです。しかし、この事実を受け入れない人生観は、まやかしであり、非現実的です。死という厳しい現実に対して救いの答えを持たない哲学や宗教は、人間の必要を満たすことはできません。キリスト教の信仰が、他のすべての宗教や哲学と違っているところは、死についての前向きで実証された答えを持っているということです。
現代医学は身体的問題に直面した時、診断、予後、治療という3点を提供しようとします。診断は原因を明らかにし、予後は病気の進行を予測し、治療は病気への対処です。
私たちが死という議題に直面したとき、聖書はこれら3つのことをすべて提供してくれます。診断つまり原因は、聖書にとても簡潔に書かれています。
「そういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―――それというのも、全人類が罪を犯したからです。」ローマ 5:12
つまり、死は罪から来ているのです。罪がなければ、この世に死は存在しませんでした。しかし、すべての人は罪を犯したので、すべての人に死が訪れたのです。
予後(進行)について、聖書は連続した3段階で死が訪れると示しています。その第一段階は、霊の死です。神は、善悪の知識の木についてアダムに警告して言われました。
「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」創世記 2:17
神はアダムに、「食べたその時、あなたは死ぬ」と言われました。そのアダムは、その後900年以上も生きました。しかし、まさに罪を犯したその日、彼は神との生活から断絶された、あるいは遠ざけられました。その瞬間に、彼は霊的に死んだのです。エペソ人への手紙 2章1節で、パウロはエペソのクリスチャンに、キリストを知る前の彼らの霊的状態を思い出させています。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」
パウロは、肉体の死についてではなく、神から孤立した霊的な死について言っているのです。人の霊が罪によって神から切り離されると、その人の物理的な人生は充電できない電池のようになります。しばらくは機能していますが、最終的には止まってしまいます。
第二段階は、肉体の死です。これは、私たちが通常「死」と呼んでいるものです。肉体からたましいが離れることです。これは目に見える身体の状態です。腐敗が始まります。しかし、たましいの状態はそのまま残ります。
第三段階は聖書で言うところの「第ニの死」です。これは、聖書の黙示録にのみ知られているものです。
「これが第二の死である。いのちの書に名の記されていない者はみな、この血の池に投げ込まれた。」(黙示録 20:14b‐15)
このことについて学ぶとき、2 つの重要な要素が見えてきます。最初に、この第二の死は最後で、永遠に取り戻すことができない、神の臨在からの追放です。第二の死から戻ることはできません。次に、それは意識の停止ではありません。意識の停止というものは決してありません。人格は生存しているときも、その後においても残ります。私たちは自己の意識から逃れることは決してできません。
死に対する治療はもちろん、サタンの手にあった私たちの死に復讐をするために来られたイエスです。イエスは、ご自身の上にこの死を置くことで、私たちの罰を受けてくださいました。このようにして、イエスは私たちを死の恐怖から解放してくださったのです。
ヨハネ 10 章で、サタンは盗むために来たと言っています。しかし、イエスは、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と言われました。つまりイエスは、私たちの相続財産を取り戻してくださいました。イエスとの関係によって私たちは神に喜ばれ、受け入れられる者となります。恐れは去りました。私たちは使徒ヨハネとともにこのように言うことができます。「やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」(第 1ヨハネ 2章8節)
イエスはどのように成し遂げたのか?
聖書のすべての啓示は、贖いが中心です。それは、十字架上でのイエスの犠牲的な死と勝利ある復活です。贖いは、罪人を神の愛を受ける者へと回復させます。それは完全な和解と結合です。
福音のメッセージにおける贖いの役割を鮮明に表わしているものは、車輪です。一般の車輪は、外側の輪の部分とスポーク、そして中心の軸という3つの部分でできています。外側の輪の部分は私たちの生活のすべての領域における神さまの完全な備えです。それは、時に応じて、そして永遠に霊的、身体的、物質的備えです。福音による神さまの完全な備えは、すべてを包み込む円形の輪のようです。
外側の輪を支えるスポークは、神の備えの方法です。一本のスポークは平和を与える赦し、別のスポークは健康を与えるいやし、また別の一本は自由を与える解放、そしてまた別の一本は聖さを与えるきよめです。そのようにして、スポークは神の備えである外側の輪を支えています。
中心の軸は、贖いです。スポークは軸とつながっています。軸がなければ、スポークは何を支えることもできません。また、車輪を動かす力は軸から伝わります。クリスチャン生活に力を与え、すべてのものがより頼む贖いの軸です。へブル人への手紙2章9節は、それをさらに明確にしています。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
最後の文に注目してください。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。イエスは私たちの死を味わわれました。私たちの身代わりとなられました。私たちが受けるべき死をご自身が受けられたのです。このことはイザヤ書 53章6節でも言われています。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちすべての咎を彼に負わせた。
咎と訳されている単語には、“反抗”という意味もあります。全人類の反抗がこの一文に要約されています。私たちは、一人ひとり自分勝手な道を歩みました。しかし、イエスは十字架にかけられ、私たちのすべての反抗は彼に負わされました。そしてそれにより、反抗によるすべての悪しき結果である病、拒絶、痛み、苦しみ、そして死をイエスは負われました。しかし、イエスはご自身のために死なれたのではありません。私たちの身代わりとなられたのです。
復活
歴史全体における最大のイベントはイエス・キリストの復活です。それはクリスチャンのメッセージの中心です。復活なくしてはクリスチャンのメッセージはあり得ません。すべてのメッセージは、イエス・キリストの死と復活を中心に展開されています。
イエス・キリストの福音は、3つのシンプルな歴史的事実で成り立っています。それらの出来事は、人類の歴史に実際に起こり、信頼できる証人たちによって証言されています。コリント人への手紙第一 15章1-4節でパウロは、それらの信頼できる証人の一人として彼自身を挙げています。
兄弟たち、私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保ってさえいれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと...
パウロは、自分が宣べ伝えていた救いのために信じるべき不可欠な福音を、私たちのために述べています。最初にイエス・キリストを中心においています。二つ目に、イエス・キリストに関する3つの偉大な歴史的事実を中心に置いています。イエスは死なれ、葬られ、三日目によみがえられたという3つです。
これらの事実をあなたの心に刻み込んでください。パウロは言っています。「これらはあなたがよく考えもしないで信じたのでないなら、あなたが救われたという事実です。」パウロは、どのような場合でも、これらの基本的事実から離れて宗教論や空想論、あるいは主観的な経験に入ってしまうなら、無駄に信じたことになると言っているのです。このことは、あなたにも私にも言えることです。
パウロは、これらの歴史的事実に2つの確信を与えています。第一に、それらは旧約聖書の預言的聖句によって証言されています。第二に、それらは多くの信頼できる証人のあかしによって証言されています。
これらの事実の最も重要な確証は、旧約聖書の預言的聖句です。新約聖書は旧約聖書の預言が一つ残らず成就されなければならないことを繰り返し強調しています。このテーマは、イエスご自身の生涯、そして後に使徒と初代教会に起こる活動の両方において新約聖書全体に織り交ぜられています。
イエスの復活は、旧約聖書で預言されているだけでなく、旧約聖書の預言者の言葉に精通していたため、イエス自らご自身の復活を明確に預言しました。
第二の確証の根拠は、イエスの復活後にイエスを実際に見、交わりをした多くの信頼できる証人たちの証言です。
ですから、私たちには 3 つの事実があります。キリストは死なれたこと、葬られたこと、そしてよみがえられたことです。そして2つの確証となる証拠があります。旧約聖書の預言的ことばと、多くの信頼できる証人たちのあかしです。
その復活が確かであると断言できる5つのことを付け加えましょう。
- 律法的に事実であると認められるのに必要な数よりさらに多くの信頼できる証人たちにより証言されました。
- 他の何によっても説明できないほどの劇的で永遠的変化を、それらの証人たちに与えました。
- それらの証言を固守することで、その証人たちの多くが命を落としました。彼らは物質的に何も得ることはなかったにも関わらず、です。
- それは歴史の流れを劇的に変えました。歴史はもはや以前のようではなく、その変化を十分に説明できるものは他に何もありません。
- よみがえりのキリストは、私を含め数えきれないほど多くの人々に、個人的にご自身を現わし続けています。
1941年のある夜、イギリス軍の兵士として従軍していたとき、私は直接的、個人的にイエスの啓示を受けました。私は特に宗教的ではありませんでした。また、何か特別なことや空想的なもの、狂信的なものを求めているような人間でもありませんでした。また当時精神的不安定な状態というのでもありませんでした。しかしイエスは、ご自身を非常に完全なかたちで個人的に私に現わしてくださり、その日以来イエスさまが生きておられることを一度も疑ったことはありません。イエスは十字架にかけられ、その後よみがえられました。私に死からの治療(救い)を提供してくださったのです。そして、同じようにあなたにも与えてくださいます。

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