敵の見分け方

デレク・プリンス
Published: 1985
Last Updated: ตุลาคม 2026
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デレク・プリンスが「敵を見分ける方法」で、解放のあらゆる重要な側面に取り組むという困難な課題に挑む旅路を共に歩みます。この感動的なメッセージは、主の力とイエスの宣教における奇跡的な側面を描き出しています。「解放の基礎」シリーズのパート1では、悪霊に打ち勝つ力について学びます。それは、今もなお人々に畏敬の念を抱かせ、人生を変え続けている福音の約束です。
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今回と次回の学びのテーマは、「解放の基礎」です。副題は、「誰もが知りたがっているけれど、質問しにくいと思ってきた悪魔について」です。この2回の学びで、解放のミニストリーの主な側面をできる限り見ていきたいと思います。時間の関係上、詳細ではなく、アウトラインのみになります。
イエスのミニストリーからこの側面を考えるのが適切でしょう。マルコ1章を開きましょう。何度も言ってきましたが、私はイエスのミニストリーを改善しようという野心を持ったことはありません。現代ならそのミニストリーは、もっとうまくできるのにと感じている人もいるかもしれません。私はそうは思いません。イエスが公に働きを始められた時、最も人々を驚かせたことは、悪霊への対処でした。そして、これは旧約聖書ではまったく記録されていないイエスの一つの奇跡であったことに、注目する必要があります。癒やし、食物の供給、自然のコントロールなど、他のすべてのミニストリーは旧約聖書に記録されています。しかし、旧約聖書には悪霊を追い出したという記録はありません。そして、それを目撃した人々は、すぐにそれに惹き付けられ、興奮しました。
以下は、カペナウムのシナゴーグでの最初の記述です。マルコ1:23 にこう書いています。
「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて...」
ギリシャ語では「汚れた霊にある」ですが、これは英語に訳すことができません。おそらく最良の現代英語は、汚れた霊の「影響下にある」でしょう。
時に言い換えられている3つの言葉があります。悪魔、悪霊、そして汚れた霊です。また、虚弱の霊、もしくは恐れの霊などの特定の霊についてもお話しします。マルコ1:23-24です。
「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。『ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。』」
悪霊がイエスはどのような方であるかを瞬時に分かったことに注目してください。弟子たちは、イエスが本当はどのような方であるかを悟り始めるのに一年以上かかったと思いますが、悪霊はすぐにわかりました。悪霊はイエスを恐れていました。また、「私たち」と「私」の組み合わせに注目してください。イエスがゲダラの男に語った時、イエスが「おまえの名は何か」と聞くと、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と答えました。この「私」と「私たち」の組み合わせは、実に悪魔の特徴です。25、26節。
「イエスは彼をしかって、『黙れ。この人から出て行け』と言われた。」
ギリシャ語では文字通り「口をふさがれ、彼から出て行け」と言っています。
「すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。」
非常に劇的な目に見える現象があったことに注目してください。シナゴーグでは通常、そのような対処をすることはありませんでした。ある人は私に、「ほとんどの教会では、そのような人を教会から追い出してしまうだろう」と言いました。しかし、イエスはその人から悪霊を追い出しました。悪霊はその人をシナゴーグに残して出て行きました。そして、27節です。
「人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。『これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。』こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。」
それが真実です。状況は変わっていません。あなたが悪霊の現れに遭遇し、それを取り扱うなら、その評判はすぐに広まるでしょう。人々がそれを目の当たりにするとき、現代でも人々に驚くほどの印象を与えるのです。ここで私が強調したいことは、イエスが取り扱ったのはその人ではなく、その人の中の霊であったことです。その人の中にいた「もう一人の人」です。そして、その汚れた霊につかれていた人が以前は普通のふるまいであったかを示すものはありません。
しかし、聖霊の油注ぎのあるイエスの臨在が、その人の中の見えない悪霊の存在を引き出したのです。同じ日の夕方、32-34節で、このミニストリーのさらなる展開が書かれています。
「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。」
私は「悪霊につかれた」という翻訳が好きではありません。ギリシャ語は、daimonizomaiです。英語で書くとこうなります。daimonが語源で、名詞のdemonから来ています。「izomai」は受動態で、「悪魔的にされる」です。ですから、悪魔的にされている、という翻訳が最適でしょう。残念なことに、悪霊につかれたという翻訳では、なぜクリスチャンが悪魔に取りつかれるのかという多くの人々の疑問をあいまいにしてしまいます。私の答えは、真のクリスチャンは悪魔に取りつかれることはない、です。真のクリスチャンはイエスの支配の中にあります。しかしながら、真のクリスチャンでありながら、悪魔に苦しめられ、影響を受けている領域があるのです。生活や人格の領域の中で自分では完全にはコントロールできていない部分があります。そのような人々は悪霊的にされていますが、悪霊に取りつかれているのではありません。翻訳の障害を取り除くことができれば、さらに現実を理解できるようになるでしょう。
実際、新約聖書には、病人と悪霊につかれた人の区別をほとんどしていません。イエスもそうでした。ほとんどの場合、イエスは病人と悪魔的になっている人々を同じ方法で取り扱いました。
そして実際、新約聖書はほとんど区別をしません。そしてイエスもそうでした。彼はほぼ常に、病人や悪霊に取り憑かれた人々に対して一つの全体的な行動で対処しました。
「こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。 彼らがイエスをよく知っていたからである。」
多くの翻訳が「悪霊を追い出した」となっています。私が好む翻訳はフィリップス訳で、「吐き出した」という言葉を用いています。それはあまり宗教的な響きを持っていません。シンプルで実際的、分かりやすいです。肺に煙を吸い込んでしまったら、どうしますか。吐き出します。それは意志の働きですが、物理的な面もあります。それこそ、私が用いたい言葉です。私はいつもその言葉を用いているわけではありませんが、私としては最高の表現だと考えます。イエスは多くの悪魔を吐き出させました。悪魔たちはイエスを知っていたので、イエスは悪魔がものを言うのをお許しになりませんでした。同じ章の39節を読みましょう。
「こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」
フリップス訳によると、イエスはガリラヤ全土のシナゴーグで説教をし、悪霊を追い出し続けたとあります。フリップスは、ギリシャ語で特定の時制を表す、「続けた」という語を使っています。これは、単に一つのシナゴーグで起こった個別の劇的な出来事ではなく、イエスは常にすべてのシナゴーグで説教と悪霊の追い出しの二つを行っていたという事実を明らかにしています。ガリラヤ全土の何百というシナゴーグでそれを行ったのです。多くの人々は悪霊を追い出す必要があるケースは非常にまれで、例外的だという考え方をしています。そして、通常そのような人は、刑務所や精神病棟にいると考えているのです。イエスが取り扱ったのは、そういう人たちではありません。イエスが相手にしていたのは、毎週日曜日にシナゴーグに集まっていた正統派ユダヤ教徒で、彼らは他の日は家族の世話や畑の世話をしたり、漁に行ったりしていました。彼らは基本的に普通の立派な宗教的な人々でしたが、ある種の問題を抱えていました。つまり、自分自身をコントロールできない部分があったのです。ですから、解放を必要とする人は犯人か狂人であったに違いないという印象を持たないでください。現在私たちがおもに取り扱う人々は、まさにそのような人々です。例外的な人たちではありません。教会に通い、正しいことを語る立派で敬虔な人たちですが、生活の中に自分でコントロールできない悪魔的にされている部分がある人々です。それは物理的な欲求かもしれないし、感情的なもの、また思いの中にあるのかもしれません。あとで様々な領域を取り扱いますが、私が言っていることをあなたが受け入れるなら、この問題についてあなたに客観的に見ることをできなくさせている多くの偏見を取り除くことができるでしょう。
奇妙に思うかもしれませんが、ある国の人は他の国の人の解放の必要性を容易に受け入れます。そのトピックについてデンマークで語ったことがあります。デンマーク人は、アメリカ人には解放が必要だと考えています。そしてアメリカ人も、アフリカ人には解放が必要だと信じています。私は8年間アフリカで生活しましたが、アメリカ以上に多くの悪霊には会いませんでした。単なる文化の違いです。
では、同じ出来事が書かれているルカ 4:40-41 のもう一つの描写を見てみましょう。マルコ 1 章に書かれているイエスのミニストリーと同じ場面です。
「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。悪霊どもも、『あなたこそ神の子です』と大声で叫びながら、多くの人から出て行った...」
その先を読む必要はないでしょう。このように、癒やしと解放のミニストリーが織り交ぜられています。人々は病気のゆえにやって来たのですが、多くの場合、その治療法は悪霊を吐き出すことでした。そして、イエスが一人ひとりに手を置いたことに注目してください。今も残っているかどうかわかりませんが、かつて、悪霊を持った人に手を置くことは聖書的ではないというペンテコステ派の伝統があり ました。もしそうだとすれば、イエスは聖書的ではないことになります。私は伝統よりもイエスの模範に従いたいと思います。
もう一つ、ルカ13章を見てみましょう。ルカ13:11-16に、腰が曲がった女のことが書いてあります。のちに別のシナゴーグで起こったもう一つの出来事です。
「すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました』と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。『働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。』しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。』」
彼女はユダヤ教徒でシナゴーグの会員でした。彼女は腰が完全に曲がっている深刻な身体的問題を抱えていました。それは身体的な問題なのではなく、虚弱の霊によるものでした。虚弱の霊が彼女を離れた瞬間、彼女の腰はまっすぐに伸びました。それには見極めが必要ですが、私たちが身体的なものとして分類する問題の中には、実際には悪霊によるものがあるということです。口がきけない、聞こえない、目が見えない人たちへのイエスのミニストリーの多くは、その原因となっている霊から解放することでした。詳しくは説明しませんが、私自身のミニストリーでも、それらの領域における同様の例を見てきました。
少し先のルカ 13:31-32 を読みます。
「ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。』」
これはへブル的です。「きょう、あす、三日目」というのは、今から働きが終わる時までという意味です。イエスは悪霊を追い出し、病人を癒やすという2つのことを行うと言っています。それはイエスが始めた方法であり、継続した方法であり、終えた方法です。イエスのミニストリー全体は、最初から最後までそれを主な部分として含んでおり、おそらく日々の生活の3分の1は、病人の癒やしと悪霊を追い出していたでしょう。そして、その2つは区別できないほど強く結びついていました。
次に、私が言いたいことは、新約聖書には、悪霊を取り扱う権限が与えられることなく伝道に出かけた人は一人もいないということです。新約聖書にはそのような例はありません。それは非聖書的なことです。
最初に十二弟子が遣わされた場面を見てみましょう。マタイ 10:1 です。
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」
イエスが最初にされたことは、悪霊を取り扱う権威を弟子たちに授けることでした。5 節に続きます。
「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。『異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。』」
それには、彼らを整え、任命することが含まれています。ルカ 10 章では、さらに 70 人が遣わされたことが書かれています。ルカ 10:1 です。
「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。」
そして 17 節を見ると、その 70 人が戻ってきて報告をしています。
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、 私たちに服従します。』」
最も印象的なことは何ですか。彼らには悪霊に対する権威があったことです。彼らとは、十二弟子ではなく、70 人です。
そして、福音書の最後に最終的な命令があります。まず、マルコ 16:15 以下を見てみましょう。
「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣 べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められ ます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出 し...』」
イエスは、どのように悪霊を取り扱うかを確認してから、彼らを遣わしました。そして、大宣教命令の別のバージョンです。マタイ 28:19-20。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
イエスは弟子たちに、ご自身が教えたすべてのことを人々に教えるように言いました。イエスの教えのおもな一つが、悪霊の取り扱い方でした。そして弟子を作る時には、ご自身が教えたことを教え、その弟子となった者たちも、自分たちが教えられたことを教えるようにと言いました。そして、世の終わりまでイエスはともにおられると言われました。そのプロセスは変わることがないと。イエスはご自分が去る時から戻って来られるまで変わらず続くビジョンを持っておられました。それがイエスのプログラムです。悲しいことに、教会はそれから離れてしまっています。それを展開し、前進していません。そのことにより、大惨事を引き起こしてきただけです。
新約聖書で伝道者と呼ばれた人は、イエス以外には一人だけです。たった一人です。私は使徒と呼ばれる人が聖書の中で28名いることを見つけましたが、伝道者と呼ばれたのはただ一人です。それは注目に値します。私たちは伝道者という肩書を与えることに躊躇はしません。現代の教会の中で牧師でない人はみな、伝道者であるべきです。基本的に、牧師か伝道者かのどちらかです。では、伝道者と呼ばれたのは誰でしょう。ピリポです。彼の働きは使徒8章に書かれています。使徒8:5。
「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」
ピリポのメッセージは非常にシンプルでした。一言のメッセージでした。サマリヤでキリストを宣べ伝え、ガザへの道でイエスを宣べ伝えました。
「群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。」
伝道者としてのピリポの最初のミニストリーは、悪霊を追い出すことでした。ですから、私がお伝えしたいことは、悪霊を取り扱うために整えられることなく伝道に出て行くことは、神のしもべにあってはならないと、イエスの模範と任命の両方が示しているということです。そのような例を見つけることはできないでしょう。
さて、悪霊の性質についての一般的な教えと、自分や他の人の中で悪霊が働いているかどうかを知る方法をお教えしたいと思います。もちろん、霊を見分けることと、知識のことばの2つの賜物が常に必要です。しかし、それとは別に超自然的な領域において、人の中にある悪霊の存在を警告している非常に多くの複合的な徴候があります。第一に、知っておかなければならないことは、悪霊は肉体を持たない人格であることです。あなたは人格に対処するのです。肉体の中に入ることを渇望している、肉体を持たない人格です。それを理解する必要があります。悪霊はからだの外側ではまったく不満なのです。悪霊が望むのは人間のからだですが、肉体がないよりはましだと、豚や犬、他の動物に入ることがあります。肉体のないままでいたくないのです。肉体のないことは苦痛なのです。
悪霊には、サタンから課された2つの主な目的があります。第一に、あなたがキリストを救い主として知ることから遠ざけることです。それに失敗すると、第二の目的に移ります。それは、キリストに効果的に仕えることからあなたを遠ざけることです。おわかりですか。第一の目的で失敗しても、悪魔はあきらめません。単に第二の目的に切り替えるのです。
私たちは肉と悪霊を区別する必要があります。肉とは、古い肉の性質である古い人のことです。人格である悪霊とは、あなたの人格の領域に入り込み、占領する者のことです。私はそれを次のように比較します。肉は死体であり、悪霊は死体に集まるハゲタカです。お分かりですか。もし肉がないなら、ハゲタカもいません。非常に鮮明な描写です。あなたがもし、ハゲタカがいる国に住んでいるなら、何かが死のうとしている時、小さな影が空に現れ、空中にとどまるのを知っているでしょう。しばらくして見上げると、地面の動物の死が近くなると、3羽、4羽のハゲタカがさらに低空にやって来ます。イエスは、「死体のある所には、はげたかが集まります」と言いました。この世の欲と罪深さがあらわになっている、人のかたくなな肉のあるところに、ハゲタカが集まることは間違いありません。
肉と悪霊への解決策は全く異なります。肉のための解決策は何でしょうか。そう、十字架です。ガラテヤ5:24です。
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」
悪霊に対する治療法は何でしょうか。追い出すことです。その治療法を変更することはできません。あなたは肉を追い出すことはできませんし、悪霊を十字架につけることもできません。ですから、どちらの治療法を適用するかを知るためには、何を取り扱っているかを知る必要があるのです。
一般的に言うと、あなたが聖書を読み、祈り、定期的に主と交わりを持ち、主に仕えたいと願う誠実なクリスチャンであって、苦悩、屈辱、何かに縛られ捕らわれているようであるなど、特別な問題を抱えていて、あらゆる解決策を試し、祈り、断食し、あなた自身は死んだものとみなしても、なお解決していないならば、あなたは悪霊を相手にしている可能性が高いです。私は自分の経験からそう言うことができます。
次に、悪霊の特徴的な活動をいくつか挙げてみたいと思います。悪霊の特徴的な活動を表す動詞を9つ挙げます。もしあなたの生活の中でそれらが複数存在する、あるいはそれが非常に激しく表れている場合は、確かめてください。おそらくあなたは解放が必要でしょう。そして覚えておいてほしいことは、これらのすべては人格の活動であり、私たちは肉体を持たない人格を取り扱っているということです。
一つ目の動詞、誘惑するです。悪霊は誘惑します。悪霊は人々を悪へと誘惑します。あなたが自分の経験を分析すると、言葉の形で誘惑がやって来ることが多いことがわかります。美しい金色の鉛筆が床に落ちていて、それを見ていると、何かがあなたに語りかけます。「それを取りなさい。誰も見ていないよ。他の人も同じことをするさ。仮にそれがあなたの鉛筆で同じように落ちていたら、他の人は自分のものにするよ。」それが何だかわかりますか。声を持っているものはすべて人格です。その声の背後にあるのは、あなたを誘惑する悪霊です。そのような経験をした人は私だけかもしれませんが。
二つ目、悪霊は攻撃するです。あなたがどのような背景から来ているかに基づいて攻撃します。悪霊はあなたをよく研究し、あなたの動きを尾行し、あなたの弱い瞬間、弱い場所を知り、いつどのように入り込めるかを正確に知っています。私がよく例えるのは、職場でひどい一日を送ったビジネスマンです。何一つうまくいかず、自分の秘書は役に立たず、エアコンも壊れた。そして帰り道に渋滞に遭い、高速道路で一時間も立ち往生し、家に着くと、妻は夕食の準備ができておらず、子どもは叫びながら走り回っている。ドアを開けたとき、彼はどうするでしょうか。一日中彼に付きまとっていた怒りの悪霊が飛び出すのです。その後、彼の妻は彼の変化に気づきます。彼は素晴らしい父親であり、夫であることに変わりはないのですが、何かに支配されてしまう時があるのです。そして妻は夫の目つきが違っていることに気づきます。夫が妻や子どもを愛しているにも関わらず、その瞬間が夫に臨んだとき、家族の生活を悲惨にさせてしまうのです。あとになって、夫は恥ずかしく思い、後悔し、「どうしてあんな態度を取ってしまったのかわからない」と言います。私たちにはわかります。それは怒りの悪霊です。
三つ目、悪霊は苦しめます。聖書はマタイ18章で苦しめる者について語っています。私は、悪霊は苦しめる者であると考えています。マタイ18章(赦さないしもべのたとえ)で、少額の負債を抱えた仲間を赦さないしもべは、神によって苦しめる者に引き渡されました。私は苦しめる者の手に渡された多くのクリスチャンに出会ってきました。なぜでしょうか。赦さないからです。もし、あなたの心に誰かに対して赦さない思いがあるなら、あなたは苦しめる者の格好の標的となります。そしてサタンは入り込む余地があることを知っているプロです。苦しめる方法には様々あります。
身体的な苦しみがあります。関節炎を例に挙げましょう。関節炎を見る時、あなたは悪魔の活動を見ることができます。ねじれ、変形、足を引きずる、不自由。精神的な苦しみがあります。
非常に一般的なものの一つは、気が狂うことへの恐れです。それは、あなたの問題ではありません。あなたの問題は、偽りを言う非難する霊であって、あなたの平安とあなたの救いの確信を奪うことです。
四つ目、彼らは脅迫します。脅迫という単語以上に明確な単語はないと思います。脅迫的なものはほとんど悪霊的になりやすいです。過度の喫煙、アルコールの異常摂取、しかしそれだけではありません。異常な食べ方も悪霊的です。暴飲暴食はアルコールと同じくらい問題です。しかし、それはちゃんとした人なのです。教会の中でアルコール依存にはなり得なくても、大食いではあり得ます。他にも脅迫的なものがあります。過度に話すこと、おしゃべりです。話すことを止められない人には問題があります。そして彼ら自身も問題です。
五つ目、悪霊は人を奴隷的にします。非常に身近なものです。あなたが性的な領域で罪を犯したことがあるとします。あなたは悔い改め、イエスの元へ行き、赦しときよめを受け取り、あなたは義とされます。それですべて完了です。しかし、再び同じ罪を犯す衝動に駆られるなら、たとえあなたがそれに嫌悪感を持っていたとしても、あなたは奴隷となっているのです。非常に一般的な例は自慰行為です。一部の心理学者や人々は、自慰行為は問題ない、健康的なことだと言います。私はそれについて議論しません。しかし、それをしている多くの人が、その行為をする自分を憎んでいることを私は知っています。そしていつも彼らは、もう二度としないと言いますが、繰り返してしまいます。彼らは奴隷となっています。自慰行為の霊というのがあります。それはとても一般的です。それを捨ててください。イエスの血によってきよめを宣言し、それから逃げてください。それは非常に手ごわいです。イエスの御名によってそれから逃れなければなりません。
四つ目と五つ目が合わさると、依存症になります。強迫観念と奴隷的になることは依存症です。私たちは依存症の様々なかたちを知っています。一般的でないものもあります。私は以前、マニュキアのにおいへの依存がある若い女性を取り扱ったことがあります。彼女はただ、マニュキアのにおいを嗅ぐのが好きでした。彼女はデパートの化粧品売り場を歩くと、2つの選択肢を考えるのだと私に言いました。マニュキアを買うか、店から出て行くかです。彼女がそのことから解放された時、悪霊は叫びながら出て行き、彼女から離れました。別の依存症もあります。最近一般的なものは、テレビへの依存です。テレビは多くの人にとってアルコールと同じくらいの依存となります。彼らはテレビのスイッチを入れないと部屋の中に入ることができません。無意識に何を見るでもなく、アルコール依存者がアルコールに手を伸ばすようにテレビのスイッチに手を伸ばさずにはいられません。おそらく、それはアルコールよりも長期的に害を及ぼすでしょう。
6つ目、悪霊は汚します。悪霊はあなたを不潔で聖くないと感じさせます。特に、神を礼拝している時です。あなたがまさに神の臨在に入ろうとしている時、この汚れたイメージや不潔な言葉があなたの思いに投影されます。あなたが神を礼拝しようとしている時に起こってくる、あなたに反するものは、ほぼ間違いなく悪霊です。あるいは、あなたが聖書を読んでいる時です。よくあるのは、睡魔の霊です。聖書にも睡魔の霊について語っています。ある人が夜10時に聖書を読もうと考えていると、10時15分には眠ってしまっています。その人はテレビを見ようと思った時には、夜中まで起きていることができます。これは自然なことではありません。テレビを見ることを楽しみ、聖書を読むことを嫌いにさせる霊的な力があるのです。
7つ目、悪霊は欺きます。嘘つきです。基本的に、霊的な欺きはすべて悪霊的であると思います。欺きの扉を開くものは何でしょうか。プライドです。私は、プライドの扉から入って来ない欺きはないと思います。プライドは必然的に欺きにつながるのです。
8つ目、悪霊は弱らせたり、病気にさせたり、疲れさせたりする(悪霊的な疲労があります)。ある女性を取り扱っていたとき、彼女は、「これ以上このセッションに耐えることができません。とても疲れました」と言いました。私は彼女を気の毒に思うところでしたが、それが悪霊であると気づき、私は悪霊に挑戦しました。すると、悪霊は彼女の言うことは正しいと言いました。彼女はいつも疲れている。起きる時も、寝る前にも、祈るときにも、聖書を読むときにも彼女は疲れている。それは背後に隠れているものの一つです。また彼らは殺します。サタンは殺人者であることを覚えていてください。サタンは身体的に人々を殺します。そして、彼が人を殺すように送り込む死の霊というものがあります。
それを一言でまとめるとしたら、「落ち着きがない」という単語になるでしょう。悪霊的な人は通常、ある領域で落ち着きがありません。本当にリラックスし、平安でいられる人には、解放の必要はないでしょう。
時間の関係上、次のトピックが最後になります。それは、悪霊の住む領域です。箴言25:28です。
「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。」
これは人間の個性の内側の性質を町に例えています。そして、その人に霊的防衛がない時、その人は入り込もうとするあらゆる悪霊に開かれています。薬物依存を例にすると、それがその人を表すものです。その城壁は壊れているので、あらゆるものが入り込むことができます。しかし、一つの町には様々な地域があります。裕福な地域、スラム地域、銀行や商業の地域、スポーツ地域、様々な民族の地域などがあります。私は以前シカゴに住んだことがあり、そこには、ポーランド人地区、スウェーデン人地区、ユダヤ人地区などがありました。そして、私たちの内側にも各地区に特徴的な居住者が住む地域から成る町があります。お分かりでしょうか。その領域のリストをみなさんに少しご紹介します。私はプロの心理学者ではなく、これは長年の経験に基づいたものです。
一つ目の領域は中心的な領域で、感情と態度です。私は「ギャング」と呼びます。悪霊のギャング、すなわち仲間たちがいるからです。その一つ一つが次の道を開いていきます。あなたはその一つに出会ったなら、他の仲間を探し始めなければなりません。私の個人的な意見では、あらゆる否定的な感情と態度の背後には悪霊が存在します。怒り、恐れ、孤独感、みじめさ、自己憐憫、プライド、嫉妬など、数えきれません。怒りを持ったことがあるからと言って、必ずしもあなたに怒りの悪霊があるという意味ではありませんが、もしあなたの怒りが先ほど挙げた動詞のリストに該当するなら、おそらくあなたは怒りの悪霊を持っているでしょう。ある特定の根本的な問題が残っていて、それが成長するのです。最大の根本的な問題は拒絶であると思います。拒絶は一連の問題を引き起こします。孤独感、みじめさ、自己憐憫、うつ、悲観。そして、あなたがそこまで行き着いたなら、次の2つの道のどちらかに向かっています。それが受動的であるなら死で、能動的であれば自殺です。悪霊からの誘発がない限り、自殺する人はいないと思います。これは私個人の意見で、証明することはできませんが。
もう一つの非常に典型的な問題は反抗で、憤り、憎しみ、怒り、暴力へとつながり、典型的なギャングや暴力団のリーダーなどを生み出します。
二つ目は、思いです。ある意味、思いは戦いの場です。思いに影響を与える典型的な特徴の霊は、疑い、不信感、混乱、優柔不断、錯乱です。私は、オカルトに関わる人々のほとんどが混乱の問題を抱えているということを発見しました。それが感情的なものであれ、精神的なものであれ、そこにはうつが存在します。
三つ目の領域は、舌です。舌には特徴的な悪霊が数多くあります。その主なものは嘘をつくことです。聖書は偽りの霊について語っています。強迫的に嘘をつく人がいます。彼らは自分が嘘をついていることすらわかっていません。私にもそのような友人がいました。彼はある町の教会に通う社長で、典型的な営業マンでした。彼は立派なクリスチャンで、話し上手でした。彼は私たちの居間に座って話し始め、その話は興味をわかせましたが、ありえなさそうな話でした。私は頭が混乱し、彼は自分が言っていることを自分で信じているのか、また、私は彼の言っていることを信じられるだろうかと思いました。その話は自然から超自然の中へと流れていく感じでした。その霊はどのようにして彼に入って来たのでしょうか。彼は裕福な両親の養子で、その両親には他の子どもはおらず、彼にすべての愛情を注ぎました。両親は彼にすべての期待をかけていました。彼が学校から成績表を持って帰ってくると、両親はその成績に不満で失望していました。両親が失望感を表したのを見て、成績について嘘をつきました。それが彼を嘘の世界へと引き込んだのです。最終的に彼は解放されたと信じます。しかし、そのことは私にとって大きな啓示となりました。このように、強迫性をもった嘘つきの人は、自分が嘘をついていることすら気づいていないので、非常に紛らわしいのです。うそ発見器でも見逃してしまうでしょう。
教会に通っている人にも中傷とゴシップの悪霊があります。ある教会の集会に参加したとき、悪霊につかれた女性が前に来たので、私は「あなたの問題は中傷の霊です」と言いました。私が、「中傷の霊よ、彼女から出て行け」と言うと、回りの4人の人たちが同時に解放され始めました。誇張、伝道的悪霊、冒涜などがあります。主が私を救ってくださった時、私は冒涜の奴隷でした。冒涜しないで話すことができませんでした。汚れた説教、否定的な話などもそうです。
4つ目、教会では誰も話さないこと、性的なことです。教会でそのことが話されないのは、性的な問題を持っている人々は精神科医などに行くからです。そして精神科医は言います。あなたには罪悪感の問題を抱えていて、宗教がその問題の中心となっています。宗教を捨てれば罪悪感はなくなるでしょうと。すべての精神科医がそのように言うわけではありませんが、教会に10年間通っていて、なお罪悪感があるなら、あなたの問題は宗教かもしれないので、他の宗教に変えてはどうですかと言うかもしれません。セックスについて言わせてください。第一に、セックスは悪ではありません。良いものです。私たちはその誤解を取り除かなければなりません。神は男と女という性的な存在を創造しました。そして、すべてのものを創造された後、セックスを含めて、それらはみな非常に良かったと神は言われたのです。教会の大きな問題の一つは、私たちがセックスに対して正直ではないことで、それを恥ずかしいものと感じ、上品ぶった態度によって問題を助長しているのです。強迫的なセックスの形は例外なく、すべて悪霊的であると言えます。自慰行為、不倫、姦淫、同性愛、その他のあらゆる恐ろしい性的倒錯などです。私はこれらすべてが悪霊的であると言います。恥ずかしがらずに、あなたの問題を解決しなければなりません。
5つ目、欲です。ここにセックスを含めることもできましたが、別の領域なので区別しました。倒錯した性欲と食欲です。私はすべての食欲は、最初は健康的なものであったと信じます、しかし、罪と悪霊の力により、それはゆがめられ、不健康で破壊的になってしまいました。第一ヨハネ2:16には、肉の欲、目の欲について書かれています。目を支配する悪霊的な力があります。男性の中には、女性を特殊な見方でしか見られない人がいます。彼らの目にフォーカスしている悪魔です。先ほども言ったように、過食は異常な食欲の明確な例です。解放を求めて、シカゴまでの100km以上の道のりを吹雪に会いながらやってきた女性がいました。彼女は牧師の娘でした。牧師家庭によくあるように、彼女は両親や宗教に対して反抗し、未信者の男性と結婚し、みじめな結末に陥りました。彼女には3人の子どもがいました。彼女は過食の悪魔から解放され、その後にこう言いました。「先生、私には3人の子どもがいますが、まるで赤ちゃんを産むことのようにこの霊は現実的です。」そして彼女は、わかっていながら、子どもたちのお皿から食べ物を奪うほどに強迫的な食欲があったと語りました。
依存症についてお話ししましょう。依存症はフラストレーションによって成長します。それらは幹につながっている枝です。単に依存症に対処するだけでは、その問題を解決することはできません。アルコール依存と過食症を例に挙げましょう。あるクリスチャン女性の夫は、浮気ばかりして妻を気にかけず、生活費もろくに渡していませんでした。妻はフラストレーションが募り、気晴らしに居間にあるお酒が入っている棚に手を伸ばし、アルコール依存に陥ります。別の女性もクリスチャンですが、彼女の夫もまったく同じでした。しかし、その女性はお酒の棚は近くにありませんでした。彼女はどうしたでしょうか。キッチンに行って冷蔵庫を開け、過食になります。二人の違いはわずかです。そしてどちらのケースにおいても、彼女たちを助けるには、彼女たちの夫に対するフラストレーションの問題に対処しなければなりません。リストを続けましょう。
6つ目、オカルトの全領域です。オカルトと言っても、それは非常に広範囲です。見かけは問題なさそうでも、そのすべての部分が悪霊的です。私は、あなたがヨガをすることを議論するつもりはありません。私はヨガをしていました。しかし、健康のためにヨガに頼る必要はありません。主があなたに肉体的な健康を与えてくださいます。オカルトは深く暗い穴ぐらだと言わせてください。すべての道が内側に向かっているだけで、出口のない洞穴の一つです。
7つ目、あらゆる偽りの宗教です。イスラム教、モルモン教、エホバの証人、仏教、ヒンズー教、そしていくつかの点においてユダヤ教です。悪魔のいない偽りの宗教はありません。サタンは宗教の分野の専門家です。そこがサタンの働く主な領域です。
8つ目、すべての異端。異端とは、キリスト教の信仰からの逸脱を意味します。第一テモテ4章を見てみましょう。
「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」
これは今日、広範囲で起こっています。それらが誤りであるという例が次に挙げられています。
「それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。」
特にアメリカ西海岸では、これに当てはまる多くの人々を見ることができます。彼らは超霊的になって、結婚しないと決めたり、また結婚しても配偶者と同居せず、食べる物においても超霊的になったりします。私も知恵を持って食べるべきだとは思いますが、食べ物から宗教を作ることはしません。お分かりですか。それが宗教的問題になる瞬間、あなたは悪霊的になる一歩手前に来ています。そして、食べ物の流行にのめり込む人が他のことは何も語らないことに気づくでしょう。それは、悪霊のもう一つのしるしです。どこから始めても、いつも最後には食べ物の話で終わるのです。あれこれを食べてはいけないというものです。私も食べない物がたくさんありますが、そこから宗教を作り出すことはしません。お分かりでしょうか。
では9つ目、私たちの肉体の領域です。福音書から多くの例を見てきました。あるものは通常、悪魔的ですが、常にではありません。リストの最初に挙げるのは、てんかんです。私は多くの人が解放されるのを見てきました。妻と私は2年ほど前、アメリカのケンタッキー州にいました。40歳ぐらいの女性が18歳ぐらいの娘とやって来てこう言いました。「プリンス先生、10年前に祈っていただいて、私はてんかんの霊から解放されました。これは私の娘で、彼女は問題を抱えています。祈ってください。」私はそのあかしに喜びました。私たちはその娘のために祈りました。彼女は解放されたと信じています。それを汚れた霊として取り扱うとき、多くの人がてんかんから解放されるのを見てきました。集会の中で誰かが私のところに来たら、私はそれを汚れた霊と見なして、出て行けと命じる準備ができています。あなたはそうしてほしいですか。そこには戦いがあるかもしれないので、準備が必要です。もし、そうしたくないなら、私は何もしません。その人次第です。
今日はここまでです。悪霊の主な活動の9つの動詞のリストを見てきました。ここに挙げるのは、悪魔が働いていると思われる、おもな領域です。性的な領域は明確であるかもしれませんが、その人は偽りの宗教の中にいるかもしれません。あるいは思いの中には悪霊的なものがなくても、感情的な面で身動きが取れなくなっているかもしれません。また、異端にいながらもまったく健康な人もいるかもしれません。つまり、領域の中にも選択肢があるということです。
次のセッションでこのトピックを完成させたいと思います。

เอกสารประกอบการศึกษา
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