聖霊を受ける

デレク・プリンス
Published: 1986
Last Updated: tháng 10 năm 2026
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デレク・プリンスの説教「聖霊を受けなさい」をご覧ください。プリンスは、回心時に聖霊を受けることと、それに続く聖霊のバプテスマの違いを説明しています。「霊的賜物を働かせる」シリーズの第1部では、聖書の原則に基づき、これらの経験がクリスチャンにもたらす深遠な影響について強調しています。
Transcript
今日のメッセージのタイトルは、「聖霊を受ける」です。これは、新約聖書全体において、まさに中心的なテーマです。すべてのクリスチャンは聖霊を受け取ることを期待されているので、極めて重要なテーマです。残念なことに、聖霊を受けることについて、特に福音派、ペンテコステ派、カリスマ派の中に多くの混乱や誤解があります。例えば、バプテスト派は、「私は新生した時に聖霊を受けました。もう受けるべきものは何もありません」と言うでしょう。ペンテコステ派は、「いいえ、あなたは新生したときに聖霊を受けたのではありません。聖霊のバプテスマを受けて異言で話すまで、聖霊を受けることはありません」と言うでしょう。そして、互いに反感を持ってしまう傾向があります。
誠実なクリスチャンたちが聖書の基本で意見が食い違うほとんどの場合、それぞれが部分的には正しく、部分的には誤っています。今日、この混乱を解消することができると信じます。事実、新約聖書は聖霊を受けることにおいて2通りの方法で語られているのです。その2つを見分けることができたなら、混乱は起こりません。新約聖書から2つの歴史的状況を用いてその2通りの方法を定義し、説明し、違いを示していきます。
キリスト教会にとって歴史的に非常に重要な2つの日曜日についてお話しします。一つ目を、復活の日曜日と呼ぶことにします。二つ目は、その7週間後のペンテコステの日曜日です。その2つの日曜日に、信者たちは聖霊を受けました。しかし、その2つは別の体験でした。それぞれの体験の様子をよく見ると、自分の状態、すなわち、私は聖霊を受けたのだろうか、もっと受けるべき何かがあるのかということを知ることができます。聖霊を受け取る時に何が関与しているのでしょうか。
まず、よみがえられたイエスが弟子たちに最初に現れた復活の日曜日について書かれているヨハネ20章を見ましょう。ヨハネ20:19-22です。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。」
ご存知の通り、週の初めの日とは日曜日のことです。安息日は週の7日目で、日曜日は新しい週の始めです。ヘブル語では、yom reshon、最初の日と呼ばれています。ですから、ヘブル語は週の日の呼び方において私たちよりも聖書に忠実です。残念なことに、英語やほとんどのヨーロッパ系言語での週の呼び方は、異教の神々から付けられています。たとえば、水曜日のWednesdayは、ウォーディン(神話の神)の日で、木曜日のThursdayは、トール(神話の神)の日です。日曜日は太陽の日です。週の日を定義する方法が非常に異教的であることは残念な事実です。しかしヘブル語では、第一日、第二日、第三日、第四日、第五日、第六日です。七日目はどうでしょうか。Shabbat(安息日)で、日曜日はyom reshonです。イスラエルに住むとわかりますが、一週間で一番忙しいのは日曜日です。安息日に休んでいた人々は週の最初の日に動き始めます。そして、イスラエルの信者の集会のほとんどは土曜日に礼拝を持っています。日曜日が仕事の日だからです。
少し脇道にそれてしまいましたので、19節に戻りましょう。
「...すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。」
イエスはなぜ、そのようなことをしたのでしょう。彼らはイエスが十字架で刺されたのを見、今その同じからだを見ているのだと納得させるためです。栄光あるからだに変えられましたが、からだ自体は変わっていません。
「弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」
今読んだ最後の節についてお話ししたいと思います。「息を吹きかけて」と訳されている言葉は、フルート奏者が音を出すために、フルートのマウスピースに吹き込むことに使われる言葉です。イエスは彼らから離れたところに立って、集団にまとめて息を吹きかけたのではなく、彼ら一人一人に息を吹き込みながら「聖霊を受けなさい」と言われたのだと私は考えます。
ギリシャ語は時制について非常に敏感です。命令形に複数の時制があります。この特定の時制は、イエスがそのことばを発したときに受けたことを指しています。ですから、その時弟子たちはそれぞれ聖霊を受けたのです。それについて何も疑問はありません。
それは何を暗示しているのでしょうか。私の理解では、その時点で、旧約聖書の救いから新約聖書の救いへと移りました。旧約聖書で救われた人々は、預言と型を通して約束された、まだ捧げられていない、いけにえ(イエス)への信仰によって救われたのです。つまり、彼らの信仰は未完成のものを待ち望む信仰でした。しかし、新約聖書では、私たちは歴史的に成就された十字架上のいけにえのイエスを信じる信仰によって救われています。イエスは死なれる時、「完了した」と言われました。私たちは完了した働きを振り返るのです。
新約聖書の救いを体験するために、パウロは2つのことが必要であるとローマ10:9で言っています。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
このように、新約聖書の救いには、2つの条件があります。イエスを主と告白することと、神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったことを信じることです。弟子たちはすでにイエスを主と告白していましたが、この時初めて、神がイエスを死者の中からよみがえらせたことを信じました。彼らは旧約聖書の摂理から新約聖書の摂理へと移ったのです。それは型です。よみがえられたキリストと顔と顔を合わせることによって、またイエスから吹き込まれた霊を受けることによって、それは起こったのでした。
さて、ギリシャ語で「霊」を表す語pneumaは、風や息を表す語でもあります。ですから、イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言ったとき、聖なる息を受けなさいと言っていたのです。それは人と人の直接の作用です。彼らは新しい創造の一部となりました。神が園で土のからだを形作られた時の最初の創造を思い返してみましょう。生きたたましいである人を創るために、神は何をされましたか。神がその中にいのちの息を吹き込むことで人は創造され、生きたたましいとなりました。新しい創造は同じ型に従っていますが、園にいる主ではなく、死をたどり、墓から出て弟子たちに息を吹き込んだ、完全な勝利者である、よみがえられた救い主です。それは罪とサタと死に打ち勝った勝利あるいのちです。よみがえられた救い主の息です。
私は、これは新しく救いの中に入るすべての人のための型だと信じます。イエスに出会うことなく救われることはないと思います。それは弟子たちのように目に見えるかたちでイエスに出会うという意味ではなく、イエス以外に真のイエス・キリストの教会に入る道はないということです。イエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」ですから、これはすべての人にとっての新しい誕生の型です。私たちはイエスに出会わなければなりません。ただ教理を信じたり、教会のメンバーになったりすることだけではなく、よみがえられたキリストと個人的に出会い、聖霊である神の息をイエスから受けて、新しく創造された者となるのです。私たちは死からいのちへと移るのです。
私のイエスとの出会いは、この目で見たのではありませんが、顔と顔を合わせて出会いました。それは第二次世界大戦のイギリス軍のバラック小屋でした。私には救いの教理の知識は何ひとつありませんでした。私は生まれ変わるということも、救われるために何をしなければならないかも知りませんでしたが、信じてください。私は救われました。後になって教理を学びましたが、私はすでにイエスに出会っていたのです。イエスに出会って、今まで通りであり続けることは誰もできません。あなたは教会に通っていても、変わらないままでいることもあり得ます。多くのことを頭で信じても、変わらないままということもあり得ます。しかし、よみがえられたキリストに出会うと、変わるのです。そして、それは永久的なものです。45年前(第二次世界大戦中)のその時は、試みの時でした。私は教理など全く知りませんでした。かつての弟子たちもそうでした。彼らは突然の聖書的啓示を受けたのではありません。イエスに会い、聖霊を受けたのです。聖なる永遠のよみがえりのいのちです。朽ちることのないいのち、勝利のいのちです。ヨハネは後にそのことについて、「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」と言っています。あなたの中にあるいのちは敗北することがありません。それは、圧倒的な勝利のいのちです。すべての悪に打ち勝ったのです。何と素晴らしいことでしょう。
ではここで、アウトラインを説明します。この時点で弟子たちは、聖なる永遠の復活のいのちを受けました。しかし、彼らはまだミニストリーのための方向性に欠けていました。その後幾日も経たないうちに、ペテロはが再び漁に行きました。彼はまだ、神が彼に持っておられる召命を知らなかったのです。そして彼らは、エルサレムの町で何のインパクトも与えませんでした。エルサレムは以前と同じ状況でした。彼らは毎日宮で神を賛美し、祝福していましたが、エルサレムには何の変化もありませんでした。そして、復活の日曜日から昇天までの間のこの経験の後、イエスが彼らに言われたことは、「まだ受け取るべきものがある。すべてを得たと思ってはならない」でした。私は、「救われた時にすべてを得た」と言う人たちに出会うとき、こう言います。「あなたがすべてを得たのなら、見せてください。どこにありますか。」それは表すことができるはずです。
弟子たちが新しい誕生を通して素晴らしいものを受けましたが、イエスはそれ以上にさらに受けるものがあることを明確にされた2箇所の聖句を読みましょう。ルカ24:48-49です。これは、イエスが昇天される前に語られた言葉であることを覚えていてください。イエスの復活から約40日後のことです。
「あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、まだ来るべきものがあると言われました。父の約束をあなたがたはまだ受け取っていない。しかし、あなたがたはそれを受けるとき、私の証人となる力が与えられるのだと。
そして、使徒1:4-5です。
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。』」
それから、父の約束が何であるかを説明します。
「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
それが父の約束です。ある人は、聖書の中に神の約束が7,000あると推定しています。しかし、これこそが父の子どもたちへの約束です。「あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける。」
そして、イエスは8節でその目的を説明しています。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
これが聖霊でバプテスマを受ける約束です。その目的は、証人となる力を受けるためです。それはまだ起こっていませんでした。これは彼らが新しいいのちで聖霊を受けた、復活の日曜日の体験のおよそ40日後です。しかし、イエスは言われました。「私の証人となる力を着る、もう一つの体験をするだろう。」そして、あらゆる背景を持ったほとんどの聖書注解者が、その2つ目の約束がペンテコステの日に成就したことに同意しています。
ですから今、使徒の働き2章を開き、その約束の成就が表現されているいくつかの箇所を読みましょう。最初に、使徒2:1-4を読みます。
今話しているのは、ペンテコステの日曜日についてです。 「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」
これが約束の成就です。この体験の3つの連続した段階を説明しましょう。まず、聖霊が激しい風のように下り、彼らが座っていた家全体に満ちました。言語学的に言うと、バプテスマという語の意味は、つける、浸すであることを覚えておいてください。これは疑問の余地のない言語学的事実です。ですから、すべてのバプテスマは浸される必要があります。水のバプテスマとは、水の中に浸されることです。しかし、聖霊のバプテスマは、聖霊に浸されることです。水のバプテスマでは、あなたは水に入り、水から出てきます。しかし、聖霊のバプテスマでは、聖霊があなたの上に下ってきて、上からあなたを浸すのです。スイミングプールに入っていくことと、ナイアガラの滝の下を歩くことに例えることができるでしょう。どちらも浸されますが、滝は上からの浸しです。
私が初めてナイアガラの滝に行ったとき、その下に行ったら、瞬間でずぶ濡れになるだろうと思いました。しかし、滝の中に入って行って浸るのではなく、滝の水が上から落ちてくることによって浸るのです。ですから、ペンテコステの日、屋上の間にいた弟子たちはみな、上から下って来た聖霊に浸されたのです。彼らのいた家全体に響き渡ったと言っています。つまり、彼らは完全に聖霊に浸されたのです。それが第一段階です。
第二段階です。彼らはみな聖霊に満たされたと書かれています。一人ひとりが満たされるまで聖霊を受けました。
そして第三段階は、「あふれる」と呼びましょう。彼らは聖霊が話させてくださるとおりに、新しい言葉で話し出しました。マタイ12:34でイエスは言っています。
「心に満ちていることを口が話すのです。」
つまり、あなたの心があふれ出るほどに満ちるとき、そのあふれ出たものが言葉としてあなたの口から出るのです。これは聖書的です。彼らが聖霊で満たされ、それ以上入らなくなって、あふれ出したのです。彼らは聖霊が話させてくださるとおりに話しだしました。それらがその体験の三段階です。上からの浸し、満たし、あふれ出しです。
さて、理論上では、あなたはどの段階でも止めることができます。弟子たちは浸されても、満たされないでいることもできました。あるいは、浸され、満たされても、あふれ出さずにいることができたかもしれません。しかし、最高のものを求めない理由が私にはわかりません。ですから、私はカトリック教会でも説教をする際には、カトリック信者が大好きな新約聖書のマリヤとペテロの2人がその三段階で受け取ったことを思い起こさせて、こう言います。「彼らがそのように受けたのなら、あなたは他の方法で受けるべきでしょうか。」そして、何百人ものカトリック教徒が数分の間に聖霊を受けるのを見てきました。
この第二段階の体験についての私の解釈はこうです。「弟子たちは今や、明らかな超自然的な力を受けた。」このことを強調したいと思います。それは目に見えるものでした。誰もが起こっていることを知ることができました。それは、内側の体験でだけはなく、超自然的なものであり、力でした。彼らはそれまで持っていなかった、証しする大胆さを受けました。彼らは生まれ変わってはいたのですが、証しする大胆さはありませんでした。彼らは聖書を理解する力を受けました。次の数分で、ペテロは虎の巻も覚え書きもなしに立ち上がって言いました。「これは、預言者ヨエルによって語られたことです。」ペテロはそのことを一時間前には語ることはできなかったでしょうし、何の洞察力もなかったでしょう。瞬時に聖書が新しい方法で彼らに生きたものとなったのです。3つ目に、彼らは使徒職のために解放されました。ペテロはペンテコステの後は、漁に行くと言うことはありませんでした。そしてついに、エルサレム中がそのインパクトを受けました。数時間以内に、エルサレムのすべての人が異常なことが起こったと知ったのです。
彼らが新生した時は、新生の事実は広まりませんでした。しかし、聖霊のバプテスマを受けた事実は広まったのです。それが長い間隠されたままでいることはありません。それは何らかの方法で物事をかき立てることになるのです。私の友人がある人に、バプテスマの証拠は何かと質問されました。彼は騒乱だと答えました。
では、ここまでをまとめましょう。2つの日曜日を比較してみます。3つの違いがあります。互いに矛盾しません。どちらか一方ではなく、両方とも神の民すべてのための神の目的です。あなたが復活の日曜日を経験したからといって、ペンテコステの日曜日の体験は必要ないということにはなりません。ですから、「私は救われた時に聖霊を受けた」と言う人は正しいのですが、すべてを得たわけではありません。実際、私たちはあまり理解できていません。ほとんどの人はまだ得るべきものがもっとたくさんあるでしょう。私はそれら2つの日曜日を比較することで、聖霊を受けた人と、聖霊を受けていない人との疑問はなくなりました。新生して神の子どもとなった人はみな、いのちとして聖霊を受けています。しかし、新約聖書によると、新しく生まれた神の子どもはみな、聖霊のバプテスマを受け、証しするための超自然的な力を受ける必要があります。この二つは矛盾せず、完全に一致しています。
強調したいポイントに来ました。「聖霊を受けなさい!」です。それは勧告ではなく、命令であったことを指摘したいと思います。イエスは通常、勧告ではなく、命令を与えます。非常に重要なことを言いましょう。使徒の働き2章以降、新約聖書の「聖霊を受けなさい」というフレーズは、常にペンテコステの日曜日の体験を指しています。これは単純に新約聖書の語法です。それは他方を除外するというのではなく、使徒の働き2章以降、聖霊を受けることについて書かれている箇所はすべて、ペンテコステの日曜日の体験について言及されているのです。
では、3つの例を簡単に見てみましょう。使徒の働き8章で、ピリポがサマリヤに行った後、そこでキリストを人々に宣べ伝えた場面です。8:12です。
「しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。」
イエスは、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます」と言われました。ですから、私たちはそのサマリヤ人たちが救われたと認めなければなりません。彼らは信じ、バプテスマを受けました。しかし、彼らの体験は完全ではありませんでした。彼らはピリポからはそれ以上のものを受けていませんでした。14、15節を読みましょう。
「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。」
人々は救われましたが、使徒たちは聖霊を受けるように祈りました。復活の日曜日の体験ではなく、ペンテコステの日曜日の体験のためです。
「聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。」
聖霊のバプテスマについて語られている箇所はすべて、上から下って来る聖霊を意味することに注目してください。聖霊はまだ誰にも下っておらず、主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけでした。彼らは救われていましたが、聖霊はまだ彼らの上に下っていませんでした。
「ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」
救われてバプテスマを受けた信者は、聖霊を受ける必要があることが3度も語られています。復活の日曜日の体験ではなく、ペンテコステの日曜日の体験です。
そして、使徒10:47のコルネリオの家での出来事です。ペテロがそこへ行って、イエスのことを証ししました。そして、聖霊が下りました。ペテロの説教を中断させ、そこにいたすべての異邦人が異言で話し始めました。その時のペテロの言葉はこのようでした。
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
ペテロは、彼らが異言で語るのを聞いたという事実に言及しています。つまり、彼らはペンテコステの日曜日の方法で聖霊を受けたのです。
そのあと、使徒19:2で、パウロが最初にエペソに来たとき、幾人かの弟子に会いました。しかし、パウロは何らかの体験が欠けていると感じ、このように質問しました。
「『信じたとき、聖霊を受けましたか』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした』と答えた。」
もし、信じたときにすべての人が自動的に聖霊を受けたのであれば、この質問は無意味です。ですから、パウロは新生についてではなく、ペンテコステの日曜日の体験について聞いているのです。
では、非常に実践的な話に入っていきます。どのように受けるかを話したいと思います。多くの人が受けたかもしれません。しかし、全員ではないと思います。これは、まだ受けていない人を一番に心に留めて言うのですが、それだけではなく、聖霊の受け方を人々に教える模範の意味でも話します。その方法が有効であることを伝えたいのです。私は経験によってそれを証明してきました。理論を提供しているのではありません。私たち夫婦は今から2年ほど前にザンビアのチームとともに、ザンビアの辺境地で約7,000人のアフリカ人の集会を持ちました。私は十字架の働き、のろいからの解放、悪霊からの解放など、アフリカでは不可欠なことを非常に注意深く体系的に教えました。そして4日目の午前、私は今述べてきたこととほぼ同じことを教えました。それから私は言いました。「では、どのように受けるかについてお教えしましょう。」それを受ける段階まで導き、こう言いました。「今からは、あなたの言語で語ってほしくありません。新しい言葉だけで語ってください。」1分ほどの静けさがあり、その後一人の男性が新しい言葉で話し始め、その30秒後には、少なくとも4,000人が一斉に聖霊のバプテスマを受けたと思います。
それと同じ規模ではありませんが、私は多くの場所で同様のことを見てきました。少し前、私はオーストリアのカトリック教会に招かれました。カトリックの神父が私を呼び、バプテスマと異言について教えるようにと言いました。カトリックの教会で神父が味方にいると、怖いものはありません。つまり、まるで預言者エリヤと同じ立場です。ですから、私は今語っていることと同じことを彼らに語りました。その教会には900人くらいがいました。私が「この中で受けたい人はどれぐらいいますか」と聞くと、少なくとも500人ほどが前に進み出ました。私は簡単な支持を与え、彼らは席に戻り、異言で話し始めました。そして異言で歌い始めたのです。美しい石と大理石でできた建物は、これまでに聞いたことがないような音色を聞いたことでしょう。素晴らしい光景でした。新しく聖霊のバプテスマを受けた500人が主を礼拝し、異言で賛美しているのです。このように、カトリックをいったん解き放つと、彼らを止めることができるものは何もありません。彼らがどこまで行き着くのかもわかりません。これは正しいでしょうか。教理的でしょうか。それがカトリック教会の権威から来ている限り、正しく教理的なのです。それに関して多くの議論があり、また問題も引き起こしていますが。
もう一つ、とても重要なことを話したいと思います。聖霊のバプテスマの明確なしるしは、異言で話すことです。それを証拠と呼ぶ人もいます。実は、私はそれをバプテスマの最高潮と呼びたいです。それは浸しでも、満たしでもありません。あふれ流れ出ることです。あなたは流れ出るのを抑えることはできます。多くの人は聖霊に満たされても、流れ出したことがありません。なぜ、それをとどめてしまうのでしょうか。パウロはエペソ人への手紙と、コリント人への手紙の両方で、聖霊のしるしを受けることについて語っています。しるしとは、パッケージなど、何かにつけられた、目印のようなものです。それは目に見えるもので、他の物と区別するためのものです。それが聖霊のしるしです。聖霊を受けた人々を他のすべての人々と区別します。聖霊を受けたら、あなたはしるしをつけられた人となります。人によって、あるいはサタンによってしるしを付けられることには注意してください。
これは私の個人的な視点ですが、新約聖書で見るしるしは異言で話すことです。異言について少し解説します。異言は使徒たちが受けたしるしです。彼らは10日ほど待ちましたが、いったん異言で話してからは、二度と待つことはありませんでした。ちなみに、その後は誰もバプテスマのために待つことはありませんでした。何週間も、何か月も、何年も待たなければならないという考えは、非聖書的です。ペンテコステの後は、それ以上待つことはなかったのです。あるペンテコステ派の教会で一人の男性が私に、「私は25年もバプテスマを待っているのです」と言いました。私は、「あなたの問題は、神にすべてをしてもらいたいと思っていることです」と答えました。彼は、「そうです。私は神がすべてをしてくれることを望んでいます」と言ったので、「あなたは決してそれを受けることができません。神はご自身の役割を果たされるので、あなたは自分の役割をしなければなりません」と私は言いました。彼が異言で話さずに恵みに達したと信じることは容易です。待つことはペンテコステの後は聖書的ではありません。
異言は使徒たちが受けたしるしであり、他の人が認識できるしるしでした。その顕著な例は、コルネリオの家の人たちです。ペテロは異邦人がクリスチャンになれたことさえ信じませんでした。彼らが異言で話すのを聞いた時、ペテロは、「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのです」と言いました。ペテロは実を待ったり、彼らが教理を知っているかを確かめたりするのではなく、「彼らは受けた」と言いました。彼らは他のしるしを求めたことはありませんでした。そして、新約聖書は他のしるしを求めていません。
どのように受けるかという話に戻りましょう。まず、ルカ11:11-13を見ましょう。これは励ましのことばです。イエスはこのように言っています。
「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。」
要するに、良いものを求める子どもの父親は、決して悪いものを与えないと、イエスは言っているのです。そして、それを私たちの天の父にあてはめています。
「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
クリスチャンが聖霊を求めることは聖書的でない、と言っているのを聞いたことがあります。しかし、イエスは、あなたが神の子で、新生しているなら、聖霊を求める権利があると言いました。そしてイエスは、求める責任を私たちに置いています。あなたが新生した神の子どもで、唯一の道である御子イエスを通して神のもとへ来て、良いもので聖書的なものを求めるなら、決して悪いものを受け取ることはありません。それがあなたの保証です。しかし、求める責任はあなたにあります。
そして、受けるための実際的なステップです。ヨハネ7:37-39を読みましょう。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から...』」
しかし、その翻訳は上品すぎます。原語は「腹から」となっています。私は聖公会の教会で育った少年のころ、教会で「腹」というような下品な言葉の箇所を読むとき、いつも少しショックを受けていました。しかし、それが元々の意味であり、ギリシャ語で「くぼんだ場所」という意味の語であるのは、興味深いです。天の丸天井(アーチ)用いられるのと同じ語源です。つまり、信者のからだには、聖霊のために備えられている領域があるのです。ご存知でしたか。霊的に考え過ぎないでください。これが聖霊をあなたのからだの中にもたらすのです。お腹からです。私が誰もいない軍のバラック小屋でバプテスマを受けたとき、お腹にそれを感じました。次に何が起こるのだろうと思いました。そして神に叫んで言いました。「他の言葉で話すことをあなたが願っておられるなら、私はその準備ができています。」私は大げさに求めたのではありませんが、それを言った瞬間、その炎がお腹から胸、のどに上ってきました。次の瞬間、何が硬いゴムのようなものが私の口の奥で跳ねていました。私はそれが自分の舌であることに気づきました。口を開けると、奇妙な音が出てきました。しかし、それがお腹から始まったことは鮮明だったことを覚えています。イエスはこのように言われました。
「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
それは驚くべき変化です。自分のために何も持っていない飢え渇いた人が聖霊を受けると、川の流れとなるのです。普通の川ではなく、生ける水の川です。何という変化でしょう。
福音書の著者による説明があります。
「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」
信者は聖霊を受けるのです。
「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
この意味での聖霊は、イエスが栄光を受けるまで与えられませんでした。イエスが栄光を受けられたのはいつでしょうか。天に昇り、父の右に着かれた時です。
使徒2章に戻りましょう。2:32-33は、ペテロがペンテコステの日に起こったことをまとめている箇所です。
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
つまり、栄光のキリストは父から聖霊の賜物を受け、それを弟子たちに注ぎ、その結果は見聞きできるものでした。それは目に見えない内側だけの体験ではなく、からだや感覚に影響を与えるものでした。
ヨハネ7章に戻りましょう。どのように受けるかです。4つの簡単なステップを紹介します。それは複雑なものではなく、シンプルです。神学的な考え方をし、複雑にしたがる人たちは、信じて行動に移すにはシンプル過ぎると感じるかもしれません。どのようなステップでしょうか。一つ目、渇いていることです。「誰でも渇いているなら」です。それが資格です。聖書を引用できなくても構わないし、十分の一献金をしているという証明も必要ありませんが、渇いていなければなりません。それが必須条件です。人々が私のところにやってきた時、私はこう言います「忘れないでください。バプテスマは渇いている人のためであり、解放は必死な人のためものです。」解放を求めて来る人に、私はこのように言う時があります。「いいですか、あなたを助けることはできません。必死に求めていないからです。必死の状態になったら戻って来なさい。」
しかし、今は解放についてではなく、聖霊を受けることについて話しています。それは渇いている人たちのためのものです。神学者のためにあるのではありません。それは超霊的な人々のためのものではなく、渇いている人のためのものです。ですから、もしあなたが自分は取るに足らない、非常に弱い、神が願っておられるものを何も生み出すことができないと感じているなら、あなたには資格があります。それがあなたの資格となるのです。あなたが今以上に神を必要としているなら、それは渇いているということなのです。神が求めているのは、それだけです。
二つ目、イエスは言われました。「私のもとへ来なさい。」デビッド・ドゥプレシスという人は、はっきりと言いました。「聖霊のバプテスマを授ける方はただお一人で、その方の名はイエスである」と。その通りです。ですから、聖霊のバプテスマを受けたいのなら、それを授ける人のところに行かなければなりません。他の場所では受けることができません。人間が聖霊を授けるのではありません。人間は水のバプテスマを授けますが、聖霊を授けるのはイエスだけです。幸いなことに、イエスは「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」と言ってくださいました。ですから、あなたがイエスのもとへ来るなら、イエスはあなたを受け入れてくださることを私たちは知っているのです。
次にすべきことは何でしょうか。それが問題です。ここからはとても具体的でシンプルになるので、宗教的な人々にとって問題となるのです。三つ目です。飲まなければなりません。誰もあなたの意志に反して飲ませることはできません。英語の古いことわざに、「馬を水場に連れて行くことはできても、飲ませることはできない(機会を与えることはできるが、それを生かすかは本人次第)」というのがありますが、これは教会の人々にも当てはまります。誰もそれを強制できません。それはあなたの意志の決断であり、あなたがしなければならない、とてもシンプルなことです。口を閉じたままで聖霊のバプテスマを受けた人は一人もいません。それは起こり得ません。あなたは自分のからだにある口を開けて、神の霊を飲み始めなければなりません。目に見える水を飲むのではなく、イエスがあなたの上に注いでくださる目に見えない神の霊を飲むのです。なぜイエスは注いでくださるのでしょう。あなたが求めたからです。それほどシンプルなものなのです。イエスは言われました。「わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」
さて、一番簡単な飲み方は息を吸い込むことです。私は一度に何百人もの人がそれをするのを見てきましたが、受けられなかった人は一人もいませんでした。立って、「ウー、ウー」と言っている人は何も得ませんでした。そこが問題であることをお伝えしたいのです。自意識が強いのです。その人は「今まで教会でそうするように言われたことはない」と言うかもしれませんが、それは間違っています。
もう一つの段階があります。あなたは飲んだので、それを流し出さなければなりません。「その人の腹から生ける水の川が流れ出るようになる。」これは聖霊のことを言っています。ですから、最後の四つ目の段階は、流し出すことです。それはどのように起こるのでしょうか。口を通して語るのです。「心に満ちていることを口が話すのです。」それは超自然的な内側の満たしなので、超自然的に流れ出しとなります。あなたは自分の知っている言葉を話すのではなく、聖霊があなたに与えてくださる、今までに聞いたことがなく、学んだことがなく、あなたが理解できない、そして決して理解することができないであろう言葉を話します。
れが正しいものであると、どのように分かるのでしょうか。それは、あなたが正しいものを求めたからです。神は書面による保証を与えておられます。ルカ11:11-13、良い物を求めるなら、悪い物を得ることはないと書いてあります。一緒に言いましょう。「私は良いものを求めるなら、決して悪いものを受け取らない。」今、私たちは確信があります。
では、サタンの2つの異議に移りましょう。今みなさんに、聖霊のバプテスマを受けた人がどれくらいいるかと尋ねたら、9割ぐらいの人が手を挙げるでしょう。一つ目の異議、告発者サタンはあなたのすぐそばにいて、あなたが異言で話し始めると、「それは本物じゃない、自分でやっているだけだ」と言うのです。ほとんど全員がその経験がありますね。それにどう答えますか。あなたは答えを知っておかなければなりません。その答えとは、「サタンよ、お前は正しい。私は自分でやっている。話しているのは私だが、聖霊が私に言葉を与えてくれているのだ」です。使徒2章には、「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」と書かれています。聖霊が話すのではなく、彼らに言葉を与えたのです。彼らはそれを話したのです。ですから私は、先ほどの25年も待っていた男性に、神にすべてをしてほしいなら、聖霊を受けることなく墓に行くことになると言ったのです。神がすべてをしてくれるのではありません。神はご自身の役割をされるので、あなたは自分の役割をしなければなりません。神はあなたを強制的に話させようとはしません。聖霊が私にあれこれをさせたと言う人々がいます。私はそれを信じません。聖霊が神の子どもに何かをさせることは決してありません。使徒ペテロは言いました。「聖霊が私に行くように命じた。」彼は、「聖霊が私を行かせた」とは言っていません。あなたには自由意志があり、神は決してあなたの自由意志をくつがえすことはありません。なぜなら、神はあなたをそのように造られたからです。話すことを決心するのです。そして、口を閉じたまま話すことはできません。
私は、多くの人の手助けをしてきました。私はこのように言います。「いいですか、口を開け、舌を動かし、くちびるを動かしてください。明確に話してください。すべてのことばをはっきりと言ってください。あなたは運転席にいます。あなたが決断するのです。あなたの意志がスイッチです。力はそこにありますが、スイッチを押せるのはあなただけです。」
いいですか、サタンへの返事は、「サタンよ、その通りだ。私は自分でやっている。自分で話していて、聖霊が言葉を与えてくださっているのだ」です。
次の異議は、あなたはどのようにして、正しいものを受けたとわかるのかです。とても愚かに聞こえますが、あなたが知らないほとんどすべての言語は、奇妙に聞こえます。私は世界の様々な地域の言語をたくさん聞いてきましたが、それらすべては私にとって奇妙に聞こえます。知らない言語というのは奇妙なものです。しかし、どのようにして正しいものを受けたかどうかを知ることができるのでしょうか。それは、私たちは正しいものを求めたからです。神は正しいものを求めるなら、決して間違ったものを受け取ることはない保証されました。その基本は信仰です。他に神のもとに来る方法はありません。「神に近づく者は...神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
最後に、受けることについて話しましょう。まだこのしるしを持っていない、つまり聖霊のバプテスマを受けていない方がいるでしょう。受けたかもしれないけれど、あふれ流し出ていないかもしれません。また、流し出したけれども、それが正しいのかどうかわからず、それを続ける信仰や勇気がない人もいるかもしれません。本当の解放を受けたことがないのかもしれません。もし、あなたが今、このメッセージが終わるまでに完全な解放を願うなら、手伝いたいと思います。その場で立ってください。あなたがイエスのもとに行って受けるための祈りを導きます。恥ずかしがらず、立ち上がってください。最善のものを求めるために、神のもとに行くことは当然のことです。
自分が受けたかどうかよくわからないという方もいるでしょう。少し言葉を話し、唇も動いたけれど、よくわからないという人は、立ち上がってください。はっきりとした川となることができるのですから。私は人々に言います。「これは水たまりではなく、川です。いつまでも流れ続けるのです。」何年か前に一度だけ異言で話したことがあるなどと言わないでください。それは川ではなく、水たまりです。
今から私が大きな声で区切りながら祈りますので、私の後について祈ってください。私に対して祈るのではなく、バプテスマを授ける方、主イエス・キリストに祈ってください。あなたが渇いた人としてイエスのもとに行く資格がある者として祈ります。「アーメン」と言ったら、祈るのをやめてください。
そのあとは祈りをしないでください。いいですか。そのとき何をするのですか。飲み始めるのです。あえぐ必要はありません。ただ静かに神の霊を受け取ってください。主に集中し、周りの人の存在は忘れてください。新しいことばを解き放ち始める信仰の時というものがあります。今すでに準備できておられる方もいるでしょう。音の壁を破らなければなりません。叫ぶ必要はありませんが、自分で聞こえるぐらいの声を出し、他の言葉で話していることが自分でわかるようにしてください。いいですか。アーメンと言ったら、日本語や英語、フィリピン語、スペイン語、中国語、韓国語などは禁止です。では祈りましょう。
主イエス・キリストさま。私はあなたが神の子で、十字架で私の罪のために死に、死からよみがえられたことを信じます。赦しときよめを信じます。私を神の子として受け入れてくださったことを信じます。あなたが受け入れてくださったので、私も自分を神の子として受け入れます。今、私の心に誰かに対して怒りや赦せない思いがあるなら、それを捨て、神が私を赦してくださったように私も他の人たちをすべて赦します。もし私が今までに魔術に関わってきていたら、それを罪と認め、イエスの御名によってあなたに赦しを求め、今後サタンや魔術の力との一切のかかわりを断ちます。主イエスさま、今私は聖霊を授ける方である、あなたのもとに来ています。私のからだをあなたの聖霊の宮となるようにお捧げします。私の舌を新しいことばであなたをほめたたえる、義の管(くだ)として、あなたにゆだねます。信仰によって今、私はそのことを受け取り、イエスさまの御名によって感謝します。アーメン。
さあ、飲み始めてください。息を吸い込んでください。そして話し始めてください。話すとき、ただ口を開けて、舌と唇を動かし、声を主に捧げてください。もう準備できている方も多いでしょう。唇と舌が動いたら、声を主に捧げてください。聖霊が来られたら、恥ずかしがらないで迎えてください。ハレルヤ、主に感謝します。
では、一緒に神に異言で賛美しましょう。主イエスさま、感謝します、感謝します。主よ、あなたをほめたたえます。あなたの栄光をほめたたえます。ハレルヤ、アーメン。
興奮するのは当然です。しばらくの間、楽しんでください。アーメン、主イエスをほめたたえます。栄光をあなたにお捧げします。イエス・キリストは主です!アーメン。主は罪と、死に打ち勝ちました。主は死からよみがえられました!イエスは、父の右の座に昇られました。天と地のすべての権威はイエスに与えられています。イエスの御名をほめたたえます。感謝します。ハレルヤ、主よ、感謝します。アーメン。
隣の人に向かって「主をほめたたえよ」と言ってください。

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