神のことばの権威と力

デレク・プリンス
Published: 1970
Last Updated: tháng 10 năm 2026
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デレク・プリンス著『神の言葉の権威と力』の力に浸りましょう。この説教は、聖書が私たちの人生に及ぼす深遠な影響を強調するだけでなく、神ご自身の言葉を発見する個人的な旅へとあなたを導きます。「礎を築く」シリーズの第2部では、主と共に日々歩む中で、神の言葉があなたを清め、強め、贖う解放の力を体験してください。
Transcript
今日はまず、詩篇 19 章 12 節から 14 節までを宣言しましょう。この聖句はダビデの祈りであり、妻と私が何年も祈っている祈りでもあります。それは、「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」ということばで始まっています。振り返ってみると、私の中に隠れた多くの罪があり、この祈りを始めて以来、神がそれらを示してくださいました。まず私が祈りますので、そのあと、最後の節をみなさんで一緒に声を出して祈りましょう。
「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」
では、最後の節を祈ります。あなたも声に出して一緒に祈ってください。これは私たちの祈りです。神はあなたの言葉を受け取られるので、あなたが関係ないと思われるのであれば、祈らなくても構いません。少しずつ区切って言いますので、後について言ってください。いいですか。
「私の口のことばと / 私の心の思いとが / 御前に、受け入れられますように。/ わが岩、わが 贖い主、主よ。」
では、もう一度、あなたも私と一緒に祈ってください。今度は区切らずに祈りましょう。
「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」
アーメン。
さて、今夜のセッションのテーマ「神の言葉の権威と力」に移りましょう。
前回の学びで、「神のことば」と言われるものは 2 通りあると話しました。それは、「聖書」と「イエス・キリスト」で、どちらも神のことばと呼ばれます。このことは、イエスと聖書には完全な一致があるということを明らかにしています。聖書は、書き記された神のことばであり、イエスは神の個人的なことばです。イエスと本当に正しい関係を持ちたいと願うなら、私たちは聖書と正しい関係になければなりません。聖書と間違ったつながり方をしているのに、イエスと正しい関係を持つことは不可能です。ですから、今日は神のことばの権威と力という、この非常に重要なテーマを取り扱いたいと思います。
まず権威についてから始めましょう。権威ということばは、英語では authorityで、author/著者という言葉から来ています。つまり、あらゆる働きの権威は作者にあるということです。作り出したものすべてに権威を授けるのは作者です。ですから、私たちは聖書の著者、みことばの著者が誰であるのかを知る必要があります。聖書はテモテへの手紙第二 3 章 16、17 節で、この疑問に明確に答えています。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
ですから、あなたがすべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となりたいなら、そのすべての源は聖書です。パウロは、聖書はすべて神の霊感によるものだと言っています。ギリシャ語では、「神の息」です。「息」と「霊」は同じ意味をもつ語です。つまり聖書はすべて、神の霊によって息を吹き込まれているということです。言い換えれば、聖書すべての背後にある権威は聖霊の権威なのです。聖霊が著者なのです。聖霊には様々な方法、様々な媒体を用いていますが、そのすべての背後にあるのは、神ご自身である聖霊の権威なのです。
ですから、私たちが聖書と向き合うとき、神ご自身の権威と向き合っているのです。
聖書はすべて神の霊感による、と言われています。部分的にではありません。ある人々は、権威があるとは認めたくない人物が書いた部分を排除しようとします。しかし、聖霊ご自身が、聖書はすべて神の霊感によるもので、すべて有益だと言っているので、それは聖書的な考え方ではありません。つまり、省いたり、重要でないと言ったりすることができる書物は一つもないのです。エズラ書やネヘミヤ書のような書物はとても重要です。雅歌もとても重要です。ナホムの預言書はとても重要です。よく知られている聖句だけに注目しないでください。すべてが重要だと考えてください。
そして、あなたが整えられたいと願うなら、聖書全体によって整えられなければなりません。多くの年月を要しますが、前進しています。神のことばを黙想し、学び、適用するにつれて、あなたはますます強められていきます。イエスの土台の上に建て上げていくことは、神のことばを聞いて、行うことだとイエスが言われたことを忘れないでください。聞くだけではなく、聞いて、行うのです。
そして、聖書の解釈に関して権限のある方はただ一人、著者です。私が書いた本の内容でよく理解できないなら、私に聞くのが最善の方法です。私こそ、その意味を知っているからです。明確に表現できていなくて、読者に理解しにくい部分もあるかもしれませんが、私はその意味を知っています。そして、聖書のどのような箇所でも、その意味を知りたいなら著者に聞いてください。その方だけが聖書の解釈に権限が与えられているからです。
ペテロは、ペテロの手紙第二 1 章 20-21 節でこう言っています。
「まず第一に知っておくべきことは、聖書の預言はどのような私的解釈にも属さないということです…」
誰も、「これはこういう意味だと知っている」と言うことはできません。解釈する権限があるのは聖霊だけです。また、ペテロは続けてこう言っています。
「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、 神からのことばを語ったのだからです。」
ペテロも、パウロが言った、聖書の背景にある権威、霊感の源は聖霊であると述べています。
あなたがこのように言うのも当然かもしれません。「でも、聖書を記した人たちは、とても弱く、失敗した人が多いですね。それに、聖書は彼らのたくさんの罪の記録もありますし...」私は、聖書を書いた人たちの罪の記録こそ、聖書が正しい証拠だと考えます。今日、多くの人が自分の罪を隠そうと し、自分を正しい人だと見せようとします。聖書の著者はそうではありません。詩篇のほとんどの著者であるダビデですら、その重大な罪が記録されています。
では、失敗した人々が書いたのなら、どうして聖書は絶対に誤りのないものでありえるのでしょうか。 詩篇 12 篇 6 節にその疑問の美しい答えがあります。ただ、簡潔な一節、詩篇12:6です。
「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」
これは、金属を精錬する工程を表しています。粘土のかまどを作り、その中に火を起こし、精錬するために金属をその中に入れるという3つの工程があります。粘土の窯は、単なる粘土、人間という道具です。そして火は、銀を精錬する聖霊で、メッセージのことです。ですから、それは失敗しやすい人が霊感を受け、権限を受け、神のことばを生み出すものと変えられることができるのです。もう一度言います。粘土は人間という器です。火は聖霊です。7回も精錬された銀は完全に純粋で、それは神のメッセージです。
そして、聖書で「7」という数字は、聖霊と完全の意味です。聖霊による完全です。
ですから聖書は、弱く失敗しやすい、罪深い人々という土の器を通ってきていますが、聖霊の炎で7 回も精錬されました。完全に信頼できるものです。
ここで、イエスの弟子である私たちにとってイエスは模範なので、イエスご自身の聖書に対する姿勢を考察する必要があります。イエスは、どのように聖書と関わっていたでしょうか。ヨハネ10章35節を見てみましょう。イエスが、ユダヤ教の指導者たちと議論している場面です。
イエスは言いました。そして、それはユダヤの指導者たちとの議論の文脈の中でのことです。私たちはその詳細に立ち入る必要はありませんが…。
「もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、」
前の学びで、イエスはご自分に従う人たちにみことばを語る時、「神のことば」と「聖書」という2つの呼び方を用いていると学びました。「神のことば」と言う時は、人からのものではなく、「神から与えられたことば」という意味で用いています。そして聖書と言う時は、それが「書き記されたもの」という意味で使っています。神は書き記されていない多くのことを語られましたが、聖書に書き記されていることは、私たちに特別に有益なものとして記録されたのです。それらは私たちの救いのために知るべきすべてのことが書かれています。
ですから、前回の学びでイエスのみことばに対する態度を一言でまとめました。それは、「聖書は破棄されるものではない」です。このフレーズ以上に、みことばの権威を完全に表現するものはありません。
もう一度、一緒にその言葉を繰り返して宣言しましょう。
「聖書は破棄されるものではない。」
もう一度言ってください。
聖書は壊れることができません。
忘れないでください。神は、あなたが人生のあらゆる領域でみことばの権威を受け入れることを期待しておられるので、あなたが発した言葉に対する責任を問います。
では、イエスがどのようにみことばを用いたかを見ていきましょう。ここで再び、イエスは模範となられました。マタイ4章の荒野でイエスがサタンの試みに会われた場面です。それはマタイ4章ですが、3章の終わりから見る必要があります。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたときの記録です。
「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」
ここは、とても重要です。聖霊がイエスの上に来てとどまられたのです。聖霊は何度も私たちに下ったことがあるでしょうが、常に私たちにとどまってはいません。なぜなら、私たちは聖霊がとどまることができないような言動をするからです。イエスは決して聖霊を悲しませたり、鳩が飛んで行ってしまったりするようなことを言ったことも、したこともありません。
「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
このあと、イエスにとって順調に物事が進んだのではないかと、私たちは考えるかもしれません。イエスは父と御霊、そしてバプテスマのヨハネのお墨付きだったからと。しかし、そうではありませんでした。次に起こったことは、イエスは荒野で40日間断食し、サタンの誘惑に会うというものでした。ですから、神の祝福がいつもあなたの人生を容易にしてくださるものとは考えないでください。事実、ある意味、人生をより困難にさせるかもしれません。なぜなら、神が油注がれた人たちには、サタンがさらに激しく敵対するからです。
また、ルカの福音書には、イエスが御霊に導かれて荒野へ行き、40日の終わりにイエスは御霊の力を帯びて荒野から戻られたと書いてあります。2つの違いに注意してください。一つは、御霊に導かれること、もう一方は、御霊の力によって動かされることです。イエスは、サタンとの対決に勝利するまでは、それを行いませんでした。
このことは、ある程度、私たちひとり一人にも当てはまります。私たちは、聖霊の力に動かされるために、誘惑と敵対するものに打ち勝たなければなりません。
さて、マタイ4章で、試みる者サタンがイエスのところに来たとき、サタンが最初に試みたことは、疑いを起こさせることでした。それはほとんどの場合、サタンの最初の接近方法です。サタンは神のことばを即座に否定するのではなく、疑問を投げかけます。疑うように仕向けるのです。このことは、教会の歴史においても数多くあり、常に成功しているようなので、サタンは決して他の戦法を見いだす必要はなかったのです。しかし、あなたはそれに引っかからないでください。そのためには、マタイ4章3節でサタンがイエスに言った最初のことに注目してください。
「すると、試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。』」
神はたった今、天から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言われました。しかし、サタンは、イエスが神から聞いたことを疑わせようとしています。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく・・・』と書いてある。」
そして、イエスがサタンに答えられた3つの答えはすべて、一つの書物、申命記からのものでした。またこれも興味深いことですが、イエスもサタンも、申命記の権威に疑問は持っていません。ですから、あなたも権威に疑いを抱くということに無駄な時間を費やさないでください。
イエスはそのようにして誘惑を取り扱いました。それは非常に重要なことです。イエスは書かれた神のことばで誘惑に向き合いました。「...と書いてある。」あなたは自分がサタンと議論するほど賢いと思わないでください。サタンはずっとこの方法で騙してきたのです。あなたのことばでサタンと説得しようとせず、みことばを用いてサタンに立ち向かってください。イエスは試みを受けるたびに、「...と書いてある」と繰り返しました。そのことばを言うたびに、サタンは話題を変えました。サタンは、みことばに反論できないことを知っていたのです。ですから、あなたの哲学や神学でサタンに打ち勝とうとしないでください。ただ、書き記された神のことばで応答してください。
おわかりでしょうか。イエスはエバのような間違いを犯しませんでした。創世記3章の人類の歴史の始まりを見てみると、冒頭の数節にこうあります。
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」
蛇、すなわちサタンは、最初にどのようにエバを誘惑しましたか。疑わせることです。あなたが疑うとき、次の段階は不信仰で、その次の段階は不従順です。そのことを忘れないでください。疑いを抱かないでください。
エバはサタンと同じレベルで考えるという間違いを犯したので、「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです」とサタンに答えました。エバは、「園の中央にある木の実、すなわち、いのちの木以外」という制約があることを認めたくなかったのです。そして彼女は、「神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」と言ったのです。サタンの答えに注目してください。
「そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。』」
それがサタンの狙いだったのです。サタンは疑問から始め、否定へとつなげます。過去百年以上の教会の歴史を研究すると、サタンが神学者や説教者、他の誰に対しても、常にみことばに疑問を抱かせ、それを実際に否定させるところまで持っていったことがわかるでしょう。滑りやすい下り坂に足を踏み入れないでください。みことばには権威があります。それは神のことばですから、受け入れてください。みことばに生きてください。みことばでサタンに答えてださい。サタンは書き記された神のことばに反論することはできません。
エペソ6章17節で、パウロは言っています。
「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
ご存知かもしれませんが、ギリシャ語で「ことば」には、2種類の単語があります。一つは「ロゴス」で、もう一つは「レイマ」です。ロゴスは、完全な永遠の神の助言、そしてレイマは、神が語られることばです。そしてエペソ 6:17 で使われている、「御霊の剣を受け取りなさい」とは、すなわちレイマ、神が語られることばを受け取りなさい、ということです。そして、あなたがサタンに立ち向かうとき、神が語っていることばによって立ち向かわなければならないのです。
聖書は、ただ本棚や枕元に置いているだけでは、あなたを守ってくれません。あなたがそれを引用する時にのみ、効果があるのです。あなたの口であなた自身のためにそれを用いなければなりません。そうすると、それは鋭く尖った剣となり、サタンは退きます。サタンはそれに反論できません。
では、イエスが書き記された神のことばの権威について何と言っているかを見てみましょう。私が言ったことを覚えていますか。聖書のことばとは、書き記された神のことばという意味です。マタイ5章 17-18 節でイエスは言っています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。」
私たちが旧約聖書、律法書や預言書と呼んでいるものについてのユダヤ人の言い方です。
「廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」
さて、「一点一画」という単語ですが、現代ヘブル語で「一点」は、ヘブル語のアルファベットの中で最も小さい文字です。(日本語で言うと、まさに点です。)また「一画」とは、文字を書くときに、似た文字を区別するためのほんのわずかの曲線です。(日本語なら、カタカナのシとツの違いのようなものでしょうか。)ですから、一点一画とは、書き記されたみことばの最も小さい部分です。そしてイエスは、それらの一つでも、決してすたれることはないと言っておられます。これはイエスが、書き記された神のことばの絶対的な権威を認めていることを明確に示しています。イエスはこの時、語られる神のことばについて言っているのではありません。なぜなら、一点一画というのは、書かれたものにだけ当てはまるからです。つまりイエスは、書き記された神のことばの完全な権威を100%支持されたのです。
そこから少し進んで、イエスの公生涯の終わりに近いマタイ22章で、当時のリベラル派だったサドカイ人とのやり取りがあります。サドカイ派の人々は聖書の権威をすべて受け入れていたのではありませんでした。実際、彼らは最初の5つの書物、すなわちモーセ五書の権威だけを受け入れていました。そして彼らは、死からの復活があるという教えに疑問を投げかけていました。彼らは抜け目のない質問を持ってイエスのところへ来ましたが、イエスの彼らへの応答は次の通りです。マタイ22章31-32節です。
「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。』」
イエスがどのように聖書を適用したかに注目してください。この言葉は、14世紀も前にモーセによって書かれたもので、実際に主がモーセに直接語られた言葉でした。しかし、イエスは、14世紀前にモーセに語られたものとして彼らに言ったのではありません。これは非常に力強く言われています。「あなたがたは読んだことがないのですか」とイエスは言いました。お分かりですか。聖書は時代遅れになることは決してありません。それは単なる人間の賢さの記録ではなく、神の記録です。たとえ3000年前に書かれたものであっても、今も神があなたに語られていることです。それが、みことばの権威に対するイエスの理解です。
ここで、イエスの生涯がどのようにみことばを成就したかについても考えてみる必要があります。新約聖書を調べてみると、イエスの生涯で「聖書が成就した」出来事が18か所見つかります。つまり、イエスは聖書を信じていただけではなく、また聖書を宣言しただけではなく、聖書に従順であったということです。イエスの人生のすべては、みことばの実践でした。
イエスの生涯の様々な側面を取り上げることができますが、ここでは、4つだけを取り上げましょう。イエスの誕生、人間としての生活、死、そして復活です。それらすべてに関して、聖書は、「聖書が成就されるため」に行われたと書いています。イエスには、そのこと以上に聖書の権威を力強く示す方法はなかったのです。
では、新約聖書を開きましょう。驚くべきことに、新約聖書の背後にある権威は、旧約聖書と同じです。イエスが弟子たちに語っている2つの箇所を見ましょう。ヨハネ14章25-26節でイエスは、ご自分が去っていくことのために弟子たちに心の準備をさせておられます。
「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は...」
助け主、それが聖霊の呼び名です。ある時には、イエスは、聖霊を慰め主とも呼んでいます。
「...父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
つまり、使徒たちの書き記したものの背後にある権威は聖霊の権威です。そしてイエスは、聖霊は2つのことをすると言われました。聖霊は、私が教えなかったことを教える、そして私が語ったことであなたがたが忘れてしまったことを思い出させる、の2つです。そのように、福音書の記録は人間の記憶によるのではなく、聖霊の真理によるのです。
そして、再びヨハネ16章12-14節で、同じことが言われています。イエスは弟子たちにこう語っています。
「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると...」
イエスは、聖霊を「その方」と呼んで、擬人法を使っています。原文のギリシャ語はかなり複雑なので、深入りしませんが、「その方」ではなく、「それ」と呼ぶべきでした。しかしイエスは、「その方」と呼んだのです。言い換えれば、聖霊は単なる「物」ではなく、人、「人格」であることを理解してください。あなたは人格として聖霊と結びつく必要があるのです。
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」
このように、イエスは、あなたがたがまだ受けていない必要なすべての教えは、聖霊によって与えられる、と繰り返されたのです。
それからこう言われました。
「彼は自分自身について話すことはなく、聞いたことを話すでしょう。そして、彼はあなたに来るべきことを知らせるでしょう。」
そして次の節でこう言われました。
「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
聖霊のもう一つの極めて重要なしるし、それは、聖霊は常にイエスの栄光をたたえることです。もしあなたがイエスの栄光をたたえるのではなく、ある人や他の何かに栄光をたたえる霊的な現れを見たなら、それは聖霊でないと確信できます。なぜなら、聖霊の最高の働きは、イエスを啓示し、イエスの栄光をたたえることだからです。これは、霊を見分ける良い方法の一つです。聖書は、私たちは聖霊を見分ける必要があると言っています。そしてあなたは、物事が聖霊からのものであるかどうかを見分けることができるのです。一つの確実な見分け方は、イエスの栄光を現すものかどうかです。もしそうでないなら、それがどんなに良さそうに思えても、非常に霊的なように思えても、大声で語られても、鳴り響く声であっても、それがイエス以外の人物の栄光をたたえているなら、聖霊からのものではありません。そして人間という存在が自分たちで栄光を取り始めるその時、聖霊はこう言います。「残念ながら、私は去っていく。あなたは続けなさい。でも私はもうここにいない。」私が見てきた中でも、実に多くの働きが、そのようにして迷走してきました。イエスにだけささげなければならない栄光を人間が取ってしまったために、廃墟となってしまった無数のミニストリーを私は知っています。私自身もそのことに非常に注意しています。「私はイエスに栄光を帰しているだろうか。それとも、デレク・プリンスが重要な人物だと人々に認めさせようとしていないだろうか」と常に吟味しています。デレク・プリンスは神の恵みによって救われた罪人なのです。
では、とても興味深く重要なテーマである、神のことばの性質に移りましょう。これは非常に興味深いテーマです。へブル4章12節で、神のことばとは、どのような性質であるかを知ることができます。へブル4章12節です。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く...」
このように、神のことばを剣と比較して、
「...たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
ですから、神のことばは死んだものではなく、白い紙の上の単なる黒い印でもなく、説教者の口から出る単なる音でもありません。それは生きていて、いのちをもたらします。神のことばは生きていて、力があります。その力強さを神に感謝します。それは、この世を満たしているサタンのあらゆる嘘よりも力があります。神のことばこそが究極の答えです。
そして、こう言っています。
「...たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し...」
れた霊、たましい、からだという三位一体の存在であることを啓示しています。しかし、私たちがたましいと霊の違いを見分ける唯一の方法は、神のことばによります。神のことばは、たましい的(肉的)なものと霊的なものの分かれ目を刺し通し、分離することができる鋭さを持つ唯一の道具です。これは非常に重要なことです。なぜなら、新約聖書を学ぶと、たましい的なものと霊的なものは多くの点で対立するものであることがわかるからです。パウロは、コリント人への手紙第一2章で、生まれながら(たましい的)の人は、神の御霊を受け入れず、それを悟ることができないと言っています。ですから、霊的なものとたましい的なものを見分けることを学ぶことが重要です。しかし、それができるのは、神のことばだけです。
また神のことばは、関節と骨髄の間も刺し通します。ですから、みことばは外科医のメスでも刺し通せない、また精神科医の分析でも探り出せない部分も刺し通すことができるのです。それは人間の人格の最も奥深くにまで入り込むことができる唯一のものです。
そして、こうあります。
「心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
判別するとは、分析するという意味で、何かの本質を見抜くことです。何年も前、私がまだ救われて間もない頃、ある人が言った言葉が今も心に残っています。「忘れてはいけない。あなたが聖書を読むとき、あなたも聖書に読まれているのだ。」それは双方向の働きです。私は単に聖書を神の働きを取り扱っているものと捉えて、専門的哲学者として読み始めたので、その人の言葉は衝撃的でした。しかし、私は読み進めていくうちに、非常に退屈で、意地になって読み続けていることに気づき、自分自身の中で違和感を覚え始めるようになりました。私はその時まで、自分はすべての答えを持っていると考えていました。哲学はすべてのことに対する解決策を提供してくれると考えていました。しかし、聖書を読み進めていくうちに、私はどんどん自信を失っていきました。自分に何が起こっているのか全く理解できませんでした。当時私は25歳にもなっていませんでしたが、老化現象が起こっているのだと思いました。私が聖書を読んでいるときに、聖書が私の思いを探っていたことに気づいていませんでした。そして最終的に、まるで自分がダニエル書5章にある、大宴会の最中に人間の手の指で壁に「あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかった」と書かれて恐れたベルシャツァル王のように恐れを感じました。私のうぬぼれ、傲慢、横柄さ、知的な自信、それらすべてが聖書の前にしぼんでいきました。それでもまだ、その時はそれを信じることができなかったのですが、聖書は私に働き続けました。ですから忘れないでください。あなたが聖書を読むとき、聖書もまたあなたを読んでいるのです。
では、聖書がどのような働きをするかというもう一つの要素を見るために、テサロニケ人への手紙第一を少し開いてみましょう。2章13節です。パウロは、福音のメッセージに素晴らしい応答をしたテサロニケの信者に宛ててこう書いています。
「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」
このように、聖書があなたの内にどのように働かれるかは、どのように聖書を受け取るかということにかかっています。もし、あなたがそれを単なる人の言葉として受け取るだけなら、あなたの内に十分に働くことはできません。しかし、神のことばとして聖書を受け取るなら、あなたの内に効果的に働くのです。
そして、あなたは聖書を読むとき、主にこう言ってください。「私はこれがあなたのことばであると信じます。あなたのことばとして受け取ります。私の霊、たましい、からだのすべての領域で働くようにと遣わしてくださったすべてのことが私のうちで行われますように。」
次に、ペテロの手紙第二1章でペテロが言った、聖書の中でも最も注目に値する宣言の一つを見てみましょう。第二ペテロ1章 3、4節です。
「...主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。」
これは素晴らしい宣言です。神の全能の力が、私たちに必要なすべてのことをすでに与えてくださっているのです。あなたはこう思うかもしれません。「でも、私にはそれがあると思えません。どこにあるのでしょうか。」次の節でこう教えています。
「それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
では、神はどのようにして、人生に、また信仰に必要なすべてのものを与えてくださっているのでしょうか。私は自分が作った「備えは約束の中にある」という短いフレーズが気に入っています。一緒に言いましょう。「備えは約束の中にある。」神があなたのために備えてくださっているものを受け取りたいと願うなら、あなたは神の約束を通して受け取らなければなりません。なぜなら、あなたが必要とするすべてのものは、神の約束の中にあるからです。
しかしまた、備えはイエスの知識を通してやって来ます。それは、みことばがイエスを啓示しているからです。このように、この素晴らしい宣言が聖書の中に明確に書かれていなかったら、私はあえて言わなかったでしょう。しかし、その約束を受けることを通して、私たちは神のご性質にあずかる者となり、世にある欲のもたらす滅びを免れることができるのです。
さて、私たちは十分注意しなければなりません。一時期とても流行したニューエイジと呼ばれる教えがありました。その教えとは、私たちが十分に長く継続して正しいことを行えば神のようになれるというものでした。間違ってはなりません。神の国は、この地に建て上げられます。イエスはご自身の王国を確立されます。そのことをニューエイジは嫌います。
とにかく、ヒンズー教哲学などを多く取り入れたニューエイジは、長期間続けていれば神に慣れると教えています。偶然にもモルモンも同様の教えです。最初は公には言いませんが、長く続けていると、あなたは神になれると教えています。それが明らかな間違いである根本的な理由をお教えしましょう。神は被造物ではなく創造主で、私たちは被造物です。そして被造物は決して創造主にはなれないのです。ですから、それは欺きです。しかし、私たちは神の約束を受け取り、適用することによって、神のご性質にあずかる者となることができるのです。
私はいつもヤコブのはしごのことを思い浮かべます。ヤコブが見た夢のことを知っておられるでしょう。ヤコブは一人で荒野に出て、石を枕にして寝ました。みなさんの中で石を枕に使いたいと思う人がいるでしょうか。私はスーダン北部のハデンダワ族の村に住んでいたとき、彼らが石を枕にしているのを見ました。ある日、一人のスーダン人を観察していると、彼はかなり鋭く長い石を取り、地面に置いてその石の上に頭を乗せ、気持ちよさそうに眠りつきました。ですから、不可能ではありませんが、ほとんどの人はそれを心地よいとは思えないでしょう。しかし、ヤコブは石に頭を乗せて寝ていました。ある人がこう言ったことがあります。「ヤコブのその後に起こったことが私にも起こるなら、私も石の上に頭を乗せて寝たい!ヤコブは天に届くはしごの夢を見たのだから。」はしごの下は地上に、はしごの先は天にあり、神の御使いたちが上り下りしていました。イエスご自身がはしごのてっぺんで語られました。
しかし私は、聖書はある意味ヤコブのはしごだと思います。一つ一つの約束は、そのはしごの一段一段です。あなたは新しい約束を適用するたびに、一段上ります。そして最終的には、あなたを天国へと導いてくれます。ですから、決して聖書を軽視しないでください。聖書はあなたの健康の鍵であり、成功の鍵です。聖書は、神が私たちに与えてくださっている最も貴いプレゼントです。今日、多くの聖書があり、どの翻訳を使おうか、また挿絵や注釈があるほうがいいなどと議論して、現在、世界には聖書を一度も開いたことがない人が数多くいることを忘れないでください。彼らには選択の余地がありません。そして、もう一つ覚えておいてください。過去何世紀にも渡って、私たちのためにいのちを賭けて聖書を守ってきた多くの人々がいたことを。ですから、聖書を尊びましょう。神が私たちの人生にやって来るための道である聖書に敬意を払いましょう。
では、少しワクワクする話で締めくくりたいと思います。それは、神のことばの効果についてです。パウロはテサロニケの人々に、この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです、と言いました。ですから、神のことばがあなたの人生にもたらす 8 つの働きについて紹介したいと思います。神のことばが、私たちのためにしてくれることです。
一つ目、ローマ 10 章 17 節です。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
北アフリカの砂漠で、現地の気候状況では治せないと医者が言った皮膚病にかかり、1年間入院していた私にとって、それはとても素晴らしいみことばでした。医師たちは最終的に慢性のアトピー性皮膚炎だと言いました。そして現在でもその病気には良い治療方法がありません。私はクリスチャンになったばかりで、自分自身にこう言い聞かせ続けていました。「私に信仰があるなら、神はいやしてくださる。」しかし、その次にいつも言っていたことは、「でも、私には信仰がない」でした。ジョン・バニヤンが呼んでいた、落胆の泥沼、絶望の淵に私はいたのです。私には信仰がありませんでした。
ある日、まばゆい光がその暗闇の淵の中に差し込みました。それはローマ 10:17 から来たのです。
そして、信仰がやって来ました。
あなたに信仰がないなら、それを得ることができます。信仰なしのままでいてはいけません。信仰は神のことばを聞くことによってやって来るのです。
そして、今この時も、神のことばを聞いているみなさんの多くに信仰が訪れています。新約聖書の時代、多くの人は聖書を大声で読んでいました。自分一人であっても、大声で読んでいたのです。例えば、馬車に乗っていたエチオピアの宦官が自分のためにイザヤ書を読んでいるのがピリポに聞こえてきました。大声を出して読むということに意味があるのです。あなた自身が声を出して読んでいるのを自分の耳で聞くことによって信仰がやって来るからです。
これがまず一つ、聖書が成してくださることです。
二つ目、新しいいのちを生み出します。神のことばによって私たちは新しく生まれ変わります。ヤコブの手紙 1 章 18 節で、こう言っています。
「父はみこころのままに、真理のことば(すなわち聖書)をもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」
「みこころのままに」です。神はなぜそうしたのでしょうか。そう決められたからです。それ以上の説明はありません。すべてのものの始まりを振り返ると、すべては神の決断によって始まっています。 神は、ご自身のために一つの民を生み出すことを決め、それが神のことば、聖書によって生み出されるように決められたのです。そして、それによって私たちが神を知り、新しく創造された神の民となるのです。それは神のことばによるものでした。
そして、ペテロは同じテーマで語っています。第一ペテロ 1 章 22-23 節です。
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」
たましいをどのようにきよめるのでしょうか。真理に従うことによってです。真理を聞くことによるのではなく、従うことによってです。その結果、何が起こるでしょうか。偽りのない愛です。
そして、こう続けています。
「...新しく生まれた...」
「新しく生まれた」に注目して下さい。
「...朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり...」
朽ちない種とは何ですか。
「生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」
新しいいのちを生み出す神のことばの種を、信仰によって心に受け取るのです。朽ちない種が生み出すものは、朽ちないいのちです。種の性質は、そこから生まれるいのちの性質を決定づけます。リンゴの種を植えて、みかんの実がなることはありません。種の性質がいのちの性質を決定づけます。神のことばは朽ちることがないので、生み出されるいのちも朽ちることがありません。それが神のご性質であり、聖く永遠のものです。
そして、新しく生まれたなら、栄養が必要になります。素晴らしいことに、神のことばは霊的成長のあらゆる段階にふさわしい栄養を提供してくれます。あなたが霊的にまだ赤ちゃんであるなら、ミルクが必要であり、そのことをペテロは第一ペテロ 2 章 2 節で言っています。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
ですから、あなたが新しく生まれ変わったのなら、神のことばに対する健康的な食欲を持つべきです。その証拠に、このメッセージを聞いている多くの人々が、生まれ変わった時に願ったことの一つは、聖書を読むことだったはずです。私たちは自分の実際の栄養となる健全な食欲を持った健康的な赤ちゃんとして生まれました。
しかし、私たちは成長するにつれて、パンのようなものが必要になります。イエスが荒野でサタンに、 石がパンになるように命じなさいと誘惑された時、イエスはこう答えました。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」
このように、神のことばはミルクだけではなく、パンでもあります。
しかし、私たちは成長するにつれて、より固い食物が必要で、これもまた与えられています。へブル書の著者は、背景的に聖書の知識をもったユダヤ人たちに宛てて書かれています。神が彼らに言っていることは、私たちにも当てはまる人がいるでしょう。「あなたたちの知識からすると、もっと良い行いをしているべきだ。 つまり、こう言っておられるのです。「あなたは聖書の知識がありながら、それを用いていない。」へブル 5 章 12節を読みましょう。
「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」
何が問題なのでしょう。彼らは非常に単純で基礎的な真理以上のことを消化できなかったのです。
「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとな(成熟した人)の物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」
お分かりですか。成熟のためにはあなたの感覚を訓練しなければなりません。実践しなければなりません。神のことばを適用して、あなたが取り扱っている問題、あなたが置かれている状況を認識するために用いなければなりません。それが成熟への道です。もし、今までに真剣に神のことばを適用したことがなく、神のことばによって生きていないなら、決して成熟した者になることはできないし、ミルクやわずかなパン以上のものを摂ることはできません。堅い食物は、日常生活の中で常にみことばを実践し、用い、忠実に適用してきた人たちだけのものです。
それが、神のことばの3つ目の働きです。霊的栄養です。
4 つ目の働きは、精神的な光です。詩篇 119:130 を開きましょう。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
神のことばの戸が開き、私たちの思いと心の中に入って光を与えます。それは教育とは異なります。教育は光ではありません。高い教育を受けても完全な暗闇の中にいることもあり得ます。なぜそんなことが言えると思いますか。私がそうだったからです。高度な教育を受けたにも関わらず、神のことばの光が私の人生に差しこむまでは真っ暗闇の中にいました。ですから忘れないでください。教育は光ではありません。
以前、私は東アフリカで、教育を受けたいと願う人たちに関わっていました。私はそのような人たちのために、「あなたは教育を求めているけれど、知恵は見いだしましたか」という小さなトラクトを書きました。その中で、知恵と教育は別物だと指摘しました。このトラクトに、世界の問題のほとんどは愚かな教育によるものだと書いたことは、一部の人々にとっては衝撃的でした。アメリカのルーズベルト前大統領はかつてこう言いました。「泥棒は列車の一両を盗むが、その泥棒を教育すると、列車まるごと 盗むだろう。」ですから、教育は役立ちますが、光ではないことを忘れないでください。実際、最も教養のある人々中には、心が深い暗闇にいる人たちがいます。みことばの戸だけが光を与えるのです。
そして 5 つ目、神のことばは肉体の癒やしをもたらします。これは私自身の経験から言えることです。 詩篇 107 篇 17-20 節を読んでみましょう。まず 17 節です。
「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。」
間違った道を歩んできたために悩んでいる人はいませんか。実に多くの人が癒やしを求めて私のところにやって来ます。ほとんどの人がその問題の原因が自分の間違った生き方にあるとは考えていません。しかし、このみことばは、その人の咎が苦悩の原因だと言っています。
「彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」
みことばを送るときに、主は 3 つのことをされます。救い、癒やし、解放です。神のあわれみによる、 罪からの救い、病の癒やし、悪の力からの解放という 3 つの大いなるみわざは、おもにみことばを通してそれらを成し遂げられます。
みなさんの中にも、手を置いて祈ってもらって癒やしてくれる説教者を探している人がいるでしょう。それは起こるかもしれません。しかし、多くの人が、私に祈ってもらえば癒やされると考えてやって来ます。しかし、彼らは癒やされません。実は、私はしばらく考え込んでしまいます。彼らが主ではなく、デレク・プリンスに期待していると知っているからです。言わせてください。たとえ説教者がいなくても、神が送ったみことばを受け入れるなら、あなたは癒やされ、苦しみから解放されるのです。
これは薬では治らなかった私を退院させてくれた、私の大好きなみことば、箴言 4 章 20-22 節です。
「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。」
神のことばは、全身を健やかにする、と言っています。
私は入院して 7 か月ほど経っていましたが、医者は私を癒やすことはできませんでした。私はこう思いました。「もし、私に信仰さえあれば、神は私を癒やしてくれる。」そして、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」というみことばに出会いました。私に希望が生まれ始め、新たな希望を抱いて聖書を再び読み始めました。しかし、私には問題がありました。私は哲学の専門家でしたが、哲学の仕事とは、単純なものを複雑にすることです。ですから、私は神のことばを単純に受けることができませんでした。神の癒やしの約束を次から次へと読んでも、それは私のたましいを癒やすという意味に過ぎないと考えていました。神は私のからだには関心がなく、それは腐敗したもので、どうせ死ぬのだ、と。「わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし」とあるのは、たましいの病だけと考えていました。しかし、私が箴言 4:20-22 に出会ったとき、そうではないことを知りました。みことばは見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにすると、神は言っています。たとえ哲学者であっても、肉体の意味を他の意味にすることはできません。私の全身を癒やしてくださるのです。そして、私が聖書の脚注に目をやると、健やかとは「薬」とも読めるとありました。私は軍の医務官だったので、薬の服用方法のことを思いました。人はどのように薬を服用するでしょうか。それは、一日 3 回、毎食後です。私はそれを実行しようと思いました。内容を深く学ぶより、とにかく 3、4 か月間、私の薬として神のことばを毎食後読みました。そして、世界の中でも最も不健康な天候の場所の一つであるスーダンにおいて、完全で永遠の癒やしと健康が私にもたらされました。
ですから、みなさん、それは起こるのです。
では、神のことばの働きの残りの3つをざっと見ていきましょう。6 つ目は、罪とサタンに打ち勝つ、です。詩篇119篇9節と11節です。
「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」
そして、11 節。
「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」
今日、若者たちの多くは、聖い道を歩むことなど可能かと疑問に思っています。ほとんどの教育者たちは、不可能だと言うでしょう。教育者たちは安全なセックスと呼ばれるものを勧めますが、それは決して安全なものではありません。しかし聖書は、神のことばによって自分の道に注意を払う若者は、聖く保てると言っています。
神に感謝すべきは、私がアフリカの若者たちと働いていたとき、そのことばが幾度も成就してきたのを見てきたことです。彼らは神のことばに従って、純粋にされ、きよい生活を送っていました、
そして、マタイ4章でイエスがサタンに誘惑された時、イエスは一つの武器だけで立ち向かいました。 「...と書かれている」です。
次に、エペソ5章25-27節です。
「夫たちよ。...自分の妻を愛しなさい。」
夫たちに言います。この言葉は提案ではなく、命令です。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
イエスは、どのように聖く傷のない花嫁をご自身のために備えられるのでしょうか。みことばによる水の洗いをもってです。神のことばは私たちをきよめ、聖なるものとしてくださいます。これがみことばの働きの7 つ目です。
ヨハネはイエスについて言いました、これは水と血によって来られた方です。水だけでなく血によってです。彼の犠牲の血によって私たちは贖われますが、彼の言葉の水によって私たちは清められ、聖別されます。私たちは両方が必要です。私たちは血によって贖われ、言葉によって清められるのです。
ヨハネはイエスについて、水と血によって来られた方だと言いました。水だけではなく、血によっても来られました。犠牲の血によって私たちを贖い、みことばの水によって私たちをきよめ、聖なるものとしてくださいます。どちらも必要です。私たちは血によって贖われ、みことばによってきよめられます。そして最後、8つ目です。ヤコブの手紙 1 章 23-25 節で、聖書は霊的な鏡だと言っています。その鏡をのぞき込むと、外見ではなく、あなたの内側にあるものを映し出します。ヤコブは、あなたが鏡を見るとき、何かおかしなところがあれば、それを直すのが賢明だと言っています。髪型が乱れていたら、髪をとかします。顔が汚れていたら洗います。あなたは鏡で見たものに対して行動を起こします。ヤコブは、あなたが神のことばという鏡を見て、気づいたことを行う必要があると言っているのです。その鏡の中に霊的な自分を見て、示されたことを行う必要があります。
復習して締めくくりましょう。神のことばの 8つの働きです。

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