バプテスマの教理(水に浸る)

デレク・プリンス
Published: 1970
Last Updated: tháng 10 năm 2026
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デレク・プリンス著「基礎を築く」シリーズの第5回「水への浸礼」を通して、洗礼の神聖な清めの力を受け入れましょう。主イエス・キリストの御名と神の霊によって洗われ、聖化され、義とされる喜びを味わいましょう。ヘブル人への手紙6章1-2節に記されている、霊的成熟を達成するための根本的な礎石である洗礼の教理を理解しましょう。
Transcript
今日も宣言から始めましょう。今日の宣言は、「あなたがたの中のある人たちは」という言葉で始まる、 Iコリント6:11 からです。「あなたがたの中のある人たち」とは、その前の節で挙げられている恐ろしい罪に関わった人々です。神に感謝すべきことは、聖書に、「しかし」という解決策があることです。
「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
これを、私たちの個人的な証しとするために、「しかし」から宣言しましょう。暗唱するのが難しい聖句ではありません。「あなたがた」という部分を「私たち」に代えて宣言しましょう。
「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、私たちは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」 アーメン!
では、私たちと共有する特権を与えましょう。それは覚えやすいもので、「しかし私たち」で始まります。
「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、私たちは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
アーメン!
では、へブル 6:1-2 にある6つの教理の学びを続けましょう。最初の2つは、「死んだ行いからの回心(悔い改めから信仰へ)」と「神に対する信仰(信仰と行い)」でした。3 つ目は、きよめの洗い、すなわち、バプテスマの教理です。私たちが実際に神のことばに基づいていることを確認するために、へブル 6:1-2 を読みます。
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」
では、3 つ目のテーマ、バプテスマの教理です。教理と教えとも言えます。バプテスマという語は複数形です。バプテスマは一つだけではありません。実際、新約聖書は3種類のバプテスマについて言及しており、あとでそれらを一つずつ学びます。
最初に、その3種類のバプテスマについて簡単に説明します。一つ目は、ヨハネのバプテスマ、すなわち、バプテスマのヨハネのバプテスマです。二つ目は、キリスト教のバプテスマですが、一つ目のものと同じではありません。三つ目は、聖霊のバプテスマです。これら3つは異なるバプテスマで、どれも新約聖書の中で重要な役割をしています。
「バプテスマを受ける」という言葉の意味について説明します。これは英語ではなく、ギリシャ語の「バプティゾ」から直接取った、いわゆる音訳の語です。その意味は「浸る」です。「浸る」には2つの方法があり、どちらも新約聖書に関連しています。何かを水の中に完全に浸すことと、上から水を注いで浸すことです。しかし、どちらの方法であっても、部分的ではなく全体的に浸すことです。
バプテスマの本質は変化です。新約聖書で語られているあらゆる種類のバプテスマは、変化を表しています。あなたは、あるものから別のものへ移っていきます。部分的にではなく、あなたのすべてが移るのです。ですから、バプテスマは完全に浸すことであると強調すべきであると思います。このバプテスマのプロセスによって影響を受けるのは、あなたの一部分だけではなく、あなたのすべてなのです。
さて、この単語は2、3種類の前置詞(日本語での格助詞)が伴いますので、その説明をしましょう。「~に」、「~の中へ」、「~へ」の格助詞が付きます。「~に」というのは、あなたが浸る「もの」、すなわち、水や聖霊を指します。「~の中へ」は浸されることにより生まれるものや結果を表します。バプテスマによる変化の結果、あなたは何に入っていくのでしょうか。たとえば、バプテスマのヨハネのバプテスマは、水によって、悔い改め、あるいは罪の赦しの中へと入っていきます。「~に」と「~の中へ」 あります。あとで話しますが、聖霊のバプテスマは、聖霊によって、イエス・キリストのからだの中へ入っていきます。バプテスマについて2つのことを考えてみる必要があります。「何に」よるのか、そして、「何の中へ」なのかです。
では、ヨハネのバプテスマを見てみましょう。彼はバプテスマを授けていたので、そのように呼ばれていました。マルコ1:2-5です。
「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
それは、バプテスマのヨハネの特定のミニストリーでした。メシアの前を行き、メシアの道を整える働きです。彼のメッセージは基本的にとてもシンプルで、「悔い改めなさい」でした。次の節にあります。
「そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」
その言葉は「罪の赦しの中へ」です。人々は、罪の赦しにつながる悔い改めのバプテスマを受けました。罪の赦しの中へ入るための水によるバプテスマです。
その目的は、イスラエルが長く待ち望んでいたメシア、ナザレのイエスが来られるための道を整えるためです。神の民の心が悔い改めによって整えられるまでは、イエスは来ることができず、また神がイエスを来させることはなかった、ということは非常に重要なことだと思います。イエスの再臨についても同じことが言えるのではないかと考えます。神の民の心が悔い改めにより整えられなければなりません。ある意味、悔い改めこそが、今日の私たちが必要としている最も重要なメッセージだと思います。これはあくまでも私の意見に過ぎませんが。
ヨハネのミニストリーはまた、神が取り扱われる2つの摂理、別の言い方をすると、律法と預言者の時代と、イエスと共に来る恵みと福音の時代をつなぐ非常に重要なものでした。ですから、ヨハネは神の目的の全体像を明らかにするために重要な人物なのです。私たちはヨハネについてよく知りませんし、私自身も彼のミニストリーの重要性を過小評価してきたと思います。ヨハネのミニストリーは短期間でしたが、非常に重要でした。イエスのために道を整えたのです。彼が人々に与えた影響は本当に大きなものでした。5節を見てみましょう。
「そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」
ヨハネは非常に短期間にエルサレムの全住民、ユダヤなど数多くの人々に確かに届いていきました。
私はいつも、神がなされる方法を思い巡らします。神は委員会を作ったり、スタジアムを借りたり、聖歌隊を作って、「さあ、集会をしよう」とは言いません。神は私たちが思いつきもしない方法を用います。らくだの毛の衣を着た一人の男が荒野に出て行きました。そして大勢の人々が彼のところへ行きました。それが神の方法です。そして、人々を引き寄せるものは、組織ではなく、広告でも知名度でもなく、神の超自然的な働きです。今日、私たちにはそれと同じことが必要です。神の炎が燃えているところに、人々は行くのです。それがどんな場所であろうと、説教者の人格がどうであろうと、学歴があろうと、無学であろうと、関係ありません。私たちが知る限り、バプテスマのヨハネは神学校の教育を受けていませんでしたが、神によって燃やされた人でした。イエスはのちに、彼の時代の人々にこう言っています。「彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」 しかし残念なことに、イエスが語った人々は、その炎を捉えることはありませんでした。彼らは光のもとへ行き、光の恩恵を受けましたが、決して炎を捉えることはなかったのです。イエスのヨハネへの賞賛はとても力強いものです。彼は燃えて輝く炎でした。輝く炎となるには、燃えなければならないことは科学的にも当然であると思います。熱くならない炎はありません。ですから、それを心に留めましょう。私たちがイエスのために光輝く炎となりたいなら、燃えなければなりません。神が私たちをどこに置かれようとも、燃えて輝く光となるように祈りましょう。
すでに述べたように、ヨハネのバプテスマは罪の赦しの中へ入るためのものでした。彼は律法と預言者と福音をつなぐものとなりました。イエスは、このことをマタイ 11:13 で言っています。
「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。」
ヨハネはその時代の終わりであり、福音の恵みの新しい時代へと移るためのつなぎ役でした。しかし、それが彼を重要な人とさせたのです。ある意味、神の民の歴史を二分しました。彼は一つの時代を終わらせ、もう一つの時代を始めたのです。私自身、バプテスマのヨハネの重要性を十分理解していませんでした。なぜなら、聖書は彼について多く語っていないからです。しかし、非常に重要なことなのです。
さて、ヨハネは、バプテスマを受けるために来た人々に3つのことを要求しました。第一に、悔い改めのバプテスマです。私たちはすでに悔い改めについて学びました。それは、感情ではなく、決断です。 何かに終止符を打ち、向きを変えて反対方向に進んで行くことです。ヨハネはバプテスマを受ける人に条件を満たすことを求めました。まず決心、次に行動です。
第二に、ヨハネは公の場での罪の告白を求めました。このことは、今日の教会において多くの人の考えから欠落しているように思えます。しかし、神の民が聖霊による十分な確信をもって自分の罪を告白する時、非常に力があることを見てきました。このことは、過去の様々なリバイバルの火付け役となってきました。特に 1904 年イギリスのウェールズでのリバイバルでは、人々が自分の罪を告白するというのが顕著に見られました。
必ずしも、人前で自分の罪を告白する必要はありませんが、罪は告白しなければなりません。なぜなら、神が赦すと約束しておられる罪は、私たちが告白する罪だけだからです。使徒ヨハネは最初の手紙でこう書いています。第一ヨハネ 1:9 です。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
この文は、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら」で始まっています。私たちが告白しないなら、 神が赦してくださるという保証はありません。
私は、告白していない罪をたくさん抱えた数多くの信者を長年にわたって取り扱ってきました。彼らは癒やしや祝福を求めているのに、なぜ癒やされないのかと不思議に思って私のところにやって来ます。彼らは巨大な重荷を背負っています。ダビデは言いました。「私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。」今、あなたが大きな重荷を背負っているなら、それはあなたに告白していない罪が積み重なっているからです。神と2人きりになって、聖霊に心を開いて言ってください。「神さま、告白する必要のある罪を私に示してください。」もう一度言います。罪を告白しないなら、神があなたを赦してくださる保証はないということを忘れないでください。しかし、私たちが告白するなら、神は赦してくださいます。
第三に、バプテスマのヨハネが求めたものは、変えられた生き方の証拠でした。彼は人々に、悔い改めたというしるしを求めました。明らかに悔い改めていない人が彼のところへ来たときは、バプテスマを授けることを拒否しました。特に、当時の宗教的な人々、つまりパリサイ人やサドカイ人でした。イエスはパリサイ人を指して言いました。「あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」その前の節では、「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」と言っています。それは、かなり特有のものなので、厳格な宗教家たちにとっては、神のその新しい方法を受け入れることがとても難しいのです。彼らは、教会に新しい動きがあると、上屋を付け加えるのです。そして、「これでいいだろう」と言います。次に神の風が吹くとき、神はまず、その屋根を吹き飛ばします。そして彼らは、神が次になさろうとしていることに腹を立て、なかなか動こうとはしないのです。
それは、まるでパリサイ人のようです。ヨハネは、わかりやすく語る人でした。私は以前、聖霊に満たされている人々の特徴について調べたことがあります。詳しく説明しませんが、一人目はバプテスマのヨハネです。彼は母の胎にいるときから聖霊に満たされていました。そしてイエスとペテロ、パウロとステパノです。驚くべきことに、彼らのほとんどが殉教しています。もう一つ私が発見したことは、彼らはみな、わかりやすく語る人たちで、宗教的な立派な言葉は用いなかったことです。聖霊は、遠回しな言い方や、曖昧なことを支持しません。聖霊はわかりやすく、はっきりしたメッセージを求めます。ヨハネの言っていることに耳を傾けてください。今日、多くの説教者はヨハネのようにわかりやすく語りません。マタイ 3:7-9 を読みましょう
「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」
驚くべき宣言です。あなたは自分の家柄や家系、背景などに頼らず、個人的に神の条件を満たさなければなりません。これがバプテスマのヨハネの3つの要求です。悔い改める、罪を公に告白する、変えられた人生のしるしです。
ここで、バプテスマという語が使われているすべての箇所に適用できるので、指摘しておきたいことがあります。彼は人々に悔い改めのバプテスマを授けたとあります。しかし、人々がすでに悔い改めていなければ、ヨハネはバプテスマを授けなかったということです。つまり、バプテスマは悔い改めを生むものではなく、悔い改めたという証拠でした。あなたは、「~の中に浸される」という言葉が用いられているすべての箇所でこれが真実であることを見つけるでしょう。バプテスマは人々を引き寄せたことを示すためにではなく、彼らがその中に入ったというしるしとして用いられました。これについてはまたあとでお話しします。
さて、ヨハネのバプテスマには限界があります。それは、人々をある地点までしか導かないのです。 第一に、それは新しいいのちをもたらしません。マタイ 11:11 で、イエスはヨハネのバプテスマについて言っています。
「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」
ヨハネは女から生まれましたが、新しく生まれることはありませんでした。イエスが来られるまでは新しいいのちへと入ることができなかったからです。ですから、彼は女から生まれた人の中では最も偉大でしたが、神の国で最も小さい者でもヨハネよりも偉大なのです。それは、私たちが何であるかによるのではなく、神が私たちをどこに置かれたかによるのです。神は、新生という新しいいのちを通して私たちを神の国の中へ入れてくださいました。イエスが、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われたことを思い出すでしょう。ですから、ヨハネには、神が与えた限界がありました。
第二に、これは重要なことですが、ペンテコステの後、ヨハネのバプテスマはもはや有効とは認められませんでした。このことは、使徒の働き 19 章の最初の数節で明らかにされています。
「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか』と尋ねると...」
ここでは、彼らが何の弟子であったかを知ることはきません。どうやらパウロはよくわからなかったようです。しかし、パウロは行く先々で、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたのではないかと私は想像します。それは、聖霊を受けないで信じることが可能であることを証明しています。私の最初の妻は聖霊を受けることについて熱心でした。誰かに会うたびに、「あなたは聖霊を受けましたか」と聞いていました。今日、私たちは人々にこの質問をすることを躊躇しているのではないでしょうか。「あなたは信じたときに聖霊を受けましたか。
その後、パウロは発見しました。
「彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした』と答えた。『では、どんなバプテスマを受けたのですか』と言うと、『ヨハネのバプテスマです』と答えた。」
これについての理解にはいろいろありますが、もし彼らが、「聖霊があることを聞いたことがありません」と答えていたとしたら、パウロは「では、どんなバプテスマを受けたのですか」とは聞かなかったでしょう。パウロはなぜ、「では」と言ったのでしょうか。聖霊について聞くことなく、クリスチャンでいることはできなかったのでしょうか。それを説明するために、マタイ28章でイエスが弟子たちに言ったことを見てみましょう。
「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け...」
このバプテスマを受けたなら、聖霊について聞いているはずです。パウロは、彼らがイエスを信じる者としてのバプテスマを受けたのではなく、ヨハネのバプテスマを受けただけであると気づいたのです。パウロはこう続けます。
「そこで、パウロは、
『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです』と言った。」
パウロは、それは準備となるバプテスマであり、イエスが来られ、死んでよみがえられた今、それだけでは十分ではないと言ったのです。そして5節です。
「これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。」
これが重要なことなのです。バプテスマを受けるには、イエスを主、またメシアとして認めなければなりません。
「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」
パウロは徹底していました。表面的なものは受け入れませんでした。本物だけを徹底的に求めたので、彼らはイエスを信じる者でなければならず、明確な経験として水のバプテスマを受けました。そのあとパウロは彼らに手を置いて祈り、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました。
ですから、ヨハネのバプテスマに限界を設けようとしていたということです。
では、キリスト教のバプテスマ、つまりイエスの信者としてのバプテスマに移りましょう。これは、平均的なクリスチャンが認識しているよりも、はるかに重要なことであると言わなければなりません。一般的に、バプテスト派であっても、水のバプテスマを受ける、その本当の意味や重要性をほとんど理解していません。それは悔い改めのバプテスマではありません。マタイ 3:13-17 を見てみましょう。
「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』」
この時、ヨハネはイエスがメシアであることを知りませんでした。なぜなら、ヨハネの福音書で彼はこう言っています。「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのを見たので、この方が神の子 (メシア)であるとわかったのです。」ですから、それはイエスの人生に対する証しです。ヨハネはイエスがメシアであるとは知りませんでしたが、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と言いました。つまり、「あなたは私以上にさらに義なる方です。私はあなたにバプテスマを授けるべき者ではありません」と言ったのです。
「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。こうして、 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」
ヨハネの福音書では、「御霊がこの方の上にとどまられ」と言っています。
「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
新約聖書は水のバプテスマを受ける重要性を強調しています。なぜなら、この場面では、3人の神格すべてがそれを支持しているからです。イエスはそれを経験し、聖霊がイエスの上に下りました。聖霊はイエスが水でバプテスマを受けるまでは、イエスに下っていませんでした。そして、父なる神が天から、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言いました。水のバプテスマを受けることが神の目に非常に重要であることを強調するために、神は最大限のことをなされたと言えるでしょう。
さて、クリスチャンのバプテスマの本質についてお話ししたいと思います。イエスには悔い改めるべき罪がなかったので、それは悔い改めのバプテスマではありません。イエスは悔い改めたのでバプテスマを受けたのでありません。またヨハネのバプテスマを受けたのではなく、ヨハネからバプテスマを受けたのです。何のためでしょうか。イエスご自身が言っておられます。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
イエスは、「私のために」と言ったのではなく、私たちのためにと言われました。イエスはバプテスマの水を通して、イエスに従うすべての人とご自身を同一視されています。イエスが「ふさわしい」と言われたのは、これが、すべての義が成就するための方法となるのがふさわしいということです。それは、イエスに従う者としてイエス・キリストの御名でバプテスマを受けるときに行われることです。あなたは悔い改めのバプテスマを受けるのではありません。あなたは悔い改めましたが、それがバプテスマを受ける理由ではありません。あなたがバプテスマを受けるのは、義を成就するため、すべての義を完成するためです。これはとても重要な点なので、強調したいと思います。ローマ5:1を見てみると、パウロは、イエスを信じる者である私たちにこう言っています。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
パウロは、イエスを信じる信仰によって私たちは義と認められたと言っています。それは、新約聖書の中で最も重要なことばの一つですが、ほとんど理解されていません。それには、解放する、無罪を宣告される、正しいとみなされる、義とされるなどの意味があります。イエスへの信仰によって私たちは、解放され、無罪とされ、正しいとみなされ、義とされました。それが、私たちがバプテスマを受けるべき理由です。悔い改めたからではなく、バプテスマが義を完成させる方法だからです。私たちはすでにイエスへの信仰によって義とされていますが、水のバプテスマはその義を成就する、あるいは完成させる、実行するためにふさわしい方法であるということです。
この水のバプテスマの重要性は、ほとんど理解されていないと思います。このような会話を聞くことがよくあります。「バプテスマを受けたいなら、2 週間後に洗礼式がありますから、ここに名前を書いてください。」これは新約聖書のバプテスマの扱い方ではありません。
バプテスマの本質は献身です。イエスの死、埋葬、復活においてイエスと一つにされることです。ロ ーマ 6:3-4 を見てみましょう。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死 にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
このように、キリスト教のバプテスマとは、イエスの死、埋葬、復活においてイエスと一つとされることです。私たちはイエスとともに死に、イエスとともに水の中に葬られ、水から出て、以前の生活とは異なる新しいいのちの歩みをするために、イエスとともによみがえるのです。また、パウロは、イエスは父の栄光によって死者の中からよみがえったと言っています。しかし、ローマ 1:4 に戻ってみると、イエスは聖霊によってよみがえったことがわかります。つまり、私たちがバプテスマを受けるとき、自分自身の生き方に終わりが来ることを意味します。自分の力や自分の義、自分の能力で物事を行うことに終止符が打たれるのです。これからはイエスのようになるのです。私たちが水の墓から出てくるとき、聖霊の力で歩むのです。イエスは自分の力で死からよみがえったのではありません。これは非常に重要なことです。イエスは聖霊を通して、父なる神によって、死からよみがえられました。パウロはローマ 1: 4でこう言っています
「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
ユダヤ教の裁判、そしてローマの裁判という2つの裁判で、イエスは罪人として死刑を宣告されました。しかし、3 日目に墓が開き、イエスが死からよみがえった時、神はそれらの裁判の判決を覆されました。神は言われました。「これは私の子である。彼は完全に義にかなっており、わたしは彼のいのちを戻す。なぜなら、彼を信じるすべての者に、いのちと信仰の創始者となるからである。」復活はそれほど重要なのです! そして水のバプテスマは、よみがえりを現実のものとして表す行為なのです。
私はかつてアフリカ人学生の教育学校の教師をしていました。私は基本的に次のことを教えました。「人は聞いたことの 30%を記憶し、見て聞いたことの 60%を記憶し、見て、聞き、そしてそれを行なったことの 90%を記憶する。」ですから、生徒たちを机に座らせて何かを聞かせるだけではいけません。授業で理解したことを示す何らかの活動をさせる必要があります。そして、神も同じ原則を用いられます。理論を教えるだけではなく、見て行うようにさせます。水のバプテスマはそのたびにイエス・キリストの死と埋葬、復活が行われるものです。初代教会では、あなたが告白した信仰の行いをするまでは、教会に加わることはできませんでした。ですから、「私は信じます」と言うだけでは十分ではなく、その信仰を実行しなければなりませんでした。
あなたが葬られてよみがえったのなら、あなたの人生はもはやあなたのものではありません。バプテスマは死刑判決なので、自分の生き方を続けたいなら、バプテスマを受けるべきではありません。そしてバプテスマは、あなたのよみがえりです。しかし、あなたはよみがえったのなら、あなたのいのちはあなたには属していません。お分かりですか。それは弟子としての献身です。
マタイ 28 章の最後に、イエスは福音を宣べ伝えるときにすべきことを弟子たちに教えています。マタイ 28:19-20 です。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
イエスは、行って、あらゆる国の人を弟子とするようにと言われました。教会員を作るようにとは言っていません。今日の教会の最大の問題点は、教会員たちが弟子となっていないことです。なぜかと言うと、宣べ伝えようとしている真理を間違えているからです。弟子となりたくないなら、バプテスマを受ける権利はありません。バプテスマは弟子になるという献身です。彼らはバプテスマを受ける前の教えにあまり時間を割きませんでしたが、人々がバプテスマを受けて献身の決心をしてから教えました。 それは理にかなっています。なぜ、献身していない人々に教えるという無駄な時間を費やすのでしょうか。彼らの献身を証明させ、彼らが知る必要のあることを教え始めればよいのです。
私は東アフリカにいたとき、ある宣教会でこのことを経験しました。彼らはバプテスマを受けたい人を何週間もかけて教えますが、実際には、異教徒にバプテスマを授けていたことが多かったのです。人々は知識を得ても、心の経験を全くしていませんでした。彼らはイエスへの真の献身をすることはありませんでした。このことからわかったことを分かち合いたいと思います。
ここで、クリスチャンのバプテスマの条件について考えてみましょう。ヨハネのバプテスマの条件についてはすでに学びました。第一に、イエスは、行ってあらゆる国の人を弟子とし、バプテスマを授けなさいと言われました。ですから、バプテスマを受けようとする人は、イエス・キリストの福音を聞いたことがなければなりません。福音とは何かを覚えていますか。それは、イエスが死なれたこと、葬られたこと、よみがえられたことという 3つの歴史的事実です。それを信じるなら、あなたは義とされます。あなたは義人です。ですから、福音のシンプルな事実を知らない人は、バプテスマを受けることはできません
二つ目の条件は、悔い改めです。使徒の働き 2:38 でペンテコステの日に心を刺されたけれども、まだ回心していない人々の質問へのペテロの応答を見てみましょう。37 節で人々はこう聞いています。
「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」
そしてペテロは38節で答えました。
「悔い改めなさい...」
と答えました。前に言いましたが、悔い改めは最初の一歩です。
「悔い改めなさい...イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
これが神のプログラムです。この一節にすべてまとめられています。なぜ、私たちはそれを何週、何か月に分けて行うのでしょうか。私は救われて聖霊のバプテスマを受けた時、福音について全く無知でした。教会ではなく、軍のバラック小屋で救われたので、通常それは待ち望むものであることを後で知りました。私は聖霊のバプテスマと同時に、異言と解き明かしの賜物を受けました。それらすべてを受けるために長い間待たなければならないと言うクリスチャンが周りにいなかったことを神に感謝します。 ペテロはそのようには言いませんでした。彼は、ひとまとめにして言いました。悔い改めなさい、水のバプテスマを受けなさい、聖霊の賜物を受けなさい、です。あなたが人々にそのように真理を伝えるなら、人々は応答し、そのことが起こるのです。長引かせるプロセスではありません。
三番目に、バプテスマを受ける人は信じなければなりません。マルコ 16:15-16 で、イエスは弟子たちに言いました。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
2000 年経った今も、まだその仕事を終えていないことは私たちの汚点です。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」
ですから、信じていないならバプテスマを受ける資格はありません。信者でなければなりません。信じてバプテスマを受ける者は救われます。イエスは、バプテスマを受けずに信じる者に対して、救いの保証を与えることはありません。信じる者としてバプテスマを受けない限り、聖書的な救いの保証はありません。そして、バプテスマとは、あなたの頭からつま先まで全体が浸かるという意味です。
Iペテロ 3:21 でペテロは別の条件を言っています。ここでペテロは、ノアの時代について語っています。まず 20 節にこうあります。
「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」
これはとても重要なことばです。神は箱舟が出来上がるまで洪水を送らなかったと、ペテロは言っています。神は箱舟が完成するまで忍耐して待たれ、それから洪水を送られました。そして地上にいるすべての人のうち、たった 8 人しか救われませんでした。当時の地上の全人口は少なくとも 200 万人はいたという統計があります。これは非常に厳粛に受け止めるべきことです。200 万人の内たった 8 人しか救われなかったのです。
救いは大多数の人のためのものではありません。今日の民主主義社会は多くの問題が多数派の意見により決められます。神は決してそのように問題を取り扱いません。神の決定により解決されるのです。
ペテロは続けて 21 節でノアの箱舟と洪水についてこう言っています。
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」
お分かりですか。ペテロは、バプテスマは私たちを救うと言っています。そしてこう言っています。
「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、
ただきれいになるためにお風呂に入るだけではありません。
正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」
それが 4 つ目の条件です。正しい良心によって神に応答することができるということです。言い換えれば、「神さま、私は罪人です。悔い改めます。イエスさまが私のために死んでくださったことを信じます。イエスにある信仰によって私は義とされています。主よ、私は罪人としてできる限りのことをしました。どうか私を受け入れてください」と言うことです。正しい良心で神に応答してください。神が求めておられる以上のことはできません。神が求められていることすべてをやり終えたなら、あなたは正しい良心で神に応答したことになるのです。
では、信者としてバプテスマを受けるための 4 つの条件を復習しましょう。
一つ目、福音を聞く。
二つ目、悔い改める。
三つ目、福音を信じる。
四つ目、神に対して正しい良心を持つ。
私はどんな形でも論争はしたくないので、論争することなく一つだけ言えることがあります。幼い子どもは、これら 4つの条件を一つも満たすことができません。それは単純な事実です。
前にも言いましたが、バプテスマの教えに長い時間をかける必要はありません。私は以前いた宣教会ではこのような経験をしました。彼らは 6 週間かけて回心者に教え、バプテスマを授けます。彼らが授けていたのは、教育を受けた異教徒へのバプテスマでした。彼らは本当に主と出会ったことがなく、人生も変えられていませんでした。彼らは良い人々ではありましたが。
では、その期間の長さについて、確かな事実をお話ししましょう。ペンテコステの日に、三千人の人がメッセージを聞いたその日にバプテスマを受けました。使徒たちは、「6 週間経ってして実を結んでいたら、バプテスマを授けましょう」とか、「あなたがイエスのすべての教えを心で学んだらバプテスマを授けましょう」とは言いませんでした。彼らは条件を満たしていた人々にバプテスマを授けたのです。彼らは信じ、悔い改め、献身することを願いました。彼らは少数派であったので、それは評判が良くない献身であったということに注目して下さい。
そして使徒の働き 8 章では、エチオピアの宦官がピリポから福音を聞きました。そこを読んでみましょう。何が起こりましたか。ピリポはガザへ下る道の途中でした。彼はサマリヤでの興奮すべきリバイバルをあとにして、御使いが遣わしたガザへと向かっていました。ピリポは自分がなぜそこにいるのか分かりませんでした。そして馬車に乗ったエチオピアの宦官を見ると、その宦官は声を出してイザヤ書を読んでいました。そして宦官はピリポに尋ねました。
「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。 それとも、だれかほかの人についてですか。」
彼はイザヤ書 53 章の「ほふり場に連れて行かれる羊のように」を読んでいました。そして、預言者は自分のことを言っているのか、それとも他の人について言っているのか、という当然の質問をしました。 そして 35 節です。
「ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」
つまり、イザヤが預言しているのはイエスについてであると、ピリポは言ったのです。そしてイエスのことを宣べ伝えました。ピリポは伝道者であり、模範です。彼のメッセージは非常にシンプルでした。一言です。彼はサマリヤでキリストを宣べ伝え、ガザへの道でイエスを宣べ伝えました。私は真の伝道者の働きが大好きです。私自身は伝道者ではありませんが、いつも私は真の伝道者の働きを見ると、私の内の何かが興奮するのです。伝道者の仕事は、罪人に救い主を紹介することです。それが終われば、その働きは完成です。ピリポはサマリヤでそれを行い、次に進みました。多くの人は、素晴らしい集会を経験し、そこにとどまっていたでしょう。しかし、ピリポは神から示されて、とどまらずに次に進みました。それは従順のテストです。彼はガザへの道に行き、馬車に乗った宦官と出会い、イエスを宣べ伝えました。みなさんに知っていただきたいのは、彼がイエスを宣べ伝えたことです。
「道を下っていると、水のある場所に来ました。宦官は言いました。『ほら、ここに水があります。私がバプテスマを受けるのを妨げるものは何ですか?』それで彼は馬車を止めるよう命じ、フィリポと宦官は共に水の中に下り、彼は(フィリポが)彼を(宦官を)バプテスマしました。」
ここでは、ピリポはイエスのことを宣べ伝えたとしか書かれていませんが、イエスを宣べ伝えるときに、バプテスマについても語ったはずです。なぜなら、ピリポではなく、宦官が率先してバプテスマを求めたからです。宦官は、「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか」と言いました。ピリポは、「わかりました。そうしましょう」と言って、二人は水の中へ降りて行きました。新約聖書で書かれているバプテスマは常に、人々が水の中へ降りて行き、水から上がってきた、となっています。
それから、ピリポは興奮すべき経験をしました。彼は聖霊によって運ばれ、宦官は二度とピリポを見ることはありませんでした。しかし、宦官は戸惑うことなく、喜びながら道を進みました。宦官が最初に福音を聞いてからバプテスマを受けるまで、おそらく 1~2 時間であったと思われます。そこには長い準備期間はありませんでした。
そして、コルネリオの家です。ご存知のように、ペテロは自分の宗教的信念に反するので、異邦人の家に行くことにしり込みしていました。しかし、ペテロはイエスのことを話し始め、素晴らしいことが起こりました。彼の説教はさえぎられました。私も「神さま、私たちの説教をもっとさえぎってください」と言いたいです。そうです、聖霊が説教に割って入ります。それをまだ聞いている間に、です。使徒の働き 10 章 44 節からです。
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。」
これは、「浸し」です。それについては次の学びでお話ししますが、これは浸されています。彼らは上から浸されました。ナイアガラの滝のような注ぎです。人々はなぜ驚いたのでしょうか。
「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」
今日、多くの説教者はこう言います。「では、6 週間ほど待ってみて、あなたが実を結んだら、私たちはそれが本物だったとわかるでしょう。」異邦人たちが、ペテロやその友人たち以上の信者になれると信じていた人はいませんでした。人々は異邦人が異言で語るのを聞いて、「そうか、彼らも私たちのように受けたのだ」と思ったのです。続きです。
「そこでペテロはこう言った。『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』」
次の 48 節に、彼らにバプテスマを受けるように命じた、とあります。彼は勧めたのではなく、命じたのです。それは神への従順の行為です。どのくらい経ってからですか。おそらく、彼らが初めて異言で話し始めてから、水のバプテスマを受けるまで 1 時間ぐらいだったでしょう。先延ばしすることはありませんでした。
それから、使徒 16 章のピリピの看守たちです。これはいつも私の心に訴えかけてきます。パウロとシラスが牢に入れられ、そこは一番奥にある最大の警備がなされていた牢屋でした。彼らは真夜中に何をしていたでしょうか。賛美し、主をほめたたえていました。他の囚人たちも聞き入っていたと書いてあります。そんな囚人はそれまでにいなかったでしょう。すると突然、彼らの賛美が神の超自然的な力を解き放ち、獄舎の土台が揺れ動き、すべての扉が開き、みなの鎖が解けてしまいました。ローマの制度では、囚人が脱走した場合、看守は自分の命をもって償わなければならなかったので、看守たちは自殺を試みます。パウロは、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と言いました。そして 29 節 にこう書かれています。
「看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。」
本当に驚くべきことです。看守が囚人の前にひれ伏すのです。
「そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか』 と言った。ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』 と言った。」
多くの人が見落としますが、家族のかしらとして、彼は家族のために信じる権利を持っていました。
「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」
彼の家族はみな、主のことばを聞ける年齢でした。
「看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、 彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。」
彼らは夜明けを待つことさえなく、すぐに受けました。新約聖書のクリスチャンにとって、水のバプテスマがどれほど急を要するかについてみなさんに理解してもらえるかどうかわかりません。しかし、彼らの救いはバプテスマにかかっていたので、彼らは時を待つことも、次回の洗礼式を待つこともありませんでした。信じてバプテスマを受ける者は救われるのです。私は議論したくありません。どのように応答するかは、自分で決めればいいと思います。
では、バプテスマの霊的意義を簡単に見てみましょう。すでにローマ 6 章で述べられているので、その箇所を見てみましょう。
ローマ 6:3 からです。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」
パウロが、「あなたがたは知らないのですか」と言うときは常に、現在のクリスチャンの大半が知らないことであると私は気づきました。それは注目すべきことです。パウロはこう言いました。
彼は言った。
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
ですから、前にも言ったように、私たちは死と埋葬によってイエスと一つとされていますが、それだけではありません。イエスとともに葬られたのなら、私たちもまた、よみがえらされたのです。
そしてパウロは、とても重要なことを言っています。5 節です。
「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」
パウロは、バプテスマにおいて葬られることについて言っています。もし葬られたのなら、私たちは必ず復活すると言っています。それから彼はこう言っています。
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」
ですから、バプテスマが示している事実とは、イエスが十字架で死なれたとき、私たちの罪深い肉的で反抗的な性質はイエスにあって死んだということです。これは啓示です。あなたの罪が赦されていても、なお反抗的であり得るのです。多くの人がそうです。教会に行き、罪を告白し、赦され、再び罪を犯す、その繰り返しです。それは神の目的ではありません。そのようになってしまう理由の一つは、イエスが十字架で死なれた時、私たちの古い人、すなわち、すべての人が持っている反抗的な性質が死んだという歴史的事実をその人たちが知らないからです。反抗に対する他の解決策はありません。唯一の解決策は処刑です。しかし、良き知らせがあります。イエスが二千年も前に十字架で死なれたとき、その刑は執行されたことです。ですから、パウロはそれを知らなければならないと言っているのです。 11 節を見ましょう。
次に彼は11節でこう言います。
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
パウロは、あなたは罪に対しては死んだ者であり、しかし、神に対しては生きた者であると信じなければならないと言っています。それを表すプロセスが、水のバプテスマです。
「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。
肉のからだを脱ぎ捨て、 キリストの割礼を受けたのです。」
ユダヤの律法では、割礼とは単に肉の一部を取り除くことです。しかし、クリスチャンの割礼は罪深い性質を持つからだ全体を捨てることです。からだが死んだら、次に何をしますか。埋葬です。遺体を埋葬せずに放置しておくことは、実に良くないことなのです。
私は北アフリカでイギリス軍にいましたが、決して遺体を放置しておくことはせず、常に土に埋めました。あなたが古い自分に死んだのなら、埋葬してください。理解していただけましたか。
パウロはこう続けています。
「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」
バプテスマは、信じる人々にだけ働くと言うことに注意してください。神がなさることへの信仰によって、私たちはよみがえらされます。信じなければ、そうなりません。
重要な事実をガラテヤ 3:27 から紹介しましょう。
「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」
私たちは何の中へとバプテスマを受けるのですか。キリストです。教派や教会の中へとバプテスマを受けるのではありません。それは深刻な誤りです。私が東アフリカにいた頃の話に戻りますが、その地の最大の福音団体は、その団体に入るためのバプテスマを受けなかった人は会員として受け入れませんでした。信者としてのバプテスマを受けた人であっても、その団体で受けていなければ、その団体としてのバプテスマを受けなければなりませんでした。それは間違いです。肉的です。私たちは教会の一員 になるためではなく、キリストにつくバプテスマを受けるのです。キリストに勝るものはありません。
そして、先ほども言ったように、それは信仰によってのみ効力があるのです。
また、私たちの新しいいのちは、聖霊によって力が与えられていることを理解する必要があります。 イエスを死からよみがえらせたのと同じ御霊が、私たちの内に働いているのです。
では、旧約聖書にあるバプテスマの2つの描写をざっと見ていきましょう。一つ目は、Iペテロ 3:20-21ですでに見ましたが、ノアの箱舟です。ペテロはそれが水によるバプテスマの予型であると言っています。ノアの箱舟のメッセージは何でしょうか。まず、さばきが迫っていました。さばきから逃れる唯一の方法は箱舟に入ることでした。ですから、洪水は神のさばきを表し、箱舟は、聖書においては常にイエス・キリストを表しています。箱舟の中では、さばきの水を安全に通り抜けることができます。箱舟の外では、水没してしまいます。イエス・キリストという箱舟の中にいる以外の方法はありません。そして箱舟の中で安全に水を抜け、まったく異なる、新しいいのちの中へと出てくるのです。古いいのちは洗い流され、新しいいのちがあなたに開かれます。それがノアの方舟が表していることです。
そして、もう一つの描写は、Iコリント 10:1-2 にあります。
「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け...」
そしてパウロは、6 節でこのように言っています。
「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。」
つまりパウロは、出エジプトにおいて、すべてのイスラエル人は 2 つの体験をしたと言っているのです。パウロは、雲が上から彼らに降りてきたことを、雲によるバプテスマだと言っています。また、彼らは水の中に入っていき、水を通って、水から出てきたことを、海によるバプテスマだと言っています。ですから、この 2 つのバプテスマがすべての信者に定められています。雲が上から降りてきて、雲に浸り、また水の中に入って、水を通って水から上がって来ます。水から出てきた時に、新しい律法と新しい指導者とともに新しいいのちが始まります。他のものはすべて過ぎ去りました
また、エジプト人たちを断ち切ったのは水でした。これは非常に重要です。イスラエルの民は小羊の血を信じる信仰によってエジプトで救われましたが、それはエジプト人を切り離しませんでした。エジプト人を切り離したのは水だったのです。そして、私たちを分かつのは、バプテスマです。私たちはイエスの血を信じて救われますが、バプテスマを受けるまでは切り離されません。
私は何千人もの人々の悪霊からの解放を取り扱ってきました。可能な限りどこにおいても、私は常に人々にこう語ります。「もし、あなたが解放され続けたいなら、水のバプテスマを受けなさい。」なぜなら、それが断ち切るものとなるからです。血ではありません。血はエジプトであなたを救いますが、水はあなたをエジプトから切り離します。水と雲による分離です。彼らはモーセにつくバプテスマを受けたと書いてあります。つまり、このことは、彼らをモーセの指導のもとに来させたということです。私たちはモーセにつくバプテスマを受けるのではなく、キリストにつくバプテスマを受けました。キリストが私たちの指導者です。しかし、聖書的にイエスにつくためには、雲の下を通り、水を通らなければならないのです。それは非常に明確なことです
また、へブル 11:29 を読んでみましょう。ただ信仰によるということが強調されています。もし、あなたが未信者であるとしたら、かわいた罪人として水に入り、濡れた罪人で水から出てきます。変化はそれだけです。私は、ある人の証言を聞いたことがあります。その人はその後本当の救いを経験しましたが、彼は独唱歌手で、教会で歌っていました。教会で歌うにあたって、教会の人々は「教会で歌う人はバプテスマを受けることになっています」と彼に言うと、彼は「いいですよ」と返事をしました。その時、彼はかわいた罪人でした。彼は水に入り、濡れた罪人として水から出てきました。信仰がなかったからです。へブル 11:29です。
「信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。」
イスラエルの民はどのようにしてそれを行いましたか。信仰によってです。
「エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」
エジプト人はなぜ、のみこまれてしまったのでしょうか。信仰がなかったからです。ですから、もしあなたが水のバプテスマを受けても、信仰を持っていなければ、水にのみこまれてしまいます。イエスにある信仰によってのみ、新しいいのちを経験することができるのです。
これはとても真剣な話題です。今日のほとんどの教派や教会が、認識している以上によりさらに深刻な状態です。私は、心を刺されたと感じた人々を何度も取り扱ってきました。
彼らはこう聞きます。「次に何をしたらいいですか。」「バプテスマを受けることです。」「いつですか。」「できるだけ早く、今すぐ にでも。」私はその人々をフロリダの海岸に連れて行きました。そしてこう言いました。「あなたがたにバプテスマを授けますが、そのための服は用意していません。」彼らは、「大丈夫です。濡れたまま家に帰ります。」彼らはバプテスマの重要性、バプテスマの緊急性を理解していたのです。
しばらく祈りましょう。
主イエス・キリストさま、あなたはご自身のからだである教会のすべてのかしらです。あなただけが 私たち一人ひとりの心を知っておられます。あなただけが、彼らとあなたの関係がどのようであるかを 正確に知っておられます。しかし主よ、私は心から祈ります。もし、これを聞いていらっしゃる方で本 当に救われたい、弟子になりたいけれども、まだ水のバプテスマを受けていないなら、あなたが聖霊に よってその人の心に緊急性を備え、従順への一歩を踏み出させてください。主イエスさま、このことが、 あなたの栄光とあなたのからだを建て上げることになりますように。イエスの御名によって。アーメン。

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