聖霊に満たされる

デレク・プリンス
Published: 1970
Last Updated: tháng 10 năm 2026
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今日から霊的変容の旅を始めましょう。デレク・プリンスの『聖霊への浸礼』を通して、宗教の領域を超え、創造主との深く個人的な出会いへと踏み出しましょう。『礎を築く』シリーズの第6部では、かつてないほど神の真理、恵み、そして希望に浸ることができます。
Transcript
ローマ 15:13
「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」
では、「土台を据える」シリーズの続きで、聖霊に満たされるというテーマで学びましょう。前回は水のバプテスマについて話しました。今日は聖霊に浸されることについてです。すでに述べたように、「バプテスマ」という語は英語ではなく、ギリシャ語の音訳で、その意味は「浸す」です。
浸されるには、2 つの方法があります。スイミング・プールのように水に入って、沈み、水から出てくる方法、それは水のバプテスマです。一方、ナイアガラの滝のような方法もあります。ナイアガラの滝の下では一瞬でずぶ濡れになってしまいます。それが聖霊のバプテスマです。
その 2 種類の「浸し」について話していきます。水の中に入って沈み、出てくる、水による浸しと、その下に行って、あなたの上に降り注がれる聖霊による浸しは、どちらの場合も部分的や振りかけるようなものでもなく、完全に浸されます。
非常に興味深いことに、四つの福音書の導入部分には、イエス・キリストが聖霊のバプテスマを授けると具体的に書かれています。このことは、あまり注目されていないのではないでしょうか。各福音書の4つの聖句を読みたいと思います。マタイ 3:11 で、バプテスマのヨハネはこう言っています。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」
マルコ 1:8。
「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
ルカ 3:16。
「ヨハネはみなに答えて言った。『私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。』」
そしてヨハネの福音書 1:33です。ここは、バプテスマのヨハネが先駆けとしてイエスを公に紹介している部分です。四つの福音書のそれぞれの導入で、イエスが聖霊によるバプテスマをご自身の民に授けることを具体的に語っていますが、ヨハネの福音書では、もう少し詳しく書かれています。29 節です。
「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」
そして 33 節です。
「私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見え たなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
ここでヨハネは 3 つのことを言っています。その方が神の小羊であること、神の子であること、聖霊によってバプテスマを授ける方であることです。私たちはみな、イエスが神の小羊であることを良く知っていますが、それは一つの福音書だけに書かれていることです。一方、イエスが聖霊によってバプテスマを授ける方であることは、四福音書のすべてで言われています。
つまり、それはイエスについて知るべき最も重要なことの一つなのです。イエスを救い主として知り、 神の小羊であると知ることは素晴らしいことですが、それだけではありません。イエスは聖霊のバプテスマを授ける方であることを、個人的に知ることが非常に重要なのです。
イエスの地上でのミニストリーが完成し、復活したあと、使徒の働き 1:4-5 でイエスがこの約束を繰り返しています。この約束が福音書で何度も与えられているのは、それほど重要だからです。使徒 1:4-5 です。
「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」
バプテスマのヨハネが前もって伝えた約束、すなわち、イエスは聖霊によってバプテスマを授ける方であるということを、イエスは念入りに繰り返したのです。
さて、ほとんどの聖書の注解者が、イエスのこの約束の成就は、使徒の働き 2:1-4 に記録されているペンテコステの日であることに同意しています。ですから、聖書がそこで言っていることと、何を暗示しているのかを簡単に見ていきましょう。使徒の働き2章 1 節からです。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」
この体験には 3 段階あります。第一段階、バプテスマです。聖霊が天から下り、彼らを浸しました。 彼らがいた家全体に満ち、上から浸されました。
第二段階、彼ら一人ひとりが聖霊に満たされました。それは単に集団としての体験ではなく、一人ひとりが個人的に受けた体験でした。
第三段階、それはあふれ流れ出しました。満たされ、あふれ、超自然的に流れ出ました。これは、マタイ 12:34 で言われている原則と同じで、イエスはこう言われています。
「...心に満ちていることを口が話すのです。」
心が満たされると、それが口を通してあふれ流れるのです。新約聖書には、聖霊に満たされている人々について書かれている箇所が多くあります。それらの聖句を見ると、すべてのケースでその次に起こることは、その人が語ったり、預言したり、異言で語ったりすることです。これは普遍的な原則です。心が満たされていっぱいになると、口から言葉が出てくるのです。それがペンテコステの日に起こったことです。彼らは満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出したのです。これには、神と人の協力が不可欠です。神が彼らを満たしましたが、語り始めたのは彼らでした。聖霊が話したのではなく、人々が話したのであり、聖霊が彼らに言葉を与えたのです。
私は長年にわたってペンテコステのムーブメントに携わってきましたが、「プリンス先生、私は神がそれを全部してくれたらいいのにと思うのですが」と言う人にたくさん出会いました。ある男性は、「神がすべてをしてくれるのを 25 年も待っている」と言いました。私はこう答えました。「あなたは一生待つことになるでしょう。それは聖書的ではないからです。」神はご自身の役割を果たされます。あなたはあなたの役割を果たさなければなりません。あなたが話し始めれば、神は言葉を与えてくださいます。しかし、神は話されません。人々はみな、聖霊が話すために与えられたことを話し始めたのです。
真実を言わせてください。彼らはペンテコステの日に聖霊が訪れるまでは待っていました。その後に聖霊を待ち望んでいた人についての記録はありません。聖霊が与えられ、その後は彼ら自身が祈って、条件を満たせば、すぐに聖霊を受けたのです。
あなたが願うなら、そしてあなたが渇いているなら、今、聖霊に満たされることができます。まだ聖霊を受けたことがなければ、今日それを受けることができます。あとで祈る時を持ちます。
ここで、使徒パウロが聖霊のバプテスマを描写した方法についてお話ししたいと思います。IIコリン ト 1:21-22 を読みましょう。
「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」
パウロは、聖霊はしるしであり、保証だと言っています。エペソ 1:14 でも、彼は似た語を用いています。13 節から読みます。
「この方にあってあなたがたもまた...約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」
聖書の脚注にあるように、保証は、直訳では「手付金」です。
ですから、聖霊のバプテスマは目に見えるものであり、聞こえるものです。単に自分の内側で起こるだけでのものではありません。他の人が見ること、聞くことができるものです。パウロはそれを証印、 そして手付金という2つの言葉で表現しているのです。
第一に、「証印」です。あなたはすでにイエスに属していますが、この証印は、あなたがイエスに属していることを公に示すものです。イエスはあなたに公的証印を押されました。
映画などで見たことがあるかもしれませんが、昔、海外では書留郵便を送る際、熱した蝋ろうを封印として押し、その上に刻印を押さなければなりませんでした(シーリングスタンプ)。それこそが聖霊です。 封印であり、熱い蝋です。イエスがご自分の刻印を押され、あなたを選び分けられたのです。書留郵便は特別に慎重に扱われるものです。あなたが聖霊のバプテスマを受けたとき、あなたは書留郵便のように、天の郵便局から特別な配慮がなされるのです。
もう一つは、「保証」、あるいは「手付金」です。その語を聞くと思い出す経験があります。妻と私は 1947 年にエルサレムの新しい家に引っ越し、カーテン生地を買いに旧市街へ行きました。生地の代金は 100 ドルでしたが、持ち合わせがなかったので、店員に手付金として 20 ドルを払い、こう言いました。「手付金を払ったので、この 2 つのことを守ってください。一つは、その品物はすでに私たちのもので、 取り分けておいて、他の人には売ることができないことです。もう一つは、支払った手付金は、私たちが残金を払って品物を受け取るために戻って来るという保証であることです。
それが聖霊のバプテスマなのです。イエスはあなたの手付金を支払い、ご自分のために選び分けてくださいます。以後あなたは他の客に売られることはありません。
それは、「私はあなたを連れに戻って来る。戻って来て残金を払い、あなたは永遠に私のものになる」 というイエスの保証です。聖霊のバプテスマが何であるのかという鮮やかな描写です。
さて、証印とは何でしょうか。これは議論になる質問です。私が考える限り、新約聖書が示している「証印」は一つだけです。それは、あなたに与えられる聖霊による異言についてです。カルト集団でも異言を語るものがあり、人々はそのことに恐れてこう言います。「私が正しいものを受け取っているかどうか、どうやって知ることができるのか。」イエスは、あなたが神の子どもであるなら、天の父にパンを求める時にあなたに蛇を与えることはない、と言っています。つまり、神の保証書を持っているあなたが正しいものを求めるなら、あなたは正しいものを得ることができるということです。恐れることはありません。しかし、あなたが神の子どもでなければ、その約束は適用できません。神の子どもでなければならないのです。イエスは、あなたが天の父に聖霊を求めるなら、天の父はそれを与えてくださると言っています。ですから、証印とは、見えるもの、聞こえるもの、公のものです。証印は秘密にすることはできません。そうでなければ、その目的を果たすことができないのです。証印とは、使徒 2 章にあるように、聖霊が彼らに語るようにと与えられ、彼らがみな他国のことばで語り始めたことです。
それについて 4 つのことをお話ししたいと思います。第一に、それは使徒たち自身がそれぞれ自分の経験として受け取った証印でした。イエスは、父の約束を受け取るまでは、エルサレムで待つようにと言われました。ですから、彼らは 10 日間待ちました。聖霊が下り、異言で語り始めたあとは、彼らはそれ以上待つことはありませんでした。それは、彼らが自分自身の体験として受けた証印だったからです。
第二に、それは、他の人にも認められる証印です。あとでその注目すべきケースを少し見ましょう。
第三に、彼らは他のいかなる証印も決して求めませんでした。これはとても重要なことです。私はこれまで、このように言う多くの人々に出会いました。「プリンス兄弟、私が聖霊のバプテスマを受けたかどうかを、どのようにして知ることができるのでしょうか。私は様々な経験をし、神に祈り求めてきたのですが、どうやって知ることができるのかわからないのです。」私の答えは、あなたがその証印を受けたときに知ることができる、です。御霊があなたに話させてくださるように異言で語り始めたとき、あなたは受けたのです。さらに言うと、それは物ではなく、あなたが受けた「人格」です。
では、これら3つを繰り返しましょう。
それは、使徒たちが受けた証印でした。
それは、他の人から認められた証印でした。
そして、彼らは、他のいかなる証印も求めませんでした。
さらに言うと、新約聖書は他のいかなる証印も私たちに提供していません。新約聖書には他の証印は提供されていません。
では、イエスが復活の後に弟子たちに別れを告げた時に言ったことを、ルカ 24:52-53 から見てみましょう。これは、私が取り上げたいもう一つの教えです。多くの人は言います。「本当にうれしい。喜びで満ちている。いつも主を賛美している。これは証印ではないのか?」新約聖書によると、そうではありません。喜びに満ちて主を賛美することは素晴らしいことですが、それは新約聖書の証印ではありません。ルカの福音書の最後の部分のイエスの復活の後にこう書かれています。
「そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、 いつも宮にいて神をほめたたえていた。」
彼らは非常な喜びを抱いて、いつも神をほめたたえていましたが、まだ証印は受けていませんでした。ペンテコステの日まで、それを受けることはなかったのです。イエスは、とどまって待つようにと言われましたが、受けたあとは待つことはありませんでした。聖霊が下り、異言で語り始めたとき、待つことに終わりが来たのです。
使徒の働きに、鮮明にそのことを表している特定の事例があります。使徒の働き 10 章の最後の部分です。ペテロが超自然的にコルネリオの家に導かれる場面です。ユダヤ人であるペテロにとって、異邦人の家に入ること、ましてや異邦人と食事をするということは適切ではないので、ペテロは行きたくなかったのです。しかし、神からの力により、彼は他に6 人のユダヤ人信者を連れてそこに行きました。彼は証人がほしかったのです。そして使徒の働き 10:44 はこう言っています。
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」
ペテロのメッセージがそこまで進んでいたことは、興味深いことです。前の節で、彼はこう言っています。
「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
そして、素直な考え方をもっていたコルネリオの家の人たちは、それを信じ、罪の赦しを受けました。 彼らが罪の赦しを受けたとき、聖霊は彼らに下る準備ができていたのです。
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。」
ペテロと一緒に来た人たちは、福音はユダヤ人だけのものだと思っていました。彼らは異邦人がクリスチャンになることができるとは考えてもいませんでした。しかし、彼らが異言で語るのを聞いて、「そうなのか。もう議論の余地はない」と言いました。彼らはなぜ信じたのでしょうか。次の節です。
「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」そこでペテロはこう言った。
彼らには他のしるしはなく、また、それ以上のしるしを求めることもありませんでした。
このように言う人もいるでしょう。「彼らが本当に実を結ぶかどうか、6 週間ほど待つべきだった。」しかし、彼らはそうしませんでした。私たちが話しているのは、実についてではなく、賜物についてです。実と賜物は異なりますが、どちらも非常に重要なものです。賜物は、一回のプロセスで受け取ります。 実はゆっくりとした成長のプロセスで成長します。
クリスマスにクリスマス・ツリーを飾る人もいるでしょう。クリスマス・ツリーの下にはプレセントを置きます。プレゼントを受け取る人がそこに来て受け取る。それだけです。プレゼントは、一度のプロセスで受け取ることができます。
一方、例えばリンゴなら、リンゴの木に育ちます。クリスマス・ツリーに育つことはありません。それは、時間がかかるプロセスです。
ぜひ理解してください。実は非常に重要ですが、賜物と混同しないでください。今お話ししているのは、聖霊の賜物についてです。一つの単純な手続きで受け取ることができるものです。
ですから、ペテロはコルネリオの家の人たちについてこのように答えました。
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
つまりペテロは、その人々に起こったことと、ペンテコステの日に起こったことの間に違いはないと言ったのです。
のちにペテロを批判し、異邦人のところに行って語るべきではないと文句を言っていた仲間のユダヤ人たちに、彼はこう報告しています。使徒の働き 11:15 です。
「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。」
さて、異言で語ることが奇妙で伝統的ではない異端的なものだと考えたり、中には悪魔的だと言ったりする人もいることを私も知っています。以前、私が異言を話すということで、私を避けていた有名な伝道者がいました。私は彼を赦しますが、彼の考え方は支持しません。
今、私は知っています—おそらくあなたたちのほとんどよりもよく知っています—異言を話すことは時に(私はわかりませんが)奇妙で、異端と見なされることがあり、さらには一部の人々はそれを悪魔的だと呼ぶことさえあります。私は、私が異言を話すことを知っていたために、同じ通りの側を歩こうとしなかった親しい福音派の牧師のことを思い出します。ほら、私は彼を許しますが、彼の意見には賛同しません。
神は時に、特定の体験の始めに、つまずきの石のようなものを置くことがあります。もしあなたが真剣でないなら、回り道をすることになるでしょう。学んだことのない言葉を話し、とても興奮している人もいるでしょうが、それを不快に感じている人もいるかもしれません。私が育った教会の背景は、キリスト教の真の姿に対してかなり間違ったイメージを持っています。第一に、キリスト教を非常に厳粛なものと考えています。教会に入ると大声で話さず、立ったり座ったりして讃美歌を歌いますが、何かについて興奮することはありません。私はそのようなキリスト教のイメージをもって育ちました。私は 10 年間、週に 8 回教会に通っていたので、経験が浅かったわけではありません。しかし、それは聖書的な絵柄ではないのです。私たちの多くが、神が私たちの内でなされていることを自由に表現することができないために苦しんでいます。聖書の中の人々を見ると、泣き、叫び、うめき、手をたたき、踊り、歌い、興奮しています。彼らは燃えていました
私は一時期、東アフリカの教員養成学校の校長をしており、教師たちを雇わなければなりませんでした。私は、あらゆる学力的資格を持っていても、教師としてはふさわしくない人がいることを学びました。また別の人は、学力的には欠けるけれども、教師として成功していました。彼は熱心でした。そして私は、熱心さに代わるものはないという結論に至ったのです。
去年、妻と私はモスクワで、1,000 人ほどの新しい信者と一緒にいた時、彼らの熱心さに圧倒され、「このようなことを他の場所でも見たい」と思いました。彼らは、「イエス・キリストはすべての主!」と賛美し始め、10 分ほど賛美し続けました。誰も彼らに働きかけたり、指揮したりする必要はありませんでした。彼らはただ賛美を止めることができなかったのです。妻と私はその賛美を録音し、私たちが霊的に引き上げられる必要があると感じるときにその曲を流しています。それは上手に録音されたものではありませんが、それを聞くたびに興奮と情熱が伝わってきます。
あなたが信じているものを他の人にも信じてもらいたいなら、何よりも説得力がある方法は、熱心になることです。もし、あなたが「魚の目」で悩んでいて、いい治療法が見つかったら、魚の目で悩んでいる人みんなに教えたくなるでしょう。
あなたはそれ以上に価値あるもの、罪のための治療法を見つけたのです。そのことに興奮して、周りの人に伝えないことは不自然です。しかし、その興奮を与えてくださるのは聖霊です。最初に読んだ聖句を覚えていらっしゃいますか。
「今、希望の神が私たちをすべての喜びと平和で満たし、私たちが聖霊の力によって希望にあふれることができますように。」
私たちを希望で満ちさせるものは何でしょうか。聖霊の力です。今、あなたは希望に満ちているでしょうか。イエスに関して興奮していますか。興奮のゆえに黙っていられないという人はいますか。私たちはそのようであるべきです。落ち着いた厳粛さは、新約聖書にはあまり書かれていません。あとで少し例を挙げてみましょう。
さて、新約聖書には、聖霊のバプテスマが与えられる方法が 2 つ挙げられています。一つは天から直接、人々の上に下ります。ペンテコステの日と、コルネリオの家とで起こったものです。もう一つは、按手(手を置くこと)によるもので、3箇所で書かれています。使徒の働き 8:14-17 は、サマリヤでの出来事についてです。
「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。」
この人々はピリポから福音を聞いていました。彼らは信じてバプテスマを受けたと、前の節に書かれています。彼らは救われましたが、聖霊はまだ受けていませんでした。使徒たちは、その人々が素晴らしい救いを受けたという事実だけでは満足せず、さらなるものを求めました。16、17 節。
「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
彼が彼らの上に降りかかることについて語っていることに注意してください。
「…彼らは主イエスの名によってのみバプテスマを受けていた。彼ら(使徒たち)は彼らの上に手を置き、彼らは聖霊を受けた。」
この場合、他の信者が手を置くことによって、聖霊が与えられました。
そして次の章では、パウロとなったタルソ人のサウロがダマスコの町にいたとき、弟子のアナニヤが彼のところに遣わされ、癒やしのために手を置いて祈ると、サウロは聖霊を受けました。パウロはアナニヤの按手によって聖霊を受けました。
そして、使徒の働き 19 章では、別の状況を見ることができます。エペソにいたパウロは、ある弟子たちに出会います。パウロが彼らに信じたときに聖霊を受けたかと聞くと、聖霊のことは聞いたこともないと答えました。そしてパウロは、彼らがイエスの弟子ではなく、ヨハネの弟子だと知りました。そこでパウロは、その時はそれでよかったけれども、今はイエスを信じる信仰のバプテスマを受ける必要があると言いました。そして彼らは水のバプテスマを受けました。
「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」
あなたにお願いします。異言で語ることだけで終わらせないでください。それは素晴らしいことですが、預言へと進んでいってください。神はねたんではおられません。神はあなたに預言の体験もさせてくださいます。
聖霊のバプテスマの目的は何でしょうか。第一の目的は、神からの超自然的な力を受けることです。 これは、使徒の働き 1:8 でイエスが天に昇られようとしているときに、最後に弟子たちに言われたことです。イエスが地上で語った最後のことばです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」
ギリシャ語で「力」を表す語は「ドゥナミス」で、英語のダイナマイトの語源です。ダイナマイトは、 爆発を起こすものです。聖霊が下ると、爆発が起きるのをあなたは知るでしょう。
多くの人は、イエスが死からよみがえられたという事実によって力が与えられたと言います。しかし、それは正確ではありません。なぜなら、イエスが死からよみがえったのは 50 日前であり、エルサレムでは誰もそのことを聞いていなかったからです。しかし、聖霊が下った時には、そのことをエルサレム中が数時間の間に耳にしました。それはダイナマイトでした。爆発でした。爆発は恐ろしいものだと感じ、良いいイメージを持たない人もいるでしょう。しかし、それが聖霊の爆発だったらどうでしょう。聖霊がしたいと願っておられることをしていただきましょう
彼らが受けたのは何でしたか。証人となる力です。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
福音のメッセージは超自然的です。それは自然の出来事の記録ではなく、まったく超自然的なものです。イエスは死んで葬られ、よみがえり、天に昇られました。それは超自然的なことです。超自然的な出来事を証明しようとするには、超自然的な力が必要です。ちょっとした神学だけでは不十分です。力をいただく必要があります。そして人々は見極めています。罪人は、時にクリスチャン以上に見分けることができるので、本当の超自然的な力が来ている時には、耳を傾けるでしょう。私は多くの異文化の中でそのことを発見しました。罪人は超自然の存在を見極めることができます。それは彼らのためになされることです。まさにイエスが言われたように、彼らの注意を引きながら命じます。「あなたがたは力を受け、私の証人となる。」
またローマ 15:18-19 で、パウロは自分のミニストリーについてこう言っています。
「私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。」
パウロは、自分のミニストリーについて、聖霊が成し遂げてくださったことを話す以外に価値はないと言っているのです。聖霊が超自然的な力により、しるしと不思議により、異邦人、非ユダヤ人、未伝道の人々を従順にさせたと言っています。
私は多くの国々で異邦人と接してきましたが、いつも東アフリカでの 5 年間を思い出します。先程も言いましたが、私はアフリカ人教師を養成する学校の校長をしていました。当時は、すべてのアフリカ人が教育を受けたいと思っていました。ですから、彼らが必死に欲していたものを提供していました。彼らは学生として学校に通い、とても協力的で従順でした。教育を求めていたからです。私たち宣教師たちが言うことは基本的に何でも実行してくれました。ある日、私は彼らを集めて言いました。「みなさんに感謝します。みなさんはとても従順で協力的です。教育を受けたいと、私たちの要求を何でも行いました。」しかし、私はこうも言いました。「ほとんどの人の頭の中には、まだ疑問に思っていることがあるでしょう。」私はそう言って、彼らの注意を引きました。そしてこう言いました。「私はその疑問についての答えを教えることができません。その疑問とは、こうです。聖書は自分たちアフリカ人が信じることができる本なのか、それとも、ただ白人のためのもので、アフリカ人には通用しないのか。」それはまさに、彼らの班長が言っていたことでした。そして私はこう言いました。「聞いてください。神の超自然の力をあなたの人生で体験しない限り、その答えを知ることはできないでしょう。あなたがそれを体験したら、聖書がアメリカやイギリスから来たものではなく、天から来たものであることがわかるでしょう。」そう言って、私はその場を離れ、その後も神のことばを彼らに語り続けていましたが、ほとんどの時は彼らのために祈っていました。数か月後、神の超自然的な聖霊の注ぎが彼らの上に臨みました。その学校のすべての学生が聖霊のバプテスマを受けたのです。その時まで、私は彼らが熱心に祈るように促さなければなりませんでした。それ以降は、彼らが祈るのをやめさせることは困難になり、彼らは夜の半分を寮で祈りに費やしました。彼らは超自然の証印、天からの力を受けたからです。私の友人の白人宣教師たちは、以前このような態度を取っていました。「申し訳ないが、これは真実だ。君はアフリカ人たちをある程度まで成長させることはできるが、彼らはそれ以上にはなれない。」私は彼らと議論せず、ただアフリカ人と一緒に過ごしていました。しかし聖霊が下った時、その宣教師たちは何が起こっているのかを見にやって来たのです。そして彼らは、アフリカ人も高みに行けるとわかったのです。
これは一例に過ぎません。その若者たちには個人的な超自然的体験が必要でした。他の人種や他の文化から来た人からのメッセージだけでは、十分ではなかったのです。
それから数か月の間に、その大半が 25 歳以下という学生たちの間で、9 つの聖霊の賜物すべてが働くのを私たちは見ました。事実、私たちは 2 人の人が死からよみがえったのも見ました。「そんなことを本当に見たのか」と言われます。私の答えは、「確かに見た」です。詳しくは説明しませんが、人が死から よみがえらされた時、人々は姿勢を正して耳を傾けます。イエスは弟子たちに、「行って、天の御国が近づいたと宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい」と言いました。イエスはその指示を撤回したことはありません。私は自分が住んでいた地域のユダヤ人たちに、このように言いました。「私のような非ユダヤ人は、あなたたちユダヤ人に謝らなければならない。超自然的に証明されていない福音を信じるようにと言ったからです。しかし、神が特別な使者を遣わすときはいつでも、何らかの形で超自然的な立証を与えることを、あなたがたの聖書的背景は物語っています。」それこそが聖霊のバプテスマの目的であり、私たちを超自然の領域へと導くものです。それは福音が効果的に宣言される唯一の領域です。
へブル 2:3-4 を見てみましょう。
「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」
へブル人への手紙の著者は、私たちが福音のメッセージに耳を傾けるべき3 つの理由を挙げています。第一に、福音を最初に宣言したのはイエスだったからです。第二に、福音はイエスを直接見た証人によって確証されたからです。しかし、第三の理由は、聖霊がそのメッセージに対して、しるしや不思議、聖霊の賜物によって超自然的な証しをしているからです。懐疑的なこの世は、そのようなものは私たち教会が行うことだと、教会に期待しているのです。私たちが単に知的なメッセージやいくつかの聖句を提示するだけなら、神のみこころのレベル以下の生き方をしていることになります。ある人々は救われ、それは素晴らしいことですが、それは神にとってのベストではありません。
さて、聖霊の賜物、聖霊のバプテスマのもう一つの理由をお話ししたいと思います。Iコリント12 章に書かれています。これは新約聖書全体で最も誤解されている聖句です。実は、翻訳者たちがパウロの言おうとしていることに先入観を持っていたために、誤訳されているのです。私は10歳からギリシャ語を学んでいるので、これから言おうとしていることに自信を持っています。自信がなければ何も言いません。Iコリント 12:13 です。
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
間違っている言葉は、「一つの御霊によって」の「よって」という部分です。ギリシャ語では、「一つのからだとなるように、一つの御霊のバプテスマを受け...」です。そして新約聖書には、聖霊が人々にバプテスマを授けたという箇所はありません。聖霊がバプテスマを授けたのではなく、人々が聖霊のバプテスマを受けたのです。私たちは聖霊にあって新しく生まれ、それが一つのからだとなることです。
ここで、「一つ」という言葉が強調されています。パウロが言っているのは、バプテスマの目的は、からだに一致をもたらすということです。一つの御霊にあって、私たちはみな一つのからだにつながるバプテスマを受け、一つの御霊を飲む者です。パウロは「一つ」という言葉を3 回使っています、前の学びで、私はバプテスマについて、「~で」と「~の中に」という使い方のことをお話ししました、私たちがバプテスマを受けるとき、何かでバプテスマを受け、何かの中に入るバプテスマを受けるのです。しかし、実際、ヨハネのバプテスマも、キリスト教のバプテスマも、人々はすでにバプテスマを受けたものの中にすでにいました。ヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマでしたが、悔い改めていない人には授けませんでした。ですから、ヨハネのバプテスマは悔い改めを生むものではなく、悔い改めたことをヨハネが承認するものでした
そしてキリスト教のバプテスマ、水のバプテスマは、キリストの中へとバプテスマを受けます。しかし、バプテスマを受けるとき、私たちはすでにキリストの中にいます。そうでなければ、私たちはバプテスマを受ける権利がありません。水のバプテスマを受けることでキリストの中に入るのではなく、すでにキリストとともにいることの証印です。
このことについても同じです。一つの御霊にあって、私たちはみな、一つのからだの中へとバプテスマを受けたのですが、私たちはそのからだの中にいなかったのではなく、私たちがからだの中にいることの証印なのです。ですから、すべてのケースにおいて、何かでバプテスマを受け、何かの中へとバプテスマを受けます。「何かで」というのは媒体です。それはヨハネのバプテスマでは水で、キリスト教のバプテスマも水です。聖霊のバプテスマでは、それは聖霊です。私たちはすでにいるものの中へとバプテスマを受けますが、それはその中にあるというしるしです。悔い改めにある、キリストにある、一つのからだにあるということです。最近の教会の歴史の悲劇の一つですが、聖霊のバプテスマはからだに一致を生むためにあるものなのに、残念なことに、私たちはあまりにも肉的になって、一致を受け入れる代わりに、分裂を生んでいます。そのために私たちはみな、悔い改める必要があります。聖霊のバプテスマは、あなたが一つのからだの一部であり、それはすべての信者一人ひとりにも当てはまり、教派や人種、文化に関係なく、同じからだの一員であることを忘れないでください。聖霊はただ一つしかなく、からだも一つしかありません。
それが神の目的でしたが、残念ながら他の多くのことと同様、私たちは神の目的を乱用してきました。例えば、聖餐式はからだの一致を強調するという、同様の目的のためにあります。それは私たちの肉によってどのようになったでしょうか。分裂を生みました。それは神のせいではなく、私たちの落ち度です。私たちはみな何らかの責任を負う必要があります。ペンテコステ派でない人たちは批判的ですし、ペンテコステ派は横柄です。私も長くペンテコステ派ですが、そのスローガンは「私たちはすべてを持っている」でした。人々を見て、「あなたが何を持っていようと、それは十分ではない」と考えていました。私がデンマークのペンテコステ教会にいたとき、年配の未亡人にそういう人がいました。彼女は貧しくて病気でした。彼女はデンマーク語で、「私たちはすべてを持っている」と言いました。私は彼女を見て、もしそうだとしたら、たいしたことはないと思いました。彼女のような考えや態度は多くの人の反感を買ってきました。私たちペンテコステ派は、すべてを得ているという態度を取ってきました。私たちは完全な福音を持っている。それ以上のものはないと。私たちはバプテスマを受け、異言を話すことができても、神の基準には到底達していません。それは、あなたが絶対的に完全であるという保証ではありません。そうではなく、完全になるための助けです。
多くのペンテコステがそのような態度です。救われ、新しく生まれ、水のバプテスマを受け、異言で話し、到達したと。とんでもありません。まだ始まったばかりです。それはゴールではなく、入り口です。しかし、もし入り口をゴールのように扱うなら、あなたは決してその先には一歩も進むことができません。そのことに少し注意をした方がいい人もいるでしょう。私はペンテコステ派を愛していますし、それによって救われました。私は長年、ペンテコステ派はすべてにおいて正しいと考えてきました。しかし、彼らにも弱さがあることに気づきました。このことを忘れないでください。聖霊のバプテスマは、クリスチャンに一致をもたらすためのものです。
もう一つ取り上げる必要のあることは、目に見える現象についてです。ほとんどのクリスチャンが「窮屈な生き方」をしているのではないかと思います。彼らは神が与えてくださっているものを自由に表現していません。なぜなら、「教会では、静かに話し、あまり興奮しないように、椅子には姿勢よく座り、 立ったり座ったり、ひざまずいたりし、そして帰る」という厳粛な標準を持っているからです。私が長年そのような教会にいたから言うのではありません。新約聖書のクリスチャンたちはそのようなことは ほとんどしていません。聖書の人々の体験にはそのようなものはほとんどありません。彼らは興奮していました。ダビデの詩篇を読んでください。彼は叫び、泣き、涙で寝床を濡らすほどでした。ダビデは強い感情の持ち主でした。イエスでさえ、うめき、涙を流して感情を表に出したのです。
私もそのような古い伝統的な学校の中で育ちました。イートン校とケンブリッジ大学で教育を受け、 厳格にその伝統を守っていました。しかし、ある夜、神は私に聖霊のバプテスマを授けました。それが何であるかも知らず、教会にも通っていませんでしたが、それは軍のバラック小屋で起こったのです。 救われるため、あるいは聖霊のバプテスマを受けるために教会に行く必要があるとか、全く知りませんでした。私は救いと聖霊のバプテスマを真夜中のバラック小屋で受けたのです。しかし、教会に行き始めると、人々は神のための場所を設けていないことに気づきました。私は超感情的な人間ではありません。
問題は、私たちが自分の感情を押し殺してしまったことです。神が私たちの内側でしてくださっていることを、自由に表現できていません。例えば、賛美はただ言葉を発するだけのものではなく、体勢、姿勢でもあります。ひざまずいたり、ひれ伏したり、手をたたきます。それが聖書的な賛美の姿です。 私たちが聖書の基準に程遠いその主な理由の一つは、聖霊が私たちの内に与えてくれているものを表現していないからです。聖霊を消し、抑圧してきました。厳粛であろうとし、感情的になりすぎたり、興奮しすぎたりすることを恐れてきました。
私は過度に感情的な人間ではありませんが、聖霊に従順であると信じています。聖霊が私の内に与えてくれたものを表現していると思います。
聖書の人物を少しだけリストアップしてみましょう。
アブラハムです。主が彼に現れたとき、彼はどうしましたか。ひれ伏しました。みなさんの中でそのようにする人は何人ぐらいいるでしょうか。
それから、イスラエル人です。主が超自然的な炎で彼らのいけにえを受け入れたとき、彼らはひれ伏して叫びました。聖書には、喜びの声を上げたと言っています。叫びとは、大声で歌うことではありません。サッカーの試合観戦に行って、応援しているチームのゴールが決まったら、立ち上がって叫ぶでしょう。なぜですか。興奮したからです。サッカーの試合に興奮するなら、イエスや聖霊にも興奮しましょう!
そしてヨシュアです。彼はエリコの外で主の軍の将に会い、そこでヨシュアは顔を地につけて伏し拝みました。実は、聖書の偉大な人のほとんどは、少なくとも一度は神の御前で顔を地につけています。 そして軍の将はヨシュアに言いました。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」あなたはそのように靴を脱ぐ場面を経験したことがありますか。私が 2 年前にエルサレムのカンファレンスへ行ったとき、神はそのように働かれました。人々は誰に言われたのでもなく、静かに靴を脱ぎ始めました。そこが聖なる場所であることを知ったからです。
祭司は、神の炎、神の臨在と栄光が宮に満ちたとき、顔を地につけたと聖書に書かれています。彼らは立っていることができなかったのです。
私はエレミヤ書を読むのが好きです。何と言っても彼は、他の預言者以上に聖書の多くを書いた尊敬すべき預言者です。エレミヤ 23:9 にこう書かれています。
「預言者たちに対して──私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのようだ。 ぶどう酒に負けた男のようになった。主と、主の聖なることばのために。」
これは、主の聖さに対するエレミヤの反応です。彼は、「私の骨はみな震える」と言いました。からだが震えずに骨だけが震えることはあり得ません。彼は言いました。「私は酔いどれのようだ。主の聖さのために。」あなたは今までに、そのようにからだで主の聖さを感じたことがありますか。ほとんどの人は非常に制限された生き方をしているのです。
ペンテコステの日に聖霊が下り、使徒たちはみな厳粛になったのではありません。その逆で、とても奇妙でみっともない行動をとりました。彼らは聞いたこともない言葉を話しました。未信者たちは何と言ったでしょうか。彼らは酔っぱらっているのだと言ったのです。あなたが教会から帰る道で、誰かにそう言われたことがありますか。
使徒ヨハネは幻の中でイエスに会い、死んだようにその足元に倒れました。圧倒されるような力があったのです。
他にもありますが、ここで重要なことに進みましょう。聖霊を受けるための 7 つの条件があります。
第一に、悔い改めることです。使徒 2:38「悔い改めて、バプテスマを受けなさい。」
第二に、水のバプテスマを受けることです。水のバプテスマを受けて聖霊を受け取ります。
第三に、渇くことです。イエスは言われました。「だれでも、渇いているなら、私のところへ来て飲みなさい。」
第四に、イエスの元へ来ることです。聖霊を授ける方はただお一人です。聖霊のバプテスマを受けたいなら、その人のところへ行かなければなりません。
第五に、求めることです。イエスは言われました。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、 自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」多くのクリスチャンは言います。「神が私に聖霊を与えたいなら、与えてくださるでしょう。私が求める必要はない。」
しかしイエスは、求めなさいと言われました。天の父は求める者に聖霊を与えると、イエスは言われたのです。
第六に、あなたは受け取らなければなりません。受け取ることは、飲むことに例えられています。 そして最後、第七に、これはある人にとっては難しいことかもしれませんが、あなたのからだの中でコントロールできない器官、つまり舌をゆだねなければなりません。聖霊によって舌を制御することは、 神のしるしです。聖書で舌は「私の栄光」と呼ばれています。詩篇 16:9 は、日本語では「私のたましいは楽しんでいる」ですが、英語では、「私の栄光は喜ぶ」です。ペテロは使徒の働き 2:26 で「私の舌は大いに喜んだ」と、それを引用しています。
あなたの舌はあなたの栄光です。その理由を知っていますか。なぜ私たちに舌が与えられたのでしょうか。それは、神をほめたたえるという究極の目的のためです。神をほめたたえない舌の使い方は、間違った使い方です。しかし、聖霊が下り、あなたの舌を制御する時、あなたが言うこと、語ることすべてが神をたたえます。その時初めて、神があなたに与えた舌の本当の目的のために、それを用いるようになるのです。
私の説明はそろそろ終わりますが、聖霊を求めて渇いている人がいるでしょう。そのような体験をどのようにして受け取ることができるのでしょうか。ヨハネ 7 章のイエスのことばを見てみましょう。
「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
聖霊は、イエスが栄光をお受けになるまでは与えられませんでした。しかし、イエスが父の右に座したとき、聖霊が注がれました。
ここで簡単な条件があります。あなたはまだバプテスマを受けていない、あるいはまだ求めたことがないかもしれません。私はバプテスマのことさえ知りませんでした。私は求めなかったのですが、神は私を聖霊で満たしてくださいました。この奇妙な感覚を私はお腹の中で感じ取りました。「これは何だろう」と思いました。「他の言葉で話すこと」というフレーズが思い浮かびました。「他の言葉で話すことに何の目的があるのか?」と思いました。そして私は誰もいない部屋で神にこう叫びました。「神さま、 あなたが私に異言で話すことを願うなら、私はその準備ができています。」すると、その感覚は私の胸のあたりから喉へ、そして舌が動き始めました。私はそれを制御することができず、気づくと、私は中国語のような言葉を話していました。私は求めてもおらず、バプテスマも受けていませんでした。その後で水のバプテスマを受けたのです。
しかし、基本的な条件というものがあります。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」とイエスは言われました。そうすると、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」のです。驚くべき変化です。渇いていた人が、水が流れる川となるのです。それは何でしょうか。聖霊のバプテスマです。あなたがしなければならないことは簡単です。イエスのもとへ来ることです。バプテスマを授ける唯一のお方の所へ行ってバプテスマを受けるのです。あなたは飲まなければなりません。
とても単純なことです。誰も口を閉じて飲むことはしません。口を閉じたまま聖霊のバプテスマを受けた人はいません。口を開けて飲み、何かを受けるのです。水を受けるのではなく、神の超自然的な力を受けるのです。そのようにして受けなかった人を、私は見たことがありません。そのような記憶はありません。一度に三千人もの人がそれを受けるのを見たことがありますが、彼らは飲み、そのあと、あふれ流れ出しました。心に満ちているものが口から出るというみことばを覚えていらっしゃいますか。 聖霊はあなたの代わりに話すことはできないので、あなたが信仰を持たなければなりません。聖霊があなたに与えてくださっている言葉を、あなたは話さなければなりません。これは信仰のステップです。 信仰がなくては神を喜ばせることはできません。
その素晴らしい超自然的な体験をしたいと願う方のためにお祈りします。教会を変わったり、教会に加わったりすることを勧めているのではありません。使徒たちが必要だったもの、初代教会が必要だったものがあなたにも必要であるとお勧めしているのです。この簡単な祈りでお導きします。あなたがイエスの元へ来るようにと祈ります。あなたがアーメンと言ったら、その次には飲んでください。
それは素晴らしいですね。誰かその椅子を少し移動してくれませんか?本当に素晴らしいです。もっと前に進んでください、後ろにはたくさんの人が来ていますから。素晴らしいですよね?すでに洗礼を受けた方々は、これらの人々のために祈ってください。私のためにも祈ってくださいね。もう少し前に来てください、私を恐れないでください、私は噛みませんよ。前に進めない場合は、ただ—こんなに多くの渇望した人々がいるとは思いもしませんでした。これは素晴らしい!これはニュージーランドに本当の変化をもたらすことができます。もし皆さんが聖霊で満たされるなら、ニュージーランドで何が起こるかわかりませんね?アーメン。私はもっと人々が来るのを待っています。こんなに多くの人が来るとは思いもしませんでした。これはワクワクします、私はこれを楽しんでいます。
ご存知のように、長老派の人々はかなり堅苦しい人たちだと考えられています。しかし、それが全員に当てはまるわけではありません。ところで、長老派の信仰告白が何か知っていますか?「人間の最高の義務は神を栄光を帰し、永遠に彼を楽しむことです。」あなたの中で神を楽しんでいる人はどれくらいいますか?神は楽しんでもらいたいと思っています。彼は私たちが彼を楽しむ手助けをしてくれます。これが神を楽しむ新しい理解を与えてくれるでしょう。
いいですか。あなたは私のもとに来るのではありません。私はバプテスマを授ける者ではありません。あなたはイエスの元へ来るのです。このシンプルな祈りで、バプテスマを受けたいということをイエスに表明してください。イエスの元へ行き、求め、飲んでください。とても単純で愚かに見えることをしなければなりません。宗教というものはそれを難しくさせています。あなたは口を開けて聖霊を飲んでください。水ではなく、神の霊を飲むのです。しばらく経ってから受ける人も、即座に受ける人もいるでしょうが、あなたが飲むその少しの水は、川となり、あなたの口から流れ出し始めます。心から出て口が話します。あなたの心から口が話すとき、それはあなたの心があふれ流れているのです。あなたはその内側を見ることはできません、それがいつ満たされるのかを知ることもできませんが、いっぱいになっていなければ、あふれ出ません。
では、祈りを導きますが、あなたと神の2人きりになってください。周りの人を気にしないでください。もし他の誰かがとても興奮し出しても、かまわないでください。興奮することは罪深いわけではないと言い聞かせましょう。この重要なステップを覚えておいてください。あなたは飲み、ある時点で信仰によって話し始めます。忘れないでください。あなたは神の子です。あなたがパンをくださいと言うのに、神があなたに石を与えることは決してしません。あなたが聖霊を求めるなら、あなたに与えられるのは聖霊です。
私はあなたをイエスに導く祈りを導きます。あなたが救い主としてのイエスへの信仰を告白するように導きます。もしあなたがまだ救われていないなら、今この瞬間に救われることができます。そして、その後に聖霊を受け取る資格が与えられます。この祈りの最後に「アーメン」と言ったら、もう祈らないでください。聖霊は祈ることで受け取るのではなく、飲むことで受け取ります。多くの人々は、自分の言語で話している間に他の言語を話すことができないため、祈りすぎて聖霊を受け取れなくなっています。英語を話すのをやめて、新しい言語を話し始める必要があります。
では、私はあなたをこの非常にシンプルな祈りに導きます。あなたは私に祈っているのではないことを覚えておいてください。私はあなたがイエスに近づくための言葉を与えているだけです。アーメンと言ったら、次に何をしますか?飲み始めます。わかりましたか?申し訳ありませんが、後で私に話しかけることができるかもしれませんが、今質問を始めると、私たちは決して先に進めません。主があなたの質問に答えてくださることを信じてください。わかりましたか?では、これから、私の後にこれらの言葉を言ってください。
「主イエス・キリスト、私はあなたが神の御子であり、神への唯一の道であると信じます。あなたが私の罪のために十字架で死に、死からよみがえったことを信じます。私は犯した罪を告白し、あなたが私を赦し、あなたの尊い血で私を清めてくださることを信じます。これをしてくださったことに感謝します。今、主イエス、私はあなたに聖霊のバプテスマを受ける者として来ます。私はあなたに心を開き、あなたがすでに私に注いでいるあなたの霊を飲み始めます。」
もう一度言います。
「私はあなたがすでに私に注いでいるあなたの霊を飲み始めます。主よ、私にあふれ出る恵みを与えてくださることを信じます。信仰をもって、今このことに感謝します。イエスの名によって。アーメン。」
今、飲み始めてください。私を見ないで、私はバプテスマを授ける者ではありません。ただあなたの舌を委ねて、話し始めてください。大声を出す必要はありませんが、あなたが言ったことが分かるように、はっきりと話す必要があります。そうです、すでに何人かは話し始めています。少し声を出してください。(デレクが異言を話しています。)私の周りのほとんどの人はすでに話しています。質問を持っている男性は流暢に話しています。主を楽しむ時間を取ってください。あなたの問題を忘れ、あなたの質問を忘れ、この体験を通して主に自分を委ねてください。
「主イエス様、私はあなたが神の子で、私の罪のために十字架で死なれ、死からよみがえられたことにより、神へのただ一つの道であることを信じます。私は犯した罪を告白します。あなたが私を赦し、あなたの血潮できよめられることを信じ、感謝します。主イエスさま、私は聖霊を受けるために、あなたのもとに来ています。私は心を開き、あなたがすでに私に注いでくださっているあなたの霊を飲みます。私からあふれ流れるようになることを信じます。イエス・キリストの御名によって信仰を持って感謝して受け取ります。アーメン。」
(女性が聖なる笑いをあげる。)
聖書には、主は完全な人を捨てることはないと書かれており、あなたの口を笑いで満たし、あなたの唇を喜びの叫びで満たすまでそうだと言っています。
大丈夫です、姉妹。その経験をしたことがありますが、それは素晴らしいものです。アーメン。
さて、他に異言を話すことができる人々はどうでしょうか? 立ち上がって、私たちと一緒に他の言葉で主を礼拝しましょう。 英語はなしで、ただ他の言葉で。この場所を神の礼拝で満たしましょう。
(異言を話す)
主イエス様、主イエス様、私たちはあなたを礼拝します。私たちはあなたを礼拝します、イエス様。あなたは私たちの主、私たちの救い主、私たちの神です。私たちはただあなたを礼拝します。(女性は笑いながら続けます。)私は羨ましいです。私はかなり嫉妬しています。私はその経験をしましたが、それに勝るものはありません。笑いたいと思ったら、どうぞご自由に。これは完全に聖書に基づいています。神は、あなたの唇を笑いで満たし、あなたの舌を喜びで叫ぶまで、完全な人を見捨てることはありません。ありがとうございます、
ハレルヤ!主イエス様に感謝します。
イエス様はそれが水たまりになるとは言わなかった、彼はそれが川になると言った。だから、流れさせて、止めないで。今夜、本当に自由になり、他の言葉で主を賛美していることを確信しなさい。この場所を疑いを持たずに出て行かないでください。(異言)さあ、今夜この場所をイエス様の賛美で満たしましょう。私たちの声を上げて、彼に賛美と感謝を捧げましょう。ありがとうございます、主よ。ありがとうございます、主イエス様。あなたはふさわしい。 slainされた子羊は栄光と名誉と力と祝福を受けるにふさわしい。ハレルヤ。今夜、私たちはあなたを愛しています、主イエス様。私たちはあなたに言うことを恥じていません、イエス様、私たちはあなたを愛しています。私たちはあなたを愛しています、あなたが最初に私たちを愛してくれたからです。ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます。ありがとうございます、主よ。ありがとうございます、主よ。今夜ここであなたがしてくださったことに感謝します、主よ。私たちはあなたにすべての栄光とすべての賛美を捧げたいです、それはあなたにだけふさわしいのです。
さて、皆さんが理解していることを確認するために、今までに異言を話したことがある方は、もう一度静かに、でも自分の声が聞こえるくらいの大きさで話してください。そして、あなたが話しているのは主に対してであり、私に対してではないことを思い出してください。ここを出るときには、あなたが未知の言葉で話したことを知っているように。覚えておいてください、もしパンを求めたのに石を与えられたわけではありません。アーメン。
会議をこれで閉じたいと思います。残りたい場合は、帰らなくても大丈夫です。明日は手を置くことについて話します。これは基礎的な教義の一つです。神の祝福がありますように、安全に帰宅し、そして、舌で話しながら眠りにつくのも良いでしょう!

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