永遠のさばき

デレク・プリンス
Published: 1970
Last Updated: tháng 10 năm 2026
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人生の試練に圧倒されないでください。デレク・プリンスの説教「最後の審判」(「礎を築く」シリーズの第10回)で、彼が神の永遠の裁きの現実を探求します。神が、過去の人々の反応に応じて、どのように世代を祝福し、あるいは罰するかを理解し、神の国と正義について新たな洞察を得てください。
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今日の学びは、「土台を据える」シリーズの最後となる 10 回目の学びです。これまでの学びで、へブル 6:1-2 で述べられている6つの基本の教理の5つを取り扱ってきました。神に対する悔い改め、信仰、 バプテスマの教え、手を置くこと、死人の復活です。この学びでは、最後の基本の教理となる「永遠のさばき」を取り上げます。
永遠のさばきについて語る時、神が人々にさばきを下す方法は、おもに2つあることを理解しなければなりません。一つ目は、歴史における神のさばきで、二つ目は、これからお話しする、神の永遠のさばき、つまり時間を超えて永遠の中へと私たちが踏み出すときに直面するさばきです。この2つのさばきを見分けることが重要です。そうしなければ、矛盾しているように思えてしまい、混乱するかもしれません。
一つ目の神のさばきは歴史の中にあり、最初の世代が神に応答した方法に従って、後の世代に祝福、 あるいは罰をもたらします。出エジプト記 20:4-6 に、神の歴史的さばきの非常に明確な例を見ることができます。それは十戒の一部です。神は言われています。
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、 父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」
偶像礼拝はすべての罪の中で最大の罪で、そのさばきは後の三代、四代にまで及びます。それは歴史の中のさばきで、そのさばきが、偶像礼拝に関わったイスラエルや他の国々の歴史に実際どのような結果をもたらしたかという数えきれないほど多くの例があります。
そして、エレミヤ 32 章では、エレミヤは歴史の中での神のさばきの問題を取り扱っています。彼は主に祈っています。エレミヤ32:18です。
「あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。」
ここでも、エレミヤは、神が後の世代に先祖の咎を報いると言っています。これもまた、時間という歴史の中でのさばきです。
このことは、義人に対する神の祝福にも当てはまります。詩篇 103:17-18 でダビデは言っています。
「しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、 主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。」
子らの子、後の世代に及ぶ、神の祝福と義の約束があります。私たち自身の行いと神とのかかわり方は、私たちに影響を与えるだけではなく、おそらく後の世代にも影響を及ぼします。それは忘れてはならない非常に重要な教えです。私たちは何らかのかたちで後の世代の祝福や苦しみに対する責任があるのです。
これは経験上、明らかな事実であると思います。例えば、アルコール依存症の両親に生まれる子どもは、決定的に不利な立場にあります。それはその子どものせいではなく、親に対する神のさばきが後の世代に波及していくからです。
さて、別の種類の神のさばきがあることをお話ししなければなりません。それは、へブル書の著者が永遠のさばきと呼んでいる、私たちの運命に永久に影響を与えるさばきです。そのさばきの原則は全く異なります。それは神によってエゼキエル書 18:1-4 で表明されています。エゼキエルはこのように言っています。
「次のような主のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」
このように、これは子どもたちが父の罪のために苦しむと言うことわざです。
「わたしは誓って言う。─神である主の御告げ─あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」
いま話しているのは、歴史的さばきについてではなく、時間というものを出て、永遠の中に入った時の一人ひとりのたましい(いのち)に対するさばきについてです。そこでは、一人ひとりが歩んできたたましい(いのち)対してのみ、責任を負います。罪を犯したたましい(いのち)に対するさばきは死です。
そして、それは 20 節で再び繰り返されています。ここで神はさらに強調しています。エゼキエル 18: 20 です。
「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」
ですから、私たちが時間を出て永遠の中へと踏み出す時、もはや私たちの両親や先祖の罪や祝福のためにさばかれるのではなく、人生で行ってきたことについてのみ、個人的に神に申し開きをするのです。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰ってきます。伝道者の書にこう書かれています。「木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。」あなたが死ぬときの状態が、永遠にあなたがどのような状態であるかを決定するのです。これが永遠のさばきで、非常に厳粛な教えです。
私の「土台を据えるシリーズ」は当初、小冊子で7巻が出版されました。それらが3巻にまとめられ、その後さらに1冊にまとめられました。7巻の時代の最後の巻のタイトルは「永遠のさばき」でした。人々は 1~6巻は買うのですが、どういうわけか第7巻は買おうとしませんでした。人々は、「永遠のさばきと」いうタイトルが気に入らなかったのです。しかし、あなたが好むかどうかに関係なく、それは真実なのです。私たちはこの「永遠のさばき」という現実を直視しなければなりません。
では、神のさばきの5つの原則が明らかにされているローマ書2章を取り上げましょう。ローマ 2:2 です。私は新約聖書はギリシャ語で読み、そのあと様々な英語訳で読みます。それぞれ長所・短所があり、すべての翻訳は完璧とは言えませんが、時に本来の構造から離れてしまっている訳もあります。
このシリーズでは NKJV をおもに使っています。(日本語も本書の英文に近い訳を用いています。)
「そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。」(新改訳 2017)
これが、第一の原則です。神のさばきは伝聞に基づいているのではなく、事実に基づいています。主がソドムとゴモラの状況についての真実を知りたいと思われた時、主は御使いや他の者たちから恐ろしい報告を聞きましたが、アブラハムにこう言われました。「わたしは下って行って、見よう。」私はそのことに感動します。神は伝聞によってさばくのではなく、真実に基づいてさばかれるのです。
神のさばきの第二の原則は6節にあります。
「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」
私たちは自分の行ってきたことに従ってさばかれます。それは聖書全体を通して変わらない基本原則で、信者にも未信者にも適用されます。Iペテロ 1:17 で、ペテロはこの原則を明らかにし、特に信者に適用してこのように言っています。
「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」
それは、今日のほとんどの教会ではあまり公に語られていないことです。しかし、ペテロは信者に向かって、あなたは自分の行いに従ってさばかれることを念頭に置いて、敬虔で信仰的な生き方をしなさいと言っています。軽率でなく、高慢でなく、生意気になってはいけません。なぜなら、あなたのすべての言動を神に申し開きしなければならない日が来るからです。そしてそれは未信者にではなく、信者に対して書かれていることを忘れないでください。
そして黙示録 20:12 には、最後のさばきでさばかれたすべての人々は、「いのちの書」に書かれていることに従ってさばかれたと言っています。神はすべてのいのちに対する記録を持っておられます。
さて、新約聖書の時代には、書物は現在の本のようではなく、テープのような巻き物でした。そのほうがさらに分かりやすいかもしれません。さばきにおいて、一人ひとりが自分の人生のすべての歩みを記録したビデオテープのようなものに直面させられるのです。4年ほど前、私が深刻な病にかかっていた時、神が私を取り扱ってくださったことを思い出します。私はなぜ癒やされないのかと、神を本当に求めていました。ある夜、午前2時頃に神は私を起こされました。それは神が私によく語ってくださる時間帯で、神は私がそれまで送ってきた人生を少し振り返らせてくださいました。私は説教者であり、一般的には受け入れられ、時には批判も受けました。私は比較的有名な他の多くの説教者とほぼ同じレベルでした。神は私が多くの点で極端に肉的であったことを示されました。感謝なことに、重大な罪は犯しておらず、性的不道徳や酩酊、業務上横領のようなものにも関わったことはありません。それでも、神は過去において私が神に不快な思いをさせてきたことを私に示されたのです。神はこのマラキ書のみことばを示されました
「わたしはヤコブを愛した。私はエサウを憎み...」
それが、神が言われたことです。エサウは肉的な人の型です。エサウには、重大な罪の記録はありませんが、彼はただ肉的な思いが強い人でした。神は「そのことを憎む」と言われたのです。
私は 50 年近くミニストリーに携わってきましたが、その歩みの中に神が憎むことがあると私に示されたのです。私にいくつかの不注意な点があることを示されました。示された場面のいくつかはレストランでのことです。神はレストランのことでも私たちをさばかれるのです。ある人が言いました。「あなたがたアメリカ人は食べ物の話しかできない。」また別の人は言いました。「最高のレストランを知りたかったら、伝道師に聞くといい。」それはある程度当てはまるかもしれませんが、完全に真実とは言えません。私は自分の経験から話しているだけです。私は恐れをもって時間を使うことの重要性を理解し始めました。奴隷的な恐れではなく、私たちの言動のすべてがさばかれるという神への畏怖です。これは Iペテロのことばです。
ローマ2章に戻りましょう。次の神のさばきの原則は 11 節にあります。
「神にはえこひいきなどはないからです。」
この聖句では「えこひいき」となっていますが、英語の KJV では「かたより見る」(参考:箴言 28:21) となっており、この方が正確な翻訳だと思います。えこひいきは誰にでもあり得ます。あなたは、弱くて取るに足らない人を特別に扱うこともあり得ます。私は弱い人々を本当に助けたい、その人たちのために何でもしたいと心から願っています。しかし、人を偏り見るとは、その人の本来の姿を見ないという意味です。将軍であれ、大統領であれ、司教であれ、神から特別待遇のさばきを受けることはなく、他の人とまったく同じように取り扱われるのです。それこそが、人を偏り見ないという意味で、特に今日の世界で重要な地位を占める人々に対するものです。
次の神のさばきの第四の原則は、光の基準によるものです。パウロはローマ 2:12 で言っています。
「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、 律法によってさばかれます。」
あなたが律法の下にあるなら、あなたは律法によってさばかれます。律法の下にないなら、律法によってさばかれることはありませんが、あなたが行ってきたことに従ってさばかれます。
この原則はマタイ 11 章で、イエスの教えに応答しなかった主な町々について語っているイエスのことばによって説明されています。マタイ 11:20-24 です。
「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められ た。『ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだ ろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。』」
なぜでしょうか。ツロとシドンは光が少なかったからです。ベツサイダとコラジンには最大の光があったので、最も厳しいさばきを受けるのです。私たちも、与えられている光に従ってさばかれます。
英語圏の人々に対して一般的に言いたいことは、今日、私たちに与えられている光の量は、歴史上これまでのどの世代よりもはるかに多いということです。大量の聖書があり、無数のクリスチャン書物、 テープやその他のメディアがあり、多くの説教者がいます。私たちの手の届くところに与えられているその光によってさばかれるのです。それを忘れないでください。この世代に対する神のさばきの基準は、 私たちが最大の光を持っているからこそ、最も厳しいものになるのです。
そして、イエスは続けます。
「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。お まえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
このように、さばきは光によります。光があればあるほど、さばきは厳しくなります。もう一度言いますが、私を含めて、みなさん一人ひとりは、今までのクリスチャン世代にないほど多くの光を利用することができるのです。それが私たちのさばきの基準となることを忘れないで下さい。
そして、神のさばきの5つ目の原則は、ローマ 2:16 にあります。
「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」
つまり、神は私たちの目に見える行為をさばくだけではなく、心の奥底にある隠れた思いや動機、態度もさばくのです。神は私たちの動機について非常に関心があるというのが正しいでしょう。2人の人が、見た目には同じ行為をしていても、その動機は全く違うかもしれません。神が彼らをさばくときには、彼らの動機を考慮するのです。
さばきの場面に移りましょう。私の理解では、さばきには4つの主な連続した場面があります。第一は、キリストのさばきの御座の前です。ギリシャ語の bema という語は、ローマの役人が判決を言い渡すために座る台座を意味します。ポンテオ・ピラトは、イエスが裁判のために現れたとき、その台座に座っていました。これはクリスチャンだけに対するさばきです。もう一度Iペテロ1:17 を見ましょう。私は、神がこの節を二度読むことを願っておられるように感じています。Iペテロ 1:17 です。
「そして、あなたがたが父を呼ぶなら、彼は偏りなく各自の行いに従って裁く方ですから、あなたがたの滞在の間、恐れをもって行動しなさい。」
それは、私たちに向けて書かれています。私たちは御父を呼び求めます。そして、Iペテロ 4:17 にはこう書かれています。
「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」
さばきはどこから始まるのでしょう。常に神の家からです。最も真理を持っている人々から常に始まるのです。ですから、さばきが始まるとき、最初にさばかれるのはクリスチャンです。クリスチャンには特別なさばきがあるのです。
ローマ 14:10-12 は、このように言っています。
「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。 私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。『主は 言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。』こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」
覚えておいてください。あなたが弁明しなければならない人は、あなた自身のことだけです。他人や自分の牧師の弁明をする必要はありません。ある人は自分をさばくべきときに、他の人をさばいて多くの時間を無駄にしています。あなたが弁明しなければならないのは、あなた自身だけです。それが、あなたがしなければならないことです。
パウロは、私たちひとり一人が神に自分のことを申し開きすることになると言っています。それは、 私たちクリスチャン一人ひとりのことです。そして、IIコリント 5:10 で同じテーマに戻っています。
「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体に あってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
私たちはみな、さばきの座に現れなければならないと言っています。しかし、ギリシャ語では、私たちのすべてが現されなければならないと言っています。秘密はありません。隠されるものは一つもなく、すべてのことが完全にあらわにされます。そして、与えられた人生での生き方に応じてさばきを受けるために、キリストのさばきの座の前に出るのです。そして、すでにこの土台の学びのシリーズでお話ししたことですが、もう一度言います。善か悪かの 2 つの区別しかありません。中間はありません。良くないものはすべて、悪いものです。イエスははっきりと言いました。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり...」中立はありません。イエスは中立を排除しました。
教会には多くのどっちつかずの態度の人たちがいます。決断をせず、どちら側にもつかないのです。良いことをしていないのに、悪いことをしていると認めようともしません。私は時々このように言います。聖霊が教会に来て最初にすることの一つは、電気ショックのようなものを与えることです。すると、 どちらか一方の側に飛び出すほかありません。多くの人が聖霊を歓迎しない理由は、聖霊が中立を撤廃するからです。聖霊に中立はありません。
さて、このさばきには、5つの主な特徴があります。簡単に説明しましょう。
それは個人的なもので、一人ひとりが主に答えることになる。
それは、私たちの人生における生き方、何をしたかに対するものである。
良いか悪いかのどちらか一方である。 Iヨハネ 5:17 は言っています。「不正はみな罪です...」 正しくないことはすべて罪です。このように、三つ目の特徴は人々の思いの中へ入り込んで多くの人を惑わしています。しかし、中立はありません。
それは有罪の判決ではない。 これは非常に重要なことです。私たちはさばかれますが、真の誠実なイエスの信者であるならば、罪ある者とされません。さばきの原則は、奉仕の評価に対してです。
この点についてあなたの慰めとなるように、3 つのみことばを分かち合いましょう。ヨハネ 3:18 でイエスは言っています。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
ですから、私たちがイエスの真の信者であるなら、私たちはさばかれますが、罪ある者とはされません。それから、ヨハネ 5:24 でイエスはこう言っておられます。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」
これは、イエスがご自身を最も強調して表現する方法です。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
最後に、ローマ8:1 です。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
このように、今話しているのは、罪を定めるさばきについてではなく、あなたの生涯でイエスにささげた奉仕を評価するさばきについてです。これを最も明確に表現している箇所は、Iコリント 3: 11-15 です。パウロは教会を建て上げることについて語って言っています。
「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
「火の中をくぐるようにして。」それが、クリスチャンのさばきの本質です。第一に、私たちはイエス・キリストという土台の上に建て上げられなければなりません。他の土台はありません。それから、私たちが捧げる奉仕の価値がどういったものかを見極めなければなりません。木、わら、切り株など、容易に得ることができる物は、大量に捧げられるでしょう。しかし、それらはみな燃え尽きてしまいます。金、銀、宝石など、貴重な物は多く手に入れることができません。このように、ある人は自分たちの奉仕の量だけで評価しますが、それは神の評価の方法ではありません。
私は自分自身を常に見つめ直しています。私は何を生み出しているのでしょうか?それはただ燃え尽きる木、干し草、藁に過ぎないのでしょうか?何かのために一生懸命働いてきたのに、すべてを積み上げて、裁きの日にその上を火が通り過ぎてすべてを焼き尽くすのを見るのは、なんという悲劇でしょう。残るものは何もなく、炎を逃れる裸の魂だけです。なんと厳粛な思いでしょう。
私は絶えず自分を吟味しています。何を生み出しているか。燃え尽きてしまう単なる木や、わら、 切り株ではないだろうか。あることのために生涯をかけて働いて、それを積み上げたのに、さばきの日に炎がそれを焼き尽くしてしまうことは、なんと悲劇的でしょうか。あとに何も残さず、あなたは裸のたましいとなり、炎の中をくぐり抜けるようなものです。なんと厳粛な考えでしょうか。さて、私たちの奉仕が火の試練に耐えうるものかどうかを確かめるための提案をしたいと思います。 あなた自身の奉仕を評価できる 3 つの方法です。
第一に、あなたの動機が何であるかです。神に受け入れられる唯一の動機は、神の栄光のためです。この地の教会で行われている多くのことは、人間が自分たちの栄光のために行なっています。私の個人的な観察によるものですが、今日の教会の最大の問題は、牧師たちが持っている個人的な野心です。大きな教会、たくさんのメーリングリスト、多くの奇跡などです。それらはすべて動機が間違っているために焼き尽くされてしまいます。Iコリント 10:31 でパウロは言っています。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」
神が私たちの奉仕の動機で唯一受け取ってくださるもの、それは、「神の栄光」です。
今少し時間をとって、みなさん一人ひとりの主への奉仕の動機は何であるのかを、思い巡らす機会を与えるようと、主が願っておられると感じます。パウロはローマ 12:1 で、私たちは思いを一新する必要があると言いました。一新されない思いとは、「これは、どう私のためになるか」と考えることです。 一新された思いとは、「神はどこで栄光を受けるか」です。それらの動機はまったく違っています。
これは結婚生活にもまさに当てはまると思います。多くの結婚が不幸になっているのは、人が一新されていない思いで結婚するためではないでしょうか。その態度とはこうです。「私はこの結婚から何が得られるか。結婚で私は幸せになれるだろうか。」それはほぼ確実に不幸な結婚の元となります。正しい動機は、何を得ることができるかではなく、何を与えることができるかです。2 人が互いに相手に与えることを目的として出会うとき、彼らは幸せで素晴らしい結婚生活を送ることができるでしょう。本当に重要なのは、全体的な動機なのです。
第二に、あなたの働きが火の試練に耐えられるものとするためには、神のことばに従ってなされる働きでなければなりません。それが唯一の受け入れられる基準です。マタイ 7 章で、イエスは砂の上に建てた人と、岩の上に建てた 2 種類の人について語りました。マタイ 7:21 から読みましょう。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」
つまり、唯一の受け入れられる動機は、父なる神のみこころを行うことです。 そして、イエスはある人々を怒らせるようなことを言いました。
「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
神の恵みによって、私は非常に多くの悪霊を追い出す特権にあずかってきました。非常に確かな奇蹟が起こるのを多く見てきました。預言もしばしばしてきました。私の天での望みは、それらのどれにも基づかないことを言いたいのです。そのように考えることは危険です。天での重要な必要条件は唯一、天の父なる神のみこころを行うことだけです。イエスはこれらの奇跡を行う者たちに言っています。「不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」彼らの多くは、自分たちが律法なのです。彼らは基本的に自分のしたいことを行い、得ることができるものは何でも手に入れ、神のことばの中心的原則を無視しています。
このことを言わせてください。最近、私はバラムについての教えを書きました。バラムの話にとても感銘を受けたからです。この人は素晴らしい預言の賜物を持ち、知識と知恵のことばを持っていました。彼は民数記の中で、イスラエルの運命に関して聖書の中で最も美しい言葉で預言しています。にもかかわらず、彼はイスラエルの民に処刑されました。彼の問題は何だったのでしょうか。彼については新約聖書の中で 3 度出て来ますが、その動機がお金を愛したことだとはっきりと書かれています。その代価は彼のたましいでした。実に今日の教会で、私たちはお金を愛することが動機になっていないかを自問自答する必要があります。
妻と私はこのみことばを示されました。
「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず...」(IIコリ 2:17)
驚くべきことばです。それはパウロの時代のことです。パウロは、福音から利得を得ている人が多くいると言っています。神が探られるのは私たちの動機です。
そして、第 3 の条件は、私たちに働く力です。ローマ 15:18-19 でパウロは言っています。
「私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外 に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。」
パウロは、聖霊が自分を通して成してくださったこと以外に語るものは何もないと言っています。聖霊の働きだけが、唯一ミニストリーのために受け入れられる力なのです。
では、あなたの働きが火の試練に耐えるための 3 つの要件を復習しましょう。一つ目、あなたの動機は神の栄光のためか。二つ目、その働きを神のことばに従って行っているか、それとも自分のことを行っているか、もしくは自分の規則を作っているか。三つ目、あなたは聖霊の力で働いているか、それとも自分も肉的な能力で働いているか、です。
さて、さばきには 2 つのパターンがあります。イエスが話された 2 つのたとえです。私はこれをどう説明するか悩んだ時期がありました。しかし、それを読んで少し時間を取りたいと思います。まず、ミナのたとえ話です。ミナとは、簡単に言うと「量」という意味です。お金の量、単位です。一ミナはかなり小さな額です。ルカ 19:11 から読みましょう。
「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。」
つまり、その人が戻って来るまでには長い時間がかかるということです。
「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』」
それは、利益を出しなさいということです。
「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。」
そして、神は私たちひとり一人から働きについての説明を求めます。
「さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』主 人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」
今ある人生での私たちの働きの忠実さが、永遠につく地位、神の国での責任を決定づけます。
「二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』」
しかし主人は、よくやった、良いしもべだとは言いませんでした。賞賛のレベルは最初の人よりも低くなっています。
「もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています』と言った。」
彼らは、すでに十ミナ持っている人がさらに一ミナ得ることは正しいとは思いませんでした。イエスは続けて言います。
「彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。』」
私たちのほとんどは、このような考え方を持っていないので、聞いてください。これがこのたとえの終わりではありません。次の文を見ましょう。
「ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」
それはさばき主のイエスです。救い主イエスではなく、さばきのイエスです。救い主なるお方は、同時にさばき主でもあることを忘れないでください。イエスは救いにおいて徹底的で完全であるように、 さばきにおいても徹底的で完全なのです。
あなたのイエスのイメージには、そのことが含まれていますか。それとも、イエスは「優しく、柔和で温厚だ」と言いますか。もちろん、その通りですが、それは真理のすべてではありません。イエスにはもう一つの面があります。イエスは燃える炎のような目、口から出た両刃の剣、大水のとどろきのような声、炉で精錬されたしんちゅうのような足を持った「さばき主」です。自分の受容能力の中でイエスを目にしたヨハネは、死んだ者のように、その足元に倒れ込みました(黙示録 1:17)。これは非常に印象深いです。ヨハネは弟子たちの中でイエスと最も親密な関係にありました。彼は最後の晩餐でイエスのすぐそばにおり、またイエスがガリラヤ湖でご自身を啓示した時も、彼らに朝食を備えた時にもいた一人でした。
イエスがご自分の弟子たちのために朝食を備えられたという事実が私は大好きです。
先ほどの黙示録では、イエスをよく知っていたヨハネが、イエスによるさばきを目の前にして、死者のようにイエスの足もとに倒れました。このようなことが教会にも起こる必要があると私は思います。イエスとなれあいの関係で恐れを持っていない教会は、イエスによるさばきに向き合う必要があると考えます。死者のようにイエスの足もとに倒れたとしても、私たちには何の危害も受けないでしょう。そのような恐れは、私たちが学ばなければならないものでしょう。
では、このたとえ話についてお話ししましょう。第一に、最も多く増やした人はさらに与えられる。これは原則です。ある時、神は非常に奇妙な方法で超自然的な信仰の賜物を私に与えてくれました。私が足の長さが違う人々のために祈ると、短い方の足が伸びます。それは文字通り何百人にも起こり、私はその人たちに言いました。「今、神があなたに触れてくださいました。神の超自然的な力があなたに働 いています。」私は多くの人々が超自然的に癒やされるのを見ました。
しかし、私の友人の牧師たちは言いました。「デレク、あなたは立派な聖書教師としての評判を得ている。あなたが人々の足を持ったり、伸ばしたりするのは、その評判にはふさわしくないのではないか。」それで私も、彼らの言うことは正しいかもしれないと考え、私は主のもとへ行きました。すると主が、こう言われたと私は感じました。「私はあなたに賜物を授けた。」突然私は、それが信仰の賜物であると気づきました。「それを用いてさらに得ることができる。あるいは、それを用いないで、その賜物を失うこともできる。」私はその時、決心しました。それを用いてさらに得るようにと。そして、さらに与えられました。神をほめたたえます。しかし、あなたの持っている賜物が何であれ、あなたには 2 つの選択肢があります。それを用いてさらに得るか、それを用いないで失ってしまうかです。
そしてすでに言いましたが、この人生でのあなたの奉仕があなたの永遠の立場を決定することを忘れないでください。十ミナを手にした人は十以上の町を、五ミナを手にした人は五つ以上の町を治めました。それは、この人生における彼らの忠実さに対する正当な分け前です。注意してほしいことは、イエスは、「よくやった、素晴らしい成功をおさめたしもべだ」と言ったのではなく、「よくやった。忠実なしもべだ」と言ったことです。ある人は成功を強調しすぎて、忠実さにほとんど目を留めません。
私たちは今日、多くの外国の宣教地で神の素晴らしい働きを見ることができます。私たちは少し有頂天になってこう言うかもしれません。「すごいと思いませんか。何千人もの人々が私のセミナーにやって来るのです。」しかし、神は私にこのように示されました。「忘れてはいけない。あなたの前の世代は少ししか実を見なかったが、彼らは労苦し、あなたがたは彼らの働きの中に加わったのだ。だから自分たちを高く評価し過ぎてはいけない。」私は開拓者たちを尊敬しており。その働きを、またいのちを捧げた人々を尊敬しています。最初の宣教師が東アフリカに行ったとき、5 人中 4 人は何か月も経たないうちに亡くなりました。彼らは何の成果も見ることができませんでしたが、彼らはのちに実を結ばせた、地に蒔かれた種でした。
さて、何もしなかった人に対してイエスは言いました。「さて、あなたはお金儲けをする能力はなかったようだが、それを銀行に預けてくことはできたはずだ。そうすれば、私は利息と一緒に受け取れたはずだ。」そのことは、利益を得ることは常に間違っているわけではないということを私に証明してくれました。ある時には間違っているかもしれませんが、すべての場合ではないのです。
それは、あなたや私にとってどのようなものでしょうか。私たちには何ができるのでしょうか。このように言うこともできるでしょう。「私は大きな働きはしていないし、説教者でもなく、管理者でもない。 私はあまり賜物がない。私に何ができるだろうか。」銀行に預けるのです。
何を預けるのでしょう。これは私の理解ですが、のちに実際に実を結ぶ奉仕を見つけ、それを試し、それに投資するのです。それが銀行にお金を預けておくということです。主が来られた時、あなたは利息を得るでしょう。
では、次のたとえを見てみましょう。よく似ていますが、タラントのたとえです。マタイ 25:14-30 にあります。14 節から読みましょう。
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラン トを渡し、それから旅に出かけた。」
ミナのたとえでは、おのおの一ミナずつを受け取りましたが、ここでは、一人は五タラント、一人は 二タラント、もう一人は一タラントを受け取りました。それぞれの能力に応じて分配されたのです。神は、あなたがそれを用いてできることに応じて、タラントを与えることを理解してください。あなたが五タラントを用いることができるなら、神は五タラントを与えるでしょう。あなたが二タラントだけしか使えないなら、神は二タラントを与え、一タラントだけしか用いることができないなら、一タラントを与えるでしょう。しかし、それはあなたの能力に応じて、神は与えるものを見積もるのです。
それから、こう書かれています。
「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、 出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が 帰って来て、彼らと清算をした。」
みなさん、主は戻って来られ、私たちと清算をされます。
「すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五 タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」
同じ原則に気づきましたか。この世で行うことが、永遠の中であなたが行うことを決定するのです。
「二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」
これは、異なる原則です。五タラントもうけた人と、二タラントもうけた人がいましたが、主人のことばは全く同じものでした。言い換えれば、神が求めているのは割合なのです。あなたが 5 を受け取ったら、神は100%を期待します。それを良いとみなされるのです。2 を受け取ったら、神は 100%、つまり2を期待します。神はあなたの能力を知っておられ、あなたが生み出すことができる以上のものを求めることはありません。
続けましょう。
「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。』
なまけ者は悪い者だと言われていることを指摘しましょう。私たちの教会のほとんどは、大酒飲みを受け入れず、教会のメンバーとして認めません。しかし、多くの教会は怠け者を受け入れます。神の目には、怠けることは大酒飲みよりも悪い罪だと思います。それはイエスが物事を評価する方法だと私は理解しています。私は酔っ払いを是認しているのではありません。それは罪です。しかし、神の目には、怠惰はもっと悪い罪なのだと私は思います。イエスは言われました。
「『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。』
ここでも同じ原則です。あなたがお金を儲ける能力がないとしたら、実を結ぶ奉仕に投資してください。
『だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
持っている人が与えられるのです。
「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
「そこで泣いて歯ぎしりするのです」というフレーズは、新約聖書で何度か使われています。私はそれが使われている場面を研究してみたところ、真理のすぐ近くにいた人々についてだけ使われているという結論に至りました。彼らは真理の中に入るあらゆる機会がありました。まったく神について知らずに生きてきた人々ではなく、いつも真理のすぐそばにいて、何もかも知っていたにも関わらず、決して真理の中に入らなかった人たちに対してです。そこで泣いて歯ぎしりするのです。「私はそこへ入ることはできたし、常にその機会はあったが、決してそうしなかった。今、私は永遠に外の暗闇に放り出されている」というあまりにも苦い思いをするのです。恐ろしいことです。
もう一つ言わせてください。拒絶された人々は一タラントの人で、最小限しか献身しなかった人々でした。それは教会の中にも当てはまると思います。基本的に、能力のある人はそれを用いて何かをするでしょう。ある程度の能力のある人も何かをするでしょう。しかし、一タラントの人々は、「私はあまり持ってないから、できることもほとんどない。だから何もしない」と言って傍観するのです。その人々は拒絶され、放り出されます。
私は一タラントの人々に言いたいです。あなたに能力がないと言っているのではありませんが、あなたは一タラントの人です。自分の責任を過小評価してこう言うからです。「私はあまり持っていないから、 できることはあまりない。神は私に多くを求めていない。」いいえ、神は求めておられます。あなたの持っているものが多い少ないにかかわらず、忠実さを求めておられます。
私は自分の教会でこの一タラントの人々について語ったとき、自分は一タラントの人間で、そのタラントを用いてこなかったと感じる人々はいるかと尋ねました。その応答はショッキングでした。教会員の約半数でした。これは多くの信者にとっての主な問題だとわかりました。「私は一タラントしかないから、何ができるというのか。何もしないでおこう。」イエスはそれを受け入れません。イエスは言われま した。「それを銀行に預けることはできたはずだ。あなたの一タラントを実を結ぶ働きに投資することができる。」そうすれば、その実の多くはあなたへの信頼の評価となるのです
私たち夫婦の大きな問題の一つは、私たちのために仕えてくれる人が必要だということです。野心があるわけでも、人の上に立ちたいのでもなく、神が与えてくださった働きをするために奉仕者が必要なのです。単なる奉仕者です。今日の教会で最も難しいことは、喜んで仕える人々を見つけることです。 私たちにはこれまで数名のそのような素晴らしい人がいました。彼らはみな忠実でした。しかし、自分の奉仕をしたい人々とは多くの問題が生じます。その人たちは他の奉仕に投資したいと思いません。そして彼らはすべてを逃してしまいます。結局、彼らの働きはうまくいかず、別の働きで生み出される投資の恵みにもあずかることができないのです。
一タラントのみなさん、注意してください。あなたは危険です。「役に立たないしもべを暗闇に放り出せ」という言葉を聞くかもしれません。泣いて歯ぎしりすることになります。
これらのたとえから、いくつかの原則を挙げましょう。
第一、今の人生での私たちの働きが、次の人生での位置を決定します。
第二、あなたのタラントを用いなければ、それを失います。
第三、なすべき正しいことを知りながら、行わないことは罪です。ヤコブ 4:17。
私たちは任務の罪についてよく話しますが、怠惰の罪はまさに現実です。
私たちはしばしば行為の罪について話しますが、行わないことの罪も同様に現実のものです。
そして、マタイ5章を少し分析したいと思います。そこには、神によって完全に拒絶された三つの種類の人々がいます。油を持たなかった愚かな処女たち、一つのタレントを持って何もしなかった召使い、そしてイエスの兄弟たちを助けなかった山羊の国々です。彼らは皆、神によって完全に、そして最終的に拒絶されました。ある日、自分に言いました。「彼らに共通するものは何だったのか、なぜ拒絶されたのか?彼らは何をしたのか?」シンプルな答えが返ってきました。「彼らは何もしなかった。」拒絶されるために必要なことはそれだけです—ただ何もしないこと。それは厳粛な考えです。原因のすべてです。それは厳粛な教えです。
他のさばきについてお話ししましょう。これまで、おもに信者のさばきを取り扱ってきました。それは実際私たちに関することだからです。私たちが信者であるなら、本当に知る必要のあることです。
次のさばきは神に特別に選び分けられた民であるイスラエルへのさばきです。彼らは何世紀にもわたって不従順、不信仰であったにもかかわらず、神は決定的な拒絶をしてきませんでした。聖書は何と言っているでしょうか。
「主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。」(Iサムエル 12:22、新改訳 2017)
神がイスラエルのために成されることは、イスラエルのためなのではなく、主の御名のため、主の御名が栄光を受けるためです。神はイスラエルを特別な方法で取り扱います。私がみなさんにお伝えしたいのは、祝福とさばきの原則です。神はユダヤ人を直接祝福しますが、異邦人はユダヤ人を通して祝福します。私たち異邦人はそのことを覚えておく必要があります。私たちが受けてきたあらゆる特別な祝福は、ユダヤ人のゆえに与えられたのです。イエスはヨハネ 4:22 で言っています。
「救いはユダヤ人から出る...」
非常にシンプルな宣言です。あなたが救いによって受けてきたすべての祝福は、ユダヤ人という一つの民に対するあなたの負債です。神はあなたがそれを認識して、それに応じた行動をすることを期待しておられます。
しかし、さばきの時には、神は異邦人を直接さばき、異邦人を通してユダヤ人をさばきます。もう一 度言います。神はユダヤ人を直接祝福し、ユダヤ人を通して異邦人を祝福します。そして、神は異邦人を直接さばき、異邦人を通してユダヤ人をさばきます。ユダヤ人の歴史を何百年もさかのぼると、神は常に異邦人の国々を用いて、ユダヤ人の不従順と不信仰をさばいてきました。
次のさばきは、大患難におけるイスラエルのさばきです。エレミヤ 30:3-7 を見てみましょう。
「見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」
いかなる政府や政治家がどう考えようと、イスラエルはその地を所有すると言っています。そして、 聖書を知っている人なら誰でも、その「地」がただ一つだけであることを知っています。
私の友人の説教者はかつて言いました。「ユダヤ人の地への帰還が神からのものであるなら、そこには平和があるだろう。」彼は聖書が言っていることを知らなかったのです。なぜなら、神はユダヤ人の帰還についてこのように言っているからです。
「主がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。まことに主はこう仰せられる。『おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか。』」
イスラエルは、その地に戻ると、かつて経験したことがないほどの大きな抑圧が目の前にあるのです。
「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。」
その苦難から守られるのではなく、苦難の中から救われるのです。そこで神はユダヤ人をさばくのです。患難の最後に彼らのさばきが行われます。その後、神は他の国々をさばかれます。ヨエル 3:1-2 です。
「見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時...」
これは、同じ時期にユダヤ人が自分たちの地に帰還することを言っています。神は言われます。
「わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、 わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。」
ですから、神はユダヤ人を取り扱った後、異邦人を取り扱います。神は彼らがイスラエルを取り扱った方法という一つの基準に従って、異邦人を取り扱います。それは驚くべき事実です。神は2つの告訴の理由を持っておられます。一つは、ユダヤ人に対する抑圧。二つ目は、異邦人がその土地を分割したことです。神は言われます。「それは私の土地だ。わたしがイスラエルに与えた地だ」と。そして、いかなる人間の権威や政府も、その地を分割する権利はありません。今日何が起こっていますか。まさに、神が起きてはならないと言ったことです。その地は分割され、今も分割が続き、これからも分割されるでしょう。しかし、神がさばきのために来られるとき、その地を分割した国々をさばくでしょう。
残念ながら、その告訴リストの一番上にはイギリスが来るでしょう。なぜなら、イギリスは第一次大戦後にユダヤ人のために祖国を提供する権限が与えられ、1922 年イギリスは、ウィンストン・チャーチル一人の決定により、その土地の 76%を現在ヨルダンと呼ばれるアラブの国に割り当てたのです。ユダヤ人はそこに住むことを許されていません。残りの 24%は国連が分割しました。しかし、イエスが来られるとき、すべての国はイエスに答えなければなりません。
マタイ 25 章の国々のさばきを見ると、羊の国は御国に招かれ、山羊の国は御国から放り出されて永遠の刑罰に入ります。どう分けられるかの基本原則は、その国がイエスの兄弟たちをどう扱ってきたかです。これはとても重要なことです。イスラエルは今日の世界情勢のおもな要因であり、多くの国々が間違った側に立っているからです。イスラエルは自分たちを守ることができませんが、遅かれ早かれ、時が来て神が介入されます。
それが、第三のさばきです。第 4 のさばきは、黙示録 20 章にある「大きな白い御座」の前のさばきです。
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、 いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」
別の一つの書物があります。いのちの書です。いのちの書に名前が書き記されている人はみな、神とともに永遠の中へ入ります。残りの者はみな、永遠に神の前から追放されます。
このように、4 つの主なさばきがあります。
第一、キリストのさばき、信者だけのさばきです。
第二、大患難におけるイスラエルのさばき
第三、千年王国の始まりにある、キリストの御座の前でのすべての国々へのさばき
第四、大きな白い御座の前で、残っているすべての死者のさばきです。
これが、私が理解している神のさばきの原則です。私たちは今、「私は、神のさばきに直面する準備ができているだろうか。私は神の前に立った時に恥ずかしくないような生き方をしているだろうかと」自問する必要があります。神のさばきの前に立つという、この重要な問題について一緒に祈りましょう。
全能なる神さま、あなたのみことばはとても明らかです。今、あなたのみことばが語られました。今日語られたことばが、聖書から直接語られ、私たちの心に深く入り、真剣に自分自身の生き方を振り返ることができるよう祈ります。今、一タラントの人のために特に祈ります。主よ、どうか彼らがそのタラントを地面に埋めて隠さないようにしてください。彼らがそれを銀行に預けて、あなたが来られるときに恥を見ないように助けてください。主イエスさま、あなたは間もなく来られると何度も私たちに語ってくださっています。今、これを聞いている人が私も含めて、あなたの再臨に備えることができるよう、イエスさまのさばきの御座の前に立つ備えができるよう、私たちがみからだの中で行なってきたことを答えることができるよう、助け導いてください。あわれみ深い主イエスの御名によ って、祈ります。アーメン。
神の祝福がありますように。

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